即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

当寺からのお便りです

わかきとき、仏法はたしなめ

『蓮如上人御一代記聞書』(第63通)には、『仏法者、もうされ候う。

 「わかきとき、仏法はたしなめ」と、候う。「としよれば、行歩(ぎょうぶ)もかなわず、ねむたくもあるなり。ただ、わかきとき、たしなめ」と、候う。』と記されています。 蓮如上人は、当時の門徒方に、若いときにこそ、仏法を聞きなさい」と教えられたのです。その理由は、年齢を重ねると足腰が弱り、すぐに眠たくなってしまうから」と仰っています。

 しかし、蓮如上人の本意は「若いときにたしなめ」という受け止めにあるのでしょう。それは、自分の年齢をどのように感じているかという問題もあると思います。私は、今年二月の誕生日で、満70歳を迎えることができ、家族が古希のお祝いをしてくれました。一昔前であれば、古希は長寿を祝う行事だったと思いますが、私は「まだまだ若い」と思っています。この「私はまだまだ若い、私はまだまだ元気だ」という気持ちが、「仏法はまだ早い」ということに繋がっているのではないでしょうか。

「仏法を聞く、聞法する」とはどのようなことでしょうか。法語のカレンダーには「日常生活の全体が大きな問いかけをもっている」とあります。自分の都合のよいことだけを求め、都合の悪いことから逃げているのが私たちではないでしょうか。 年齢を問わず、毎日の生活を通じて、本当に大切なことに出遇うということが願われているのでしょう。

 日常生活から何が問われているのかを確かめて下さい。私たちが「当たり前」と思っていることが、「本当に当たり前なのか」という問いかけが聞こえるはずです。その問いかけに出遇ったとき、当たり前と思っていた日常生活から大きな喜びを感じることができるのでしょう。

 池田勇諦先生は、「人間は生きている限り暇はありません。時間をこしらえなかったら、このような聞法会の場には来られません。家で寝転がっていては、ご縁には出遇えません。」と仰っています。

          (住職)

春彼岸会法要を勤修いたしました。

  3月21日に、逮夜は午後2時より、初夜は午後7時30分よりお勤めいたしました。コロナ感染が心配される中、ご門徒の皆さんがお参りくださるかを心配していましたが、写真のとおり沢山の方々が参加してくださいました。マスクを持参して頂き、本堂に入る前にアルコ-ル消毒をお願いし、ソーシャルディスタンスを確保しながらコロナ感染拡大防止に努めました。本堂では常に換気を行い、法話の休憩時間に後方のガラス戸を開放して換気を行いました。また、万が一のために参加者には御氏名連絡先を記入して頂きました。

今回は准坊守の大谷派教師補任の奉告法要を兼ねての法要で、勤行後に准坊守よりご門徒の皆様にご挨拶をさせて頂きました。准坊守は「皆様とともにお念仏をいただき、お聴聞する道を歩ませていただきたい」と決意を述べました。どうぞ皆様、お育てくださいますようお願いいたします。

今回の御法話は三重教区の藤本愛吉先生が「呼びかけに応えて」と題してお話下さいました。日常生活の中で真宗の教えに出遇うとはどのようなことかをわかりやすく教えて頂きました。印象に残った先生の言葉は「タンポポは落ちたところに花開く」です。今頂いているご縁に、しっかりと向き合いたいです。

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お盆前の大掃除とお磨きを行いました。

  8月8日(土)に藁園の世話方さん、女性世話方さん、総代さんに参加していただき、大掃除を実施しました。当日は8時に集合し、境内と庭を重点に掃除をしていただきました。天候は曇りでしたが、気温がぐんぐんと上昇し、作業をしていると汗が流れてきました。途中に水分補給をかねて休憩し、本堂の中の掃除をしていただきました。最後に恩徳讃を唱和して、記念写真を撮って解散しました。皆様ご苦労様でした。

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引き続いて、8月10日には、お盆前のお磨きを実施しました。女性の聞法会の会員さんや女性世話方さん、総代さんに参加していただきました。今回はコロナの感染防止のためマスク着用でのお磨きとなりました。皆さんの力により、ピカピカになりました。最後に皆さんと共に「正信偈」のお勤めをして終わりました。参加していただきました皆さん、ありがとうございました。

