平成29年4月のご挨拶

人身受け難し、今すでに受く

朝晩は少し肌寒さを感じますが、ようやく新旭町にも春がやってきました。例年より少し遅れているようですが各地から桜の花便りが聞かれる季節となりました。皆様はお変わりありませんでしょうか。

 さて、皆さんは御法話を聴聞する時に、講師の先生とともに「三帰依文」を唱和されると思います。この「三帰依文」の最初の文が「人身受け難し今すでに受く」という言葉です。「三帰依文」の最初に、まずいのちを頂いていることと、法に出遇っていることの感動があらわれていると思います。しかし、唱えている自分自身は本当に「人身受け難し、今すでに受く」という感動を持っているかということが問われてきます。「人身」を受けるということは、「人」としてのいのちを頂くということでしょう。

 先日、百回忌の法事を依頼され、本堂でのお勤めをさせていただきました。百年前に亡くなった方とは、一緒に暮らしたことも、話をしたことも無いのですが、亡き人のご縁をいただいて念仏が口から出て下さるのです。間違いなく百年前の方のおはたらきに出会っていると感じました。「私のいのち」は過去幾千万の人たちから運ばれたいのちであり、現在地球上のあらゆる人々との繋がりの中で支えられているいのちなのです。本当に「人身を受ける」ということはただ自分が生まれ、生活していることだけにとどまるものではないのでしょう。「人身を受ける」ということは、実は「自分になる」「自分を賜る」ということを抜きにすることはできないはずです。それは、「人身受け難し、今すでに受く」と示されていますが、私たちは「自分に生まれた」「自分としての身を頂いた」ということを喜びとしているか、また「自分を賜った」ことに対する責任を果たしているかということが問題になります。「人間は一生かかって誰かになるのではない。自分が自分になるのである。」という言葉がありますが、自分になることへの道と、本当に自分に満足する道は、仏法に出遇わなければ求めることができないと感じます。日々の生活の中で仏法を聞き、念仏を称えることが「自分になる」ことだと頂いています。