お知らせ」カテゴリーアーカイブ

当寺のお知らせです

令和6年9月のご挨拶

真宗とはどんな教えですか。

 今年の夏は異常な暑さで、自分の体調を管理することがやっとでした。ご門徒の皆さんはお変わりありませんでしょうか。

 さて、皆さんの宗旨は何ですかと聞かれれば、もちろん「真宗です」とお答えになるでしょうし、開祖は誰ですかと聞かれれば、「親鸞聖人です」と答えられるでしょう。ここまでの問いについては、明確な答えがあります。しかし次の問いはどうでしょう。真宗とはどんな教えですか。皆さんならどのように答えられますか。宗派や開祖は大切ですが、肝心なことはその教えであります。教えがはっきりしなければ、信心をいただくということもないのでしょう。

 「真宗」とは文字通り「まこと」を「むね」としていただく教えです。「真(まこと)」というのは、本当ということです。「宗(むね)」というのは、物事の中心ということです。身体であれば「胸(むね)」であり、建物であれば「棟(むね)」で、中心を表すという意味で共通しているのです。「宗(むね)」とは「拠りどころ」で、人が何を中心に成り立っているかを表します。もっと言えば、その人が何を大事にしているかということです。私にとって何を大切にしているかが明らかになるということが「真宗」ということです。

 NHKの朝の連続テレビ小説「虎と翼」では、主人公の寅子が再婚相手の家族と生活する様子が描かれています。それぞれの家族にとって大切にしてきたことが異なり、家族が分かり合うということが、努力を要することである事を知らされます。

 私たちは、何かの「拠り所」を持っていない人はいないと思います。しかしその「拠り所」が本当に人生の「拠り所」となっているのでしょうか。親鸞聖人は800年の時間を越えて、私たちに呼びかけて下さっているのです。「あなたが考えている『宗(むね)』は『真(まこと)』ですか。本当に大切にすべきことは見つかっていますか。」と尋ねてくださっているのです。

 お金や健康や仕事など自分が大切だと考えていることは沢山ありますが、それらを生涯変わらぬ「拠り所」として生きていけるのでしょうか。これらはすべて、自分の都合を投影したもので、ある場面では「拠り所」となっても、どんな状況に於いても「拠り所」とはならないのではないでしょうか。 親鸞聖人は「浄土真宗」を明らかにされ、「浄土」こそ「真実を宗とする」ことであると説かれたのです。「浄土」とは『本来の願いが明らかにされる世界(場)』ということです。「虎と翼」の寅子たち家族にとって、「本来の願いが明らかにされる世界」を互いにいただき続けることが、ともに家族として生活することであると思います。浄土は仏の世界です。南無阿弥陀仏と念仏申しあげたとき、私の価値観が転換され、仏の大きな世界に生かされるのでしょう。

令和6年8月のご挨拶

人生の目的は何ですか。

 法語カレンダ-の21日の言葉は「道は近きにあり 迷える人はこれを遠きに求む」とあります。この言葉に出遇うといつも、あなたの「人生の目的」は何ですか?と問いかけられているように感じます。皆さんにとって「人生の目的」は何ですか。高校生や大学生であれば、自分の進路決定と結びつけて考えている人がいると思いますが、それは「人生の目的」ではないのです。また、家を建てるとか、夢を叶えるということは喜ぶべきことですが、それも「人生の目的」ではなく、ある意味では人生の出発点に立ったということでしょう。

 私達は自分の人生において何を求めているのでしょう。それは「幸せ」になることではないでしょうか。老若男女を問わず、すべての人が願っていることは「幸せ」になるということでしょう。しかし、私はどうすれば「幸せ」になれるのかを知らないのです。そのため、独りよがりになったり、人と比較して「幸せ」だと考えたりするのです。また、「幸せ」を便利な道具や快適な家を求めれば実現できると考えます。しかし、自分の外にいくら「幸せ」を求めても、本当の幸せは手に入らないのではないでしょうか。どんなに快適な家を手に入れても、それで「幸せ」が実現できるわけではありません。その家に住む家族一人ひとりが、生活の中で何を大切にするか、大切にしなければならないかが、分かっていなければ「幸せ」は実現しないのでしょう。逆に、幸せを実現するために新しく快適な家を建てても、家族が争い、けんかを繰り返しているのでは「幸せ」に背を向けた生活になるのでしょう。

 「幸せ」を求めている私達に対して、仏さまは、「道は近きにあり」と示されているのです。「幸せ」はあなた自身の中にあるでしょう。仏さまはあなたにはこの「幸せ」が見えないのですか、と尋ねてくださっています。「人生の目的」についても、目先の予定表を追いかけてはいますが、人生全体を通して、何を成し遂げるために生まれたのかが問われているのです。  「幸せ」とは自身に満足しているかどうかではないでしょうか。多くのご縁によってこの身が生かされているという事実に気が付いた時、「幸せ」を実感できるのではないでしょうか。毎日の生活を通じて「感謝」の心があるか、何を大切にすべきか。どんな自分になりたいのかが問われるとき、同時に「人生の目的」が明確になるのでしょう。