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令和2年5月のご挨拶

「ただ念仏のみぞまことにておわします」

さわやかな季節を迎えながらも、新型コロナウイルス感染拡大に胸の痛む日々です。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 6歳の孫が尋ねたそうです。「お母さん、コロナウイルスは、なんで人間のところに来たの」と。私どもの娘であるこの母親は、「人間とはどういうものかを知らせるために来たのかもね、と言ったけれど、どう答えたらよかったのかしらね」と電話で問いました。そして「人間の姿をあぶり出すためだとしても、ここまで追い込まれなければ私達は自分の本性に気づけないということかしらね」と続けました。確かに「命」を守り「生活」「経済」「政治」そして「立場」を同時に成り立たせようとすれば矛盾が生じ、自国を守ろうとすれば互いに他国と距離を置かざるを得ず、ややもすると排他的な気持ちを抱いたり、連帯よりも分離、感謝よりも利害が先に立つことも起こります。一人一人の本当の幸せは、世界協調にあるというのに、マスクの奪い合い,エゴによる衝突、感染者に寄り添うどころか差別まで起こりうるのが私達の住む世界です。そして、途上国や貧しい国、社会的弱者が一層深刻な影響を受けることにまで思いが至らない私です。

私達の宗門においては、教区や地区や組の教化事業が次々と中止され、各寺院においては、講や同朋会や仏事の縮小もやむを得ない状況が起こっています。危惧されるのは、人と人の分断、地域社会の崩壊、孤立化、お寺ばなれです。新型コロナ感染が収束した時、私達の世界秩序や、強く豊かな国とそうでない国の格差、地域の状況や人間関係、宗教ばなれや、人間の心の有り様はどのようになっているのでしょうか。私共の生き方、人間性が、根底から問われる気がします。善導大師が「機の深信」をお説き下さっていますが、今回はとことん追い込まれて「自分の都合でしか生きられない罪悪深重のわが姿」を 見せつけられたと思えます。

一方で、献身的に人に尽くし、世の中のために命がけの取組をされる姿にも触れ、私共はどのような命を生きようとしているのだろうかと考えさせられます。

「阿弥陀の世界」は諸仏がともに讃え合い、敬い合う世界であり、その様なあり方が私どもにも願われています。人間の本性がコロナに暴かれつつある今こそ、「ただ念仏のみぞまことにておわします」との親鸞聖人のお言葉に導かれ、いよいよ仏法聴聞させて頂く時だと思います。

   即得寺坊守  川那邉睦美

      

お磨きをしました。

お磨きをしました。

  8月8日の朝8時より、お盆前のお磨きをしました。参加して頂いた方は、即得寺の聞法会の皆さんです。十四日講・光華法話会、総代の方々30名が参加して下さいました。今回のお磨きは昨年の10月の御遠忌以来ですので、例年より汚れており、磨く手に力が入りました。茶所と本堂との2カ所に分かれ、和やかなおしゃべりとともに、仏具がきれいになりました。

お磨き後は、本堂での「正信偈」のお勤めと法話の後に、冷たく冷やした「プリン」と「アイスコ-ヒ-」で疲れをとりました。皆さんの顔が明るくて、仏具も心もピカピカになりました。早朝よりご参加頂きありがとうございました。

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無量寿63号 記事

雑行を棄てて本願に帰す

   親鸞聖人の御生涯のなかで、大切な出来事は沢山ありますが、特に念仏の教えに出遇われ「求道者」としての歩みを始められたことではないでしょうか。教行信証にはその時のことを「然るに愚禿釋の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と示されてあります。親鸞聖人は九歳の時に出家し、その後二十年間におよぶ比叡山での修行を積まれました。しかし比叡山でのきびしい修行によって苦悩がなくなるかというとそうではなかったのです。二十年間におよぶ比叡山での修行を止め、ついに下山し、法然上人のもとを尋ねられたのです。

