「浄土」
先月の台風での被害はどうでしたでしょうか。お寺では本堂の一部が風で少し被害を受けました。
さて、皆さん「浄土」とはどのようなことだと考えられますか。世界に目を移すと、2月から始まったロシアとウクライナとの戦争は、この世の地獄ではないでしょうか。本当は両国の人々は、一日も早く戦争を終えてほしい。平和な時を取り戻したい、互いに仲良くしたいと思っているはずなのです。
池田勇諦先生は著書「浄土真宗入門」(東本願寺出版)で次のように示されています。「私は「浄土真宗」の四文字を次のように受けとめています。すなわち、「真宗」は「問い」であり、「浄土」は「答え」であると。・・・略・・・そして真宗とは、人生の真実の宗は何か、つまり私たちは何を根拠に生き死にするのかという、人間にとって根本的な問いかけであります。この根本的な問いに、阿弥陀仏の本願は「浄土」という二文字をもって応答されている。そのことを明らかにされたのが親鸞聖人でした。」
池田先生が述べておられるように、本当の問いがないところには、「浄土」は存在しないと思います。そのため、「浄土はどんなところか」「浄土は本当にあるのか」という質問を受けますが、浄土があるかないかを論じるより、浄土を必要とするかどうかが問われると考えます。
阿弥陀の浄土は「願いの世界」です。仏が私たち人間に何を願いとされているか。その願いに出遇う場所が「浄土」ではないでしょうか。阿弥陀仏の願いの第1番目は、「たとえ私が仏を得るとしても、私の国に地獄、餓鬼、畜生があるならば、私はさとりをとりません」とあります。これは、地獄、餓鬼、畜生は痛ましいことであると示されています。しかし私たち人間のあり方を考えると、戦争や争いを行い、自己中心的な考えを止められないのが現状です。
「浄土」とは私たちが人間らしく生きることを成り立たせる場所なのです。本来の私自身を成り立たせるような場が「浄土」であり、「浄土」を見いだすことが、一人ひとりの人生(いのち)がいちばん輝く世界だと感じます。
池田先生は、「浄土へ往生すると言うと、「いつか」「どこか」いいところへ行けると考えがちです。しかし浄土が私たち自身のこととして明らかになってくると、「いつか」「どこか」ではなく、「いま」がいちばん適切なときであり、「ここ」がいちばん大事なところであることが見えてきます。」と述べられています。
「いま」「ここ」をどのような場としているか、本当に大事な場となっているかが、問われているのでしょう。