即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

当寺からのお便りです

お磨きをしました。

お磨きをしました。

  8月8日の朝8時より、お盆前のお磨きをしました。参加して頂いた方は、即得寺の聞法会の皆さんです。十四日講・光華法話会、総代の方々30名が参加して下さいました。今回のお磨きは昨年の10月の御遠忌以来ですので、例年より汚れており、磨く手に力が入りました。茶所と本堂との2カ所に分かれ、和やかなおしゃべりとともに、仏具がきれいになりました。

お磨き後は、本堂での「正信偈」のお勤めと法話の後に、冷たく冷やした「プリン」と「アイスコ-ヒ-」で疲れをとりました。皆さんの顔が明るくて、仏具も心もピカピカになりました。早朝よりご参加頂きありがとうございました。

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無量寿63号 記事

雑行を棄てて本願に帰す

   親鸞聖人の御生涯のなかで、大切な出来事は沢山ありますが、特に念仏の教えに出遇われ「求道者」としての歩みを始められたことではないでしょうか。教行信証にはその時のことを「然るに愚禿釋の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と示されてあります。親鸞聖人は九歳の時に出家し、その後二十年間におよぶ比叡山での修行を積まれました。しかし比叡山でのきびしい修行によって苦悩がなくなるかというとそうではなかったのです。二十年間におよぶ比叡山での修行を止め、ついに下山し、法然上人のもとを尋ねられたのです。

 法然上人は「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と申されたのでした。この法然上人の言葉を親鸞聖人は「雑行を棄てて本願に帰す」と表現されたのでしょう。「雑行」とは比叡山での修行と云うことを示されていますが、同時に自分の思うようにしたいという私たちのあり方が問われているのです。「雑行」とは自分が努力すれば思うようになるはずだという考えです。努力していい結果が出れば、自分の努力を誇り、上手くいかなければ、周りを否定するという思いを起こすのです。

〈雑行を棄てるということ〉

 親鸞聖人は「雑行を棄てる」とおっしゃいました。これは「雑行」を止めるということではありません。毎日の生活では「雑行」だらけの私ですが、「雑行」であると明らかにすることこそが「雑行」を離れる道であると示されたと考えます。常に損得・勝ち負けを基準に物事を判断している私たちの行為そのものが「雑行」であると示して下さっているのです。

 また、親鸞聖人は(歎異抄第二章で)「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」と示されています。しかし現実には、条件さえ整えば、自分もいろんなことが出来ると考えている「私」がいるのです。親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身」であると自身を明らかにしておられるのです。どのような行も徹底することが出来ない身であり、その行によって迷いを越えることが出来ない私ですと述べられたのです。ここに親鸞聖人は人間というものを「煩悩具足」だと捉えられているのです。

〈念仏こそが正行であり、「呼び声」です〉

「雑行」を推し進めると云うことは、私たちの生き方の基準がどこにあるかを問われるということです。世間体を気にして、競争と選別を繰り返し、本当に大切なことを見失っているのではありませんか。

 親鸞聖人は、「雑行を棄てて念仏に帰す。」とはおっしゃらなかったのです。その理由は念仏を通じて、阿弥陀仏の本願に帰ると云うことでしょう。念仏を称えることが同時に、阿弥陀如来からの「呼び声」となって私に届いて下さるのです。念仏は私にとっては、「聞名」となり私自身のあり方を「問う」て下さっているのです。その「問い」は、自分の都合を求めて止まない「私」を明らかにして下さるはたらきなのです。

即得寺住職 川那邉 章

得手に法を聞くとは

浄土真宗の教えは、「聞法に始まり、聞法に終わる」と言われています。そのため、一切の「行」を必要とはしません。大切なことは、「念仏」を通じて毎日の生活の中で「聞法」することです。さて、皆さんは「聞法」というと、どのようなことを考えられるでしょうか。  聞法には三段階があるのはご存じでしょうか。第一段階は、御法話をそのままきちんと受け止めるということです。これがなかなかできないのです。私たちは常に自分のフィルターで変換しながら物事を受け止めているのです。 第二段階は今日聞いたことと、今まで経験してきたこととを重ね合わせるということです。仏法の法話と自分の生活が重ならず、法話だけをいくら聞いても本当に聞いたことにはならないのです。第三段階はしっかりと聴聞した人は、生き方が変わっていくということです。しかし、聞法は聞法、生活は生活と切り離して聞いていると本当の仏縁に出遇ったことにならないのです。