花まつりを行いました

4月29日朝9時より、花まつりを行いました。当日は天候にも恵まれ、沢山の小学生の参加がありました。全員で「はなまつり行進曲」を歌い、若院の「

お釈迦様についてのお話」やゲ-ムで楽しい時間を持つことができました。写真は当日の様子です。

春の大掃除を行いました

5月11日(土)に「春の大掃除」を実施しました。当日はさわやかな青空のもと、天候に恵まれ作業を進めることができました。今回は、小池の門徒の皆様と総代、女性世話方にご参加頂きました。

8時30分の挨拶の後、境内を中心に清掃し、本堂西側の庭の掃除を行いました。ふだん行き届かないところを丁寧にお掃除下さいました。門徒さん同士が互いに作業を通じて出会いの機会となり、皆さんとの会話も弾みました。大掃除後に皆さんとともに記念写真を撮りました。

休日のご予定の多い中で、大掃除に参加して頂きましたご門徒の皆様に心から感謝申し上げます。

令和6年5月のご挨拶

念仏もうしそうらえども

歎異抄の第九章には、親鸞聖人と唯円さんとの会話文が記されています。その内容は唯円さんが親鸞聖人を前にして、思い切って日頃疑問に思っていたことを告白したことです。唯円さんは親鸞聖人の教えを受けて、念仏に出遇われたときは大きな喜びに包まれていたのですが、月日が経つうちにその喜びが薄れてきたのです。歎異抄の第九章には「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう」と示されています。唯円さんの疑問は「念仏をしても喜ぶ心がわいてこないのはどうしてでしょう」ということです。親鸞聖人はこの問いに対して直ぐさま「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と応答されています。親鸞聖人は唯円さんの問いを否定することなく、「親鸞も唯円さんと同じように感じていました」とお答えになったのです。

 私は他の人から質問されても、親鸞聖人のように他の人の質問を自分の「問い」とすることができませんでした。場合によっては質問を軽んじたり、後回しにしたりするのです。他の人からの質問は、他の人だけの疑問ではなく、実は私自身への大切な「問い」だと教えられます。また、その「問い」に向き合うことが、その人と向き合うことになるのではないでしょうか。「問い」はすぐに答えを出すことができる場合もありますが、多くの場合はすぐに答えを出すことができないのではないでしょうか。しかし、その「問い」を一緒に考えていく姿勢こそが求められているのではないでしょうか。

 親鸞聖人は唯円さんの「問い」に対して、「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり」と唯円さんにお話しされています。喜ぶべき心をおさえているのは、実は私の煩悩であると示されているのです。喜ぶべきことは沢山ありますが、その一つひとつが「当然だ」と考えているのです。そのため、毎日の生活に喜びも薄れ、感動しなくなっているのです。 松井憲一先生の「歎異抄講話 (法蔵館)」に次の詩が掲載されています。

       どのような不幸を吸っても        吐く息は感謝でありますように
             すべては恵みの呼吸ですから  

 唯円さんのこの「問い」は、私自身への問いでもあるのです。それは、「あなたは一体何を喜びとしていますか」「毎日、念仏と共に喜びのある日暮らしをされていますか」と問いかけて下さっているのです。

 本当の喜びとは何かと探している間は見つからなく、気がつけば「お念仏をいただいていることがすでに喜びである」ことを感じます。  孫の「おいしいと、うれしいとは似ているよね」ということばにハッとさせられました。

令和6年4月のご挨拶

お念仏と天職

 歎異抄の第八章には、「念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。」と記されています。これは私が念仏を称えるにいたった背景が考えられます。自分に先だって、祖父祖母や歴史上の様々な方々が念仏を喜んで称えてくださった。そしてそのはたらきが私に届き、私の口から念仏が声になったということではないでしょうか。このようなはたらきを他力といいますが、板東性純先生は『新講歎異抄』(草光舎発行)で次のように述べられています。