 法然上人は「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と申されたのでした。この法然上人の言葉を親鸞聖人は「雑行を棄てて本願に帰す」と表現されたのでしょう。「雑行」とは比叡山での修行と云うことを示されていますが、同時に自分の思うようにしたいという私たちのあり方が問われているのです。「雑行」とは自分が努力すれば思うようになるはずだという考えです。努力していい結果が出れば、自分の努力を誇り、上手くいかなければ、周りを否定するという思いを起こすのです。

〈雑行を棄てるということ〉

 親鸞聖人は「雑行を棄てる」とおっしゃいました。これは「雑行」を止めるということではありません。毎日の生活では「雑行」だらけの私ですが、「雑行」であると明らかにすることこそが「雑行」を離れる道であると示されたと考えます。常に損得・勝ち負けを基準に物事を判断している私たちの行為そのものが「雑行」であると示して下さっているのです。

 また、親鸞聖人は(歎異抄第二章で)「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」と示されています。しかし現実には、条件さえ整えば、自分もいろんなことが出来ると考えている「私」がいるのです。親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身」であると自身を明らかにしておられるのです。どのような行も徹底することが出来ない身であり、その行によって迷いを越えることが出来ない私ですと述べられたのです。ここに親鸞聖人は人間というものを「煩悩具足」だと捉えられているのです。

〈念仏こそが正行であり、「呼び声」です〉

「雑行」を推し進めると云うことは、私たちの生き方の基準がどこにあるかを問われるということです。世間体を気にして、競争と選別を繰り返し、本当に大切なことを見失っているのではありませんか。

 親鸞聖人は、「雑行を棄てて念仏に帰す。」とはおっしゃらなかったのです。その理由は念仏を通じて、阿弥陀仏の本願に帰ると云うことでしょう。念仏を称えることが同時に、阿弥陀如来からの「呼び声」となって私に届いて下さるのです。念仏は私にとっては、「聞名」となり私自身のあり方を「問う」て下さっているのです。その「問い」は、自分の都合を求めて止まない「私」を明らかにして下さるはたらきなのです。

即得寺住職 川那邉 章

得手に法を聞くとは

浄土真宗の教えは、「聞法に始まり、聞法に終わる」と言われています。そのため、一切の「行」を必要とはしません。大切なことは、「念仏」を通じて毎日の生活の中で「聞法」することです。さて、皆さんは「聞法」というと、どのようなことを考えられるでしょうか。  聞法には三段階があるのはご存じでしょうか。第一段階は、御法話をそのままきちんと受け止めるということです。これがなかなかできないのです。私たちは常に自分のフィルターで変換しながら物事を受け止めているのです。 第二段階は今日聞いたことと、今まで経験してきたこととを重ね合わせるということです。仏法の法話と自分の生活が重ならず、法話だけをいくら聞いても本当に聞いたことにはならないのです。第三段階はしっかりと聴聞した人は、生き方が変わっていくということです。しかし、聞法は聞法、生活は生活と切り離して聞いていると本当の仏縁に出遇ったことにならないのです。

『蓮如上人御一代記聞書』には

一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり

と示されています。これは「法を自分の思いで聞いてはいけない」と戒められたのではなく、「自分の思いでしか聞けない私たちの姿」を気付かせることとして説かれたのでしょう。 「よく聞き、談合する」ということは、自分の聞かせてもらったところを語ることでもあるし、「相手の話をしっかり聞く」ことでもあります。

 聴聞とは、わが身を通して聞いてこそ、本当に聞くべき事に出遇えるのです。


平成31年1月のご挨拶

「実りのある一年を」

 あけまして おめでとうございます。昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 さて、昨年は皆様はどのような一年を過ごされたでしょうか。私にとっては平成30年という年は生涯にわたって忘れられない年となりました。その理由は、昨年10月に宗祖親鸞聖人750回御遠忌を皆さまと共にお勤めさせて頂いたことです。また、5月に次女に第二子が、9月に長女に第二子が誕生し元気に育ってくれています。振り返れば、その一つ一つが皆さんに支えられ、多くの方々の協力によって成り立っていることを改めて感じます。