『蓮如上人御一代記聞書』には

一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり

と示されています。これは「法を自分の思いで聞いてはいけない」と戒められたのではなく、「自分の思いでしか聞けない私たちの姿」を気付かせることとして説かれたのでしょう。 「よく聞き、談合する」ということは、自分の聞かせてもらったところを語ることでもあるし、「相手の話をしっかり聞く」ことでもあります。

 聴聞とは、わが身を通して聞いてこそ、本当に聞くべき事に出遇えるのです。


平成31年1月のご挨拶

「実りのある一年を」

 あけまして おめでとうございます。昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 さて、昨年は皆様はどのような一年を過ごされたでしょうか。私にとっては平成30年という年は生涯にわたって忘れられない年となりました。その理由は、昨年10月に宗祖親鸞聖人750回御遠忌を皆さまと共にお勤めさせて頂いたことです。また、5月に次女に第二子が、9月に長女に第二子が誕生し元気に育ってくれています。振り返れば、その一つ一つが皆さんに支えられ、多くの方々の協力によって成り立っていることを改めて感じます。

 さて新年を迎えると、「今年も良い年でありますように」と願わずにはおれませんが、「良い」とはどんなことでしょうか。自分の思いが実現することでしょうか。一般には自分の思いが実現し、いろいろなことが上手くいくことであると考えますが、本当に思い通りになることが「良いこと」であるかどうかは確かめる必要があると思います。現実の生活ではなかなか思い通りにはならず、将来のことを考えると不安はつきません。私たちは不安と迷いの中に生きています。しかしその不安や迷いを通してこそ、仏縁に出遇わせて頂くということがあると思います。親鸞聖人の『高僧和讃』には

罪障功徳の体となる  こおりとみずのごとくにて

   こおりおおきにみずおおし  さわりおおきに徳おおし

 と示されてあります。冷たい氷が多い分だけ、豊かな水があふれる。不安や迷いこそが自分自身のあり方を問い返してくれ、豊かさへと導いてくれる・・・・・。毎日の生活を通じて、常に「自分の思い通りにしたい」という自分と、「思い通りにならない現実」をどう受け止めるかが課題ですが、思い通りにならない現実から生まれてくるものを大切にできる一年でありたいと思います。

同朋大会が開催されました

 今年の近江第26組の同朋大会が、6月9日(土)に安曇川藤樹の里文芸会館で開催されました。オ-プニングでは同朋合唱団の仏教讃歌2曲と新たに今年度はよし笛の演奏を「ひつじ草」の皆さんに演奏していただきました。すてきな演奏での大会の幕開けとなりました。

 ご法話は、大分県からお越しいただいた大江憲成先生により「すでに道あり 師あり 友あり」というテ-マで、念仏をいただく意味を丁寧にお話しいただきました。

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他力とは如来よりたまわりたる信心です

浄土真宗の教えを一言で表すことは大変難しいことですが、大切な一点は、「他力」を頂く教えだということです。「他力」という言葉を誤解して用いられる方もおられます。以前、国会での答弁で、「自分の国のことは自分でしなければならぬ、他力本願では駄目だ」と発言されたことがありました。このように、自分の力だけでは間に合わないために、他の力を当てにすることだと誤解している人がいます。その誤解の原因は、すべてのことは自分中心に行われており、自分の思いどおりにできるという心があるからです。また、自分が努力すれば思いを実現できると考えています。この様な考えを「自力」というのです。 親鸞聖人は「自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。」(『一念多念文意』)と示されています。この言葉に出会いますと、まさに自分の思い通りにしようとしている自分の姿が明らかにされるのです。

 一方「他力」という言葉について親鸞聖人は、他の力を借りるという依頼心という意味で用いられたわけではありません。歎異抄には「如来よりたまわりたる信心」と示して下さっています。また「往生は、なにごともなにごとも、凡夫(ぼんぶ)のはからいならず、如来の御(おん)ちかいに、まかせまいらせたればこそ、他力にてはそうらえ」(『御消息集』)。と説いて下さっています。

 私たちは、大きな力に支えられて生きているのです。一人ひとりのいのちが与えられ、互いに支え合って生きています。吐く息、吸う息、ひとつとしてわが力でできるものではありません。他力は、その自覚の宗教的表現であるといえます。

 また他力の世界は、努力が必要ないと誤解される人がいます。受験で合格した場合は「自分が一生懸命に頑張ったからだ」と思います。しかし、一生懸命に努力できる条件(他力)があったからこそ努力できたのではないでしょうか。 

