令和7年6月のご挨拶

「お米」

 最近お米についてのニュ-スが多くなり、本人の失言により農林水産大臣が交代するという事態が起こっています。お米に対しての関心が高まる中、お米がなくてはならないものであることを改めて実感させられます。

 我が国の歴史を振り返ると、紀元前2~3世紀に大陸から稲作が伝わり、人々の生活はそれまでの狩猟生活から農業を中心とする生活に変わりました。弥生時代には、稲作のために土地の開墾や共同作業が行われるようになりました。食料を蓄えることができるようになったため、人々の生活は豊になりました。一方で田畑を確保するために争いが繰り返され、貧富の差も生じることになりました。お米を手に取ると、遙か弥生時代にまで遡り、当時の人々の苦労が感じられます。

 「米価」を巡っての庶民の活動としてよく知られているのは、1918年に富山県で起こった「米騒動」です。当時の日本は第一次大戦に参戦したため、物価が高騰し、特にお米の価格は急激に高くなり、「米騒動」が引き起こされたのです。この騒動により時の政権「寺内内閣」は総辞職しました。お米の価格が、政治を動かす原動力になったわけです。

 「お米」について前住職は、「白いご飯さえあれば、おかずはいらん」とよく言っていました。戦時中を生きた父は若い頃に辛い経験をしたのだと思います。昭和一桁生まれの方にとっては「白いご飯」は当たり前ではないことが生活を通してよく分かっていたのでしょう。

 さて、今回の「米騒動」で政府は、備蓄米を放出することによって米価を引き下げようとしています。米価を引き下げれば問題は解決するかというと、そう簡単な問題ではないと思います。お米は生産者である農家の方にとっては命がけで育て上げたもの。また、採算が合わなければ米作りを止める農家も出てくるのではないでしょうか。それでなくても、農業全般に言えることは、後継者不足により今後の生産が見通せないという不安があることだと思います。「米価」を論じることも大変重要だと思いますが、価格だけに目を奪われると大切な事を見落とすことにならないか心配です。

 金子大栄師(真宗大谷派僧侶、元大谷大学名誉教授、1976年没)は著書「正信偈新講上巻」で帰命について述べておられます。『帰命ということは「たのむ」ことです。「たのむ」という言葉の意味の第一は「田の実」すなわち米のことです。米がなければ生きておれない、命の綱である。だから「たのみ」とは、それが無ければ生きていけないということで、「田の実」という意味から来ておる。』 金子先生は仏さまのはたらきを分かりやすく「お米」を例として示され、仏さまのはたらきなしには生きていけないことを教えてくださっているのです。

 今回のお米を巡る「騒動」も、普段は当たり前だと考えていることについて、大きな問いをいただいていると感じます。「米価」も大切な事ですが、それ以前にお米を口にできることを喜び、お米のいのちをいただいていることを忘れてはならないと思うのです。