 「これは職業選択にしてもそうだと思います。自分はこの職業に就いた。これは私が選んだのである。自分自身の誇りとして誰でもがそういう気持ちを持つものだと思います。でもなぜこの職業を選ぶに至ったかという由来まで思いをいたしますと、これといってきめることのできない多くの方々のご縁が係わっています。親がこの道に就いていた、自分は小さいときから日夜その親の姿を見ていたとか、あるいは自分がたまたまご縁があって知り合った先生から、近所の人とか先輩とかいろいろな方々の影響が強かったのでその気になった。そういうことを考え合わせると、最初から自分で選んだとは言えなくなります。多くのご縁のおかげで、この職業を選んだと言わなければなりません。昔は職業を天職という言葉で表しましたが、なぜ天が就くかと申しますと、自分が選んだように思っているけれど、実は選ばされたのだ。数え切れないいろいろなご縁によって自分が生涯の道とするこの職業を選んだのです。(中略)自分がこの職業を選ぶに先だって、自分に訴えかけるものが先にあったのだ。それにこたえて自分はこの職業を選び取ったのだ。天が私に与えてくださった職分ということで、天職というのだとおもいます。職業というものは、自分が選んだという事実に即して与えられたという事実がそこにある。自分が選んだか他が選んだかという二つのうちのどちらかではなくて、相即しているわけです。自分が選んだままが選ばされた。自分に先立って因縁が、いろいろなご縁が呼びかけてくださったままに選んだ。それがたまたま自分の従事している職業であるということになれば、二つは決して別の出来事ではなくて、この事実が、自分が選んだのでありかつ、選ばされたことである。一つの事実の中に自分だけではない要素が見出されるわけである。」

 念仏も職業も、私にまで伝えられたことに改めて驚くとともに、このことに出会わなければ今の自分は存在していないということが明らかになるのです。そしてそれは、私の力を越えて私を育て続けてくださっているはたらきです。「はたらき」の大きさに気付くとき、ただ南無阿弥陀仏とお念仏をいただくばかりです。

令和6年2月のご挨拶

「罪福信」

 元日に起こった能登半島地震は私達の生活に大きな衝撃を与えました。被災された方々へ心からお見舞い申し上げます。この度の地震は家屋の倒壊、火災、道路や水道、電気など生活の根幹に関わるものが損傷し、一ヶ月たった今も被災地の皆さんの生活に大きな制限を与えています。一日も早い復旧、復興を願うばかりです。

 さて、親鸞聖人のお書きになられたご和讃の中に、「疑惑和讃」と名づけられた和讃があります。「疑惑」といえば、普通私達が抱く「疑い」に違いありませんが、仏教では仏様の心と凡夫の心との間に生じる壁だと考えます。一般には疑惑を抱くといえば、猜疑心だと思いがちですが、宗教上の疑惑は自分でも気がつかない疑いです。それは、非常に深い我執に基づく疑いです。

    不了仏智のしるしには  如来の諸智を疑惑して  
     罪福信じ善本を  たのめば辺地にとまるなり                                        
                     正像末和讃(疑惑和讃第一首)  
         

 仏様の仏智を覚っていないしるしには、仏様の様々な智慧の徳を疑っている。そのため罪福を信じ、自分が善を積めば自分の思うようになると思うのは、浄土の辺地にしか生まれない。

 という意味です。

 罪福心というのはどんなことでしょうか。NHK出版、『親鸞和讃』 (板東性純著)には、「『罪福信じ』とは、この世の因果の道理を信ずることです。悪いことをすれば苦しい結果を得る。よいことをすれば楽しい結果を得る。(略)つまり自分自身の意志で悪いものを避け、よいものを選び取ることができると信じている。自己過信といいますか、自分で何でも自分の運命は左右できる、自分がいちばんの主体だという考えです。」と記されています  私達は新しい年を迎えると、「いい年になりますように」と手を合わせ、時には「いい学校に」「いい会社に」「いい人に」と思いを重ねています。しかし、その「いい○○」とはどのようなことを言うのでしょうか。自分の都合を基準にしている願いではないかと、問い返されるのです。罪福信を求めている間は、仏様の願いが届かないのです。

令和6年1月のご挨拶

「いのちの重み」

 あけましておめでとうございます。平素はご門徒の皆様方に大変お世話になりありがとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。

 さて、昨年は皆様にとってどのような一年でしたか。世界情勢を見るとウクライナでの戦争が継続される中で、中東ではイスラエルとパレスチナとの紛争が始まり、現在でも終結が見通せない状況です。両地区では毎日戦闘により多くの人々が負傷し死亡しています。その多くは戦闘員以外の民間人が被害を受けているのです。ニュ-スに流される光景は建物が破壊され、人々が逃げ惑っている姿です。そこには敵味方、また民族や歴史、文化の違いはあっても、同じいのちを生きている者同士といういのちの平等性が見出されないのです。同じ人間であるという視点を持たない限り、戦争を止めることはできないのでしょう。

 その意味では現在ほどいのちが軽んじられている状況はないのではないでしょうか。人権の尊重といいますが、最も尊重していない状態が「戦争」でしょう。それはいのちを奪い、家屋を奪い、家族を奪い、食料を奪う(与えない)状況が示しています。