 法語には「他力の生活は最後まで、努力せずには おれない生活です」宮城 顗(みやぎ しずか)とあります。よくよく考えてみると、私を支えている大きな力(家族や様々な人)のはたらき、私にかけられた大きな願い(本願)に出遇うと、自分の力ではなかったと気づくのです。南無阿弥陀仏の念仏を頂くと、思い通りにしようとしていた私が、すでに大きな力(如来)の働きによって、思い通りになっていたのです。

 他力に生きるということを藤原鉄乗師が「念仏十唱」という詩で紹介して下さっています。

  春なれや 宇宙万有ことごとく よみがえるなり 南無阿弥陀仏。

  み仏の誓いなりせば 草も木も芽ぶき立ちつつ 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 咲く花も小鳥の声も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 生も死も三世十方 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば大空に かがやく星も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば悪逆の 提婆・阿闍世も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 世々少々の四海同朋 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば われも人も 六種四生 南無阿弥陀仏

 この詩を読んでいると、大きな世界に出会わせて頂きます。

法語こそ、仏との出遇いである

皆さんのお宅の「日めくり法語カレンダー」は活躍?しているでしょうか。たかが「日めくり」と思っていても、一ヶ月毎日忘れずにめくることがなかなか大変です。時間が無いとは言わせません。カレンダーをめくる手間は五秒とかかりません。しかし、どんな簡単なことでも、毎日続けることができない私であることがこのカレンダーを通じて知らされるのです。我が家のカレンダーは、気がついてみると二日ほど経過し、慌ててめくっています。

 法語の素晴らしさは、仏法の教えを、短い言葉として伝えられているところです。このカレンダーを繰っていると、はっとさせられる言葉に出会い、また法語に頷いている自分に出遇うのです。私たちは他の動物と異なり、言葉を持っています。人間の優れているところは言葉を用いて、物事を相手に伝えることができるということです。しかし、現実には言葉があるために、相手に上手く伝えることができないということが起こっています。

 国と国の問題であっても、会社と会社の関係であっても、隣近所の関係であっても、原点は人と人との関係であるはずです。国の問題や会社の問題、我々の生活の課題を解決する方法は様々ですが、課題の原因を相手に求めていることが多いのではないでしょうか。真実に立てば、どんな課題も自分と無関係なことはなく、解決の糸口は自分の内にあるということが知らされます。

  法語カレンダーには次の言葉があります。

 

  道は近きにあり

  迷える人は

  これを遠きに求む

 

 仏法は、言葉となって私のあり方を問うているのです。

 そして、「南無阿弥陀仏」という言葉を頂くと、損得や勝ち負けを振り回している私に、「本当に解決すべき問題はあなた自身ではありませんか」という呼び声となって届くのです。一日一日が法語との出会いであり、自分との出遇いであるのです。

仏教は自分を映す鏡である

今年度の高島秋講で、皆さんは織田先生の御法話を聴聞されたことでしょう。先生は御法話の中で『仏教とはどのような教えか』について分かりやすくお話をしてくださいました。当日の法話で話されたことは、仏教の教えは「鏡を見る」ようなことである。私たちは毎日何度も「鏡」を見ている。「鏡」を見るといっても、「鏡の品質や製品としての鏡」を見ているのではない。私たちが「鏡」を見る場合は、「自分の姿」を映すために見るのである。しかし、映し出された「自分の姿」はどこまでも、自分の外側である。大切なのは、自分の内面を映し出す「鏡」である。「鏡」がなければ自分の姿が見えないのと同じように、「仏教の教え」がなければ、自分の内面を映し出すことができないのである、とお話してくださいました。

 織田先生のお話のとおりだと考えます。私たちは、「鏡」の前では、少しすまし顔になり、自分という眼をとおして、自分の気に入った自分を見るのです。決して、自分のいやな顔や嫌いな表情は作らないと思います。泣き顔や怒ったときに「鏡」を見る人は少ないと思います。

 では内面はどうでしょうか。毎日の生活を通じて、様々な悩みが湧き起こっています。その悩み一つ一つをとってみれば、その根本に「自分の思い通りにしたい」という心があるのです。この心に気づけない限り、どれだけ悩んでも、本当の解決にはならないのです。

 宮城顗(みやぎしずか) 先生は次のように仰っています。

無明とはいったい何かと申しますと、因縁の道理に暗いことであり、したがって、我執を意味しているわけであります。因縁の道理というものに眼を開かずに、我という思いに立って、我という思いに執着している。・・・・(略)

 私たちの生き方は、本来のことが見えていない、本来のあり方を知らないということが出発点になっています。道理に生かされながら、そのことに「無知」である。「無知・無明」のため、何でも自分でできると勘違いし、ある時は有頂天になる。また、自分の都合の悪いことが起こると、その現実が受け入れられず、愚痴をこぼしたり、腹を立てたりするのです。

