令和3年1月のご挨拶

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

 昨年の報恩講の開催についてはいろいろ迷いましたが、皆様のお陰でお勤めをすることが出来ました。御門徒の皆様に感謝申し上げます。コロナの不安があるために、お参りが少なくなるかと思っていましたが、たくさんの御門徒の方に足を運んで頂き、お堂いっぱいの参詣者に恵まれました。岐阜県大垣教区の譲 西賢先生による熱心なご法話に出遇わせて頂き、お参り頂いた多くの方が気づきと感動、喜びをお受け取りになったのではないでしょうか。お参りがかなわなかった皆様には、次の御縁(春の彼岸会法要の予定)に出遇って頂けるように念じています。


「生かされている事実に立つ」

〈ウイルスは戦う相手でしょうか〉

さて、昨年を振り返りますと、新型コロナに翻弄されたかのような一年であったと思います。新型コロナ対策の厄介なところは、世界中で感染が広がっており、一国だけの対策では追いつかないということでしょう。しかも国による対応がまちまちで、国によっては「コロナとの戦争」を口にする指導者も現れました。感染学の専門家、長崎大学の山本太郎先生は「大切なのはウイルスや微生物に打ち勝つことではなく、それらと「共生」の道を模索していくことだ」と述べておられます。山本先生は「ウイルスや細菌のような微生物は地球が誕生してから10億年後に生まれ、人間よりも30億年も前からいた存在である」と示されています。そのことを忘れて、人間の力でコントロ-ルできるかのように思うのは、間違いではないでしょうか。コロナウイルスを縁として、本当に問われることが別にもあるように思えます。

〈新型コロナから問われる〉

新型コロナは私たちの生活を大きく変えました。「自粛」という名で行動を制限し、人間相互の関係がこれまでのように築けない状況を引き起こしました。いろいろなことがコロナから問われていると感じます。都合のいいことを求めている自分があぶり出されるのです。例えば行事ひとつにしても、行うか否かが問われます。また、参加すべきかどうかをその人の事情に応じて判断しなければなりません。困難な事態にあるからこそ、本当に大切にすべきことは何なのかをその都度、自分自身に問いかけられるのです。本来人間としてどうあるべきかが問われ、互いにひとりの人間として尊重されることが願われているはずです。

〈差別の心に気付く〉

新型コロナウイルスは感染力が大変強いウイルスですが、同時に差別という心の感染を引き起こすところに問題があります。感染者に対しての差別や、医療従事者に対する差別が引き起こされています。人間には自分の身を守るために、都合の悪いものを排除する心があります。山本先生は「いちばん怖いのは、ウイルスは悪い、感染した人も悪いと一方的に決めつけて、それを攻撃する流れになっていくことです。病原菌ともどこかほどよいところで折れ合えないかと考える。その方が全体として生きやすい世の中になっていくのではないかと思います。」と示されています。私たちは善悪を分別し、その分別にとらわれた生き方になっているのではないでしょうか。「えらばず、きらわず・みすてず」と、全ての人を平等に救う仏の心に照らされ生活したいものです。

〈いのちが輝く〉

毎日のニュ-スでは1日の感染者数や死亡者数が報道されています。感染者数を見ては、不安な心が振り子のように動いています。しかし蓮如上人の「御文」には、「この頃疫病で亡くなる人が多いが、実は疫病で亡くなるのではなく、人は生まれた時から必ず死ぬ存在である。」という言葉があります。たとえ新型コロナのワクチンが開発され、接種が行われたとしても、私自身の病・死の問題は解決したことにはならないのです。一時は新型コロナについての不安は解消できますが、全ての病気や死を克服できるわけではないのです。田中美知太郎先生は「死の自覚が生への愛だ」とお話しされています。自分で生きていると考えるよりも、「不思議ないのちを頂いて、生かされている」という事実に立った時、このいのちが幸せないのちとして輝くのではないでしょうか。

※(文中の山本先生の言葉は、東本願寺発行 月刊同朋10月号の「ウイルスと人間の生き方」の記事から引用させて頂きました)