死を通じて「不思議」に出遇う
私たちは日々の生活の中で、様々な人の死に出遇います。その中でも身近な人の死に出遇うと、「あんなに元気であったのに」「なぜ死んでしまったのか」という思いが込み上げてきます。大切な人が亡くなったという喪失感と無常を感じます。
また、身近な人が亡くなって初めて、生きていること自体が奇跡だったのだと気付かされ、当たり前だと思っていたことが、本当に不思議なことであったと気付かされます。
不思議とは事実である
不思議ということについて、宮城顗先生は「不思議というのは摩訶不思議ということではないのだ。仏教の不思議は、ありえないようなことが起こることではないのだ。仏教の不思議というのは、事実なのだ」とおっしゃっています。皆さんは、不思議をどんな時に感じられますか。思ってもいなかった出来事に遭遇したときでしょうか。また、超能力などの現象でしょうか。これらは自分の思ってもみなかったことを理由に「不思議」と思い込んでいるのです。しかし仏教では「事実」であると示されています。その事実の根本は、「今、生きているという事実です。」自分が自分として生きている、存在しているという事実です。
亡き人の声を聞く
親、子ども、配偶者、兄弟姉妹など最も身近であった人が亡くなった時は、その人が生きておられた「不思議」と出遇ってきたことを知らされるのです。 そこで私たち自身の問題となってくることは、亡き人の「人生」から何をいただいていくか、ということではないでしょうか。「願い」に耳を傾け安心して生活できる「心の立脚地」を確かなものにしていかなくてはなりません。『正信偈』には、「本当の願いを信じ、念仏申せば浄土に生まれる」(憶念弥陀仏本願 自然即時入必定)と書かれています。
今こそ念仏を相続し、ご一緒に聞法してまいりましょう。