 仏教の基本は「不殺生」です。すべての命を奪うことを戒めています。しかし一方では、私達は食物として多くのいのちを奪い続けているのです。私のいのちは自分一人のものではありません。先祖からのいのちを受け継いだものであり、また毎日多くの支えにより生かされているいるいのちです。

 カレンダ-の表紙に「今日という日はたったの一日 賜りもののいのち輝け」と記されています。いのちが輝くとはどんなことでしょう。私にまでいのちを運んでくださっている方々のはたらきに出遇い直すということでしょう。その方々の存在の大きさに気付いた時、本当のいのちの重みが感じられ、いのちが輝くと思うのです。

 阿弥陀様の眼からは、私達の姿はどのように映っているのでしょうか。いのちを軽んじ、互いに争いを繰り返す私達に対して、「大悲の心」をもって本来の人間として生き方を願われているのでしょう。

   お念仏を申す時、賜りもののいのちであり、賜りものの一日であることに気付かされます。

令和5年12月のご挨拶

「報恩と知恩」

 寒さが一段と進むと、いよいよ「報恩講」をお迎えする時期だと感じます。皆様はいかがお過ごしでしょうか。先日本堂に防雪・防風対策としてビニ-ルカ-テンを設置していただきました。昨年も本堂の階段や縁に雪が吹き込み、ご不便をお掛けしておりましたが、改善できたことを喜んでおります。

 さて、報恩講の大切な目的は「恩」を知らされることだと思います。私たちが生活していくためには、無数のいのちの恩恵を受けています。その意味では「恩」は私を成り立たせている根本であり、「恩」に対する謝念の心が人間としての基本ではないでしょうか。

 一方、「報」の文字は、報(むく)いるという読み方ができますが、他には報(しら)せる。と読むことができます。火災報知器や報告、一報などは報(しら)せると言うときに用います。「報恩」とは恩に報いるという意味ですが、それは私が頂いている「恩」の大きさに気づくことがなければ始まらないのです。その意味では「報恩」は「知恩」があって成り立つと言えます。私が今日までいのちをいただき生活しているのは、どれだけの「恩」をいだいているかを知ることでしょう。親や家族、地域や職場、自分の生活を支えている様々な方の「恩」、また、毎日、食事となっている様々な「いのち」の「恩」も感じずにはいられません。

 本堂に静かに座りご本尊を前にするとき、恩に報いということ以前に、「忘恩」の我が身であることが報(しら)されます。そして「忘恩」の我が身が、今日も阿弥陀様のご恩によって生かされている事実に、ただ念仏を称える以外にないのです。・・南無阿弥陀仏・・

令和5年11月のご挨拶

享受する

  ようやく秋らしさを感じる日々となりました。四季の移り変わりの中にあって、皆さんはどの季節が好きでしょうか。以前この質問を受けたときに、「どの季節もそれぞれいいと思います」と答えたら、その中でいちばん好きな季節はと更に質問されたので、「秋でしょうかね」と答えました。更に理由を尋ねられたので、欲張りの私は「勿論、秋は 食欲の秋ですから」と答えました。皆さんはどんな秋を感じておられますか。秋は「芸術の秋、読書の秋、スポ-ツの秋、実りの秋」と何か豊かな心を感じさせてくれます。

 さて「秋を楽しむ」といいますが、木々が次第に色づき、自然の移り変わりの中で生活していることを感じずにはおれないのです。「享受」という言葉を辞書で調べれば、『精神的・物質的な利益を受けて、それを味わい楽しむこと』と示されています。紅葉を楽しんだり実りの秋を喜んだりすることは、文字通り「享受する」ことです。それは、秋という自然のサイクルによってもたらされる恩恵を私達は受けているのでしょう。最近ではこの四季の変化がある日本でも、気候変動の影響で徐々に春や秋が短くなってきたように感じられます。

 世界の情勢を見ると各地域での戦争のニュ-スが報道されています。毎日失われる「いのち」を考えると、一日も早い停戦と解決が望まれます。我が国は第二次大戦後は平和主義国として今日を迎えています。「平和を享受」しているのですが、それが当たり前になって、「平和ボケ」になっていないかが問われます。多くの人が今受けている苦しみにどれだけ共感できているかが問われていると思います。

 季節の移り変わりを享受することも、平和を享受することも、その利益がどのようにして私にまで運ばれてきたかを尋ねなければならないのでしょう。今日の平和は、戦争での多くの犠牲者の上に成り立っていることを忘れてはならないでしょうし、また、自然の恩恵を受けることは、私達の生活のあり方に対しての問いかけを伴うのではないでしょうか。

 「享受」することはただ単に楽しむということだけではなく、いただいていることの大きさに出遇うことではないでしょうか。