 仏教を学ぶということは、自分のあり方を問うことであり、問われることです。私たちは、「よく生きたい」という願いをもっています。しかし、どのようにすれば、「よく生きる」ことができるのかが分からないのです。そのため、ひとときの楽しさを求めてみたり、物欲を満たそうとするのです。

 「仏法」は、毎日の生活が事実となって、私に本当のあり方を問うて下さっているのです。「よく生きる」ということは、「満足」するということでしょう。決して「楽」をすることではありません。自分の人生に「生きる意味」を頂き、自分に与えられた課題を果たすことが「よく生きること」であると考えます。

南無阿弥陀仏の主になるなり

蓮如上人御一代記聞書には

弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主に成るというは、信心をうることなりと云々。また、当流の真実の宝と云うは、南無阿弥陀仏、これ、一念の信心なりと云々

と書かれています。

 蓮如上人は、誰でも阿弥陀如来の心を頂くことができれば、人生の主人公として生きることが出来ますと述べたものです。

 さて、「自分の人生の主人公は誰でしょうか。」という問いを持つと、そんなことは分かりきっている。「自分」だと答えるでしょう。しかし、「主人公」ということは、演劇や映画のヒーローのように、活躍し注目を浴びると言うことではないのです。主人公というと、すぐに世間から注目されたいとか、目立ちたいと考える人が多いかもしれません。蓮如上人の示される、「人生の主人公」とはどんなことでしょうか。

 よく言われることは、私たちは「誰にも変わってもらうことができない人生を生きている」ということです。私の代わりに「食事をする」「トイレに行く」「病院へ行く」など、根本的には、他の人に変わってもらうことが出来ないのです。どんなに都合が悪いときでも、自分に与えられた「課題」は自分が引き受けなければならないのです。

 私たち一人ひとりに、『この人生を、「主体的」に生きてほしい。』と願って下さっているのが、阿弥陀如来様なのです。この人生こそ自分に与えられた人生であると頷いたとき、自分の人生を歩む人となれるのです。

 法語には、「人生はやり直すことが出来ないが、見直すことが出来る」とあります。毎日の生活に振り回されていて、本当の人生の意味に出遇うことがなければ、悲しいことだと思います。

 家庭生活や職場、地域社会を通じて自分に降りかかる「課題」を解決することにかかり果てているのが、私たちの生活です。一方で、この人生では思わぬことに遭遇します。事故や災害に出遇うこともあるでしょう。生きておれば、楽しいことや嬉しいことにも出遇います。また、悲しいことや苦しいことにも出遇います。そして毎日の様々な「課題」に埋没していると、出来るだけ苦労を避け、楽な方を求めてしまうのです。しかし人生の目的は「楽を手に入れる」ことではないのでしょう。むしろ苦労を通して、本当の生き方や関わり方を学ぶのだと考えます。

 お念仏を忘れているあいだは、「課題」にいくら向き合っていても、自分の思い通りにしたいとばかり思い、なかなか上手くできないのです。

 お念仏を称えると、大切なことが見えてきます。「課題」を通じて自分の心が見えてくるのです。うわべだけの「解決」に奔走し、本当の「課題」に向き合っていないのが私です。一つひとつの「課題」は如来から頂いた呼びかけです。この「課題」に出遇わなかったら、大切なことが分からなかった。この「課題」に出遇ったからこそ、今日の私がいるのである。といただきたいものです。

(即得寺だより No.53)

記念事業のご報告

本堂の様子

即得寺での「高島秋講記念事業」について、ご報告いたします。本堂の内陣の内装工事は、七月十五日に完成を致しました。
今回の修復により、壁面には、蓮池図を描いていただきました。正面の軸は、先代住職の法名です。今回の御修復を先代住職も、御門徒の皆様とともに喜んでいて下さっていると思っています。昭和初期の即得寺の本堂には、蓮池図が描かれていたそうです。今回の修復で復元できたことを喜んでおります。

手水舎(ちょうずしゃ)

手水舎(ちょうずしゃ)は大工さんの仕事を受けて、七月中旬より八月初旬まで、瓦屋さんが熱心に仕事をして下さいました。瓦を葺いていただくと、日本建築の良さが引き立ちます。手水鉢は、以前のものを石材屋さんにクリーニングしていただきました。『安政六巳未年 藤本太兵衞 寄進』と刻まれており、歴史を感じております。

(即得寺だより No.50)