今年も夏休みを迎え、和讃講(子ども会)が始まりました。7月21日~27日までの期間小学生を対象に朝、7時45分から8時45分まで即得寺本堂で、正信偈の練習・ゲ-ム・お話・夏の宿題などに取り組んでいます。
今年はコロナの影響もあり、12名程度の参加者ですが、毎日熱心に参加してくれています。7月27日には参加者全員にご褒美のプレゼントを用意しています。
3月13日の朝8時より、お彼岸前の大掃除をしました。参加して頂いた方は、即得寺の総代・他所世話方・女性世話方の皆さんです。今年は例年になく大雪でありましたが、雪吊りのおかげで被害は少なくて済みました。雪解けの後の境内は、早くも緑色も草が顔を出していました。春の訪れを感じながらの清掃作業となりました。
休憩後は本堂のガラス戸・縁の拭き掃除です。皆さんマスクをしての作業で大変でした。
最後に記念写真を撮り、解散しました。日曜日の早朝からお集まり頂き、皆さんお疲れ様でした。おかげできれいになりました。
3月21日の彼岸会は佐藤義成先生の御法話です。午後2時から、夜は7時30分からお勤めいたします。皆様のお参りをお待ちしております。
12月3日(金)午後2時の逮夜より5日(日)の満日中までの三日間、当寺の報恩講が勤まりました。今回の御法話は大阪教区即応寺ご住職の藤井善隆先生をお招きし、「人と生まれた意味をたずねていこう」の講題でお話し頂きました。「人と生まれた有り難さ・仏法を聞くかたじけなさ・今日を生きるもったいなさを知り、苦難の人生をどこまでも仏法を聞いて歩む」「南無阿弥陀仏を、わかってもわからなくても称えるその中に、本願・真実の電流が流れてきて、本当の南無阿弥陀仏が聞こえる」「そして、目を覚まし、歩み続ける、聞き続ける」とご法話下さいました。
この3日間雨の日もありましたが、たくさんの方が足をお運び下さり、延べ人数で370人の方がお聴聞下さいました。ともにお念仏をいただき、手を合わせる喜びの大きい報恩講となりました。御法中の皆様にもお忙しいなか連日ご出仕いただきました。
この報恩講のために、大掃除やお磨き、お荘厳など準備に多くの方にお世話になりお迎えさせて頂きました。心より感謝申し上げます。
真宗門徒は報恩講にはじまり、報恩講に終わると言われます。これからいよいよ報恩感謝の日々を始めたいと思います。
11月28日(日)に報恩講前の大掃除を行いました。前日は北風が吹き天候が荒れていましたが、当日の朝には天候も回復し朝の冷え込みはありましたが、晴天に恵まれ作業が進みました。なんといっても落葉がすごく、一茶の「焚くほどは 風がくれたる 落葉かな」という句を思い出しながら掃除に励みました。同朋会の皆さんのおかげで、本当にきれいになりました。作業が終わると、皆さんと「恩徳讃」を本堂で唱和し、本堂前で記念写真を撮りました。皆さん作業の疲れも見せずいい顔をされています。同朋会の皆さん、総代、女性世話方の皆さんありがとうございました。
翌日の11月29日(月)には「お磨き」を行いました。十四日講の皆さん、総代、女性世話方の方に参加して頂きました。新型コロナの感染防止のため茶所と本堂との2カ所に分かれ実施しました。マスク越しですが、和やかなおしゃべりとともに、仏具がきれいになりました。最後の写真はきれいになった仏具が並べられており、皆さんのおかげでこんなにきれいになりました。ありがとうございました。
いよいよ、12月3日(金)から5日(日)まで報恩講をお勤めいたします。お一人でも多くお参り下さいますようお願いします。
10月3日(日)に「秋の大掃除」を実施しました。当日はさわやかな秋空のもと、天候に恵まれ作業を進めることができました。今回は、深溝の門徒の皆様と総代、女性世話方にご参加頂きました。
8時00分の挨拶の後、境内を中心に清掃し、本堂西側の庭の掃除を行いました。10時前に女性世話方さんの接待によるお茶でのどを潤しました。新型コロナ感染の影響で、なかなか外出ができず、また門徒同士の方がお互いに出会う機会が少なくなっていましたが、この大掃除ではマスクをしながら、皆さんとの会話も弾みました。写真は大掃除後に皆さんとともに記念写真を撮りました。
休日のご予定の多い中で、大掃除に参加して頂きましたご門徒の皆様に心から感謝申し上げます。
令和3年9月23日 午後2時より門徒の皆様とともに彼岸会をお勤めしました。例年は夜の法座もありましたが、新型コロナの感染防止のため一座だけの法要としました。
住職・若院のお勤めの後、住職より法話をいたしました。テ-マ「大悲の願い」について、住職の感じるままに50分程度お話をしました。私たちは悲しみと隣り合わせの生活をしています。自分自身が生活の中で抱えている「悲しみ」も大切なことだと感じます。しかし、自分の「悲しみ」を受け止め、ともに悲しんでくださる相手がいれば、私の「悲しみ」をとおして自分に出遇う契機となるのではないでしょうか。「如来の大悲」に出遇ったとき、その悲しみが悲しみのまま、「救い」となるのではないでしょうか。
如来の大きな願いに出遇うと、本当に「人」として生きているか、本当に「人」が見えているかが問わればかりです。
今回の彼岸会には、沢山の門徒の方々がお参りくださいました。ありがとうございます。