 さて新年を迎えると、「今年も良い年でありますように」と願わずにはおれませんが、「良い」とはどんなことでしょうか。自分の思いが実現することでしょうか。一般には自分の思いが実現し、いろいろなことが上手くいくことであると考えますが、本当に思い通りになることが「良いこと」であるかどうかは確かめる必要があると思います。現実の生活ではなかなか思い通りにはならず、将来のことを考えると不安はつきません。私たちは不安と迷いの中に生きています。しかしその不安や迷いを通してこそ、仏縁に出遇わせて頂くということがあると思います。親鸞聖人の『高僧和讃』には

罪障功徳の体となる  こおりとみずのごとくにて

   こおりおおきにみずおおし  さわりおおきに徳おおし

 と示されてあります。冷たい氷が多い分だけ、豊かな水があふれる。不安や迷いこそが自分自身のあり方を問い返してくれ、豊かさへと導いてくれる・・・・・。毎日の生活を通じて、常に「自分の思い通りにしたい」という自分と、「思い通りにならない現実」をどう受け止めるかが課題ですが、思い通りにならない現実から生まれてくるものを大切にできる一年でありたいと思います。

同朋大会が開催されました

 今年の近江第26組の同朋大会が、6月9日(土)に安曇川藤樹の里文芸会館で開催されました。オ-プニングでは同朋合唱団の仏教讃歌2曲と新たに今年度はよし笛の演奏を「ひつじ草」の皆さんに演奏していただきました。すてきな演奏での大会の幕開けとなりました。

 ご法話は、大分県からお越しいただいた大江憲成先生により「すでに道あり 師あり 友あり」というテ-マで、念仏をいただく意味を丁寧にお話しいただきました。

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他力とは如来よりたまわりたる信心です

浄土真宗の教えを一言で表すことは大変難しいことですが、大切な一点は、「他力」を頂く教えだということです。「他力」という言葉を誤解して用いられる方もおられます。以前、国会での答弁で、「自分の国のことは自分でしなければならぬ、他力本願では駄目だ」と発言されたことがありました。このように、自分の力だけでは間に合わないために、他の力を当てにすることだと誤解している人がいます。その誤解の原因は、すべてのことは自分中心に行われており、自分の思いどおりにできるという心があるからです。また、自分が努力すれば思いを実現できると考えています。この様な考えを「自力」というのです。 親鸞聖人は「自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。」(『一念多念文意』)と示されています。この言葉に出会いますと、まさに自分の思い通りにしようとしている自分の姿が明らかにされるのです。

 一方「他力」という言葉について親鸞聖人は、他の力を借りるという依頼心という意味で用いられたわけではありません。歎異抄には「如来よりたまわりたる信心」と示して下さっています。また「往生は、なにごともなにごとも、凡夫(ぼんぶ)のはからいならず、如来の御(おん)ちかいに、まかせまいらせたればこそ、他力にてはそうらえ」(『御消息集』)。と説いて下さっています。

 私たちは、大きな力に支えられて生きているのです。一人ひとりのいのちが与えられ、互いに支え合って生きています。吐く息、吸う息、ひとつとしてわが力でできるものではありません。他力は、その自覚の宗教的表現であるといえます。

 また他力の世界は、努力が必要ないと誤解される人がいます。受験で合格した場合は「自分が一生懸命に頑張ったからだ」と思います。しかし、一生懸命に努力できる条件(他力)があったからこそ努力できたのではないでしょうか。 

 法語には「他力の生活は最後まで、努力せずには おれない生活です」宮城 顗(みやぎ しずか)とあります。よくよく考えてみると、私を支えている大きな力(家族や様々な人)のはたらき、私にかけられた大きな願い(本願)に出遇うと、自分の力ではなかったと気づくのです。南無阿弥陀仏の念仏を頂くと、思い通りにしようとしていた私が、すでに大きな力(如来)の働きによって、思い通りになっていたのです。

 他力に生きるということを藤原鉄乗師が「念仏十唱」という詩で紹介して下さっています。

  春なれや 宇宙万有ことごとく よみがえるなり 南無阿弥陀仏。

  み仏の誓いなりせば 草も木も芽ぶき立ちつつ 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 咲く花も小鳥の声も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 生も死も三世十方 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば大空に かがやく星も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば悪逆の 提婆・阿闍世も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 世々少々の四海同朋 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば われも人も 六種四生 南無阿弥陀仏

 この詩を読んでいると、大きな世界に出会わせて頂きます。