令和8年4月のご挨拶

卒業

 今年の3月は湖西中学校と新旭南小学校の卒業式に参加しました。卒業生の呼名が行われると、「はい」という返事が体育館に響き渡り、成長された姿がうかがえました。特に感動したのは、卒業生全員での式歌の合唱です。私たちの時代は卒業式といえば「仰げば尊し」でしたが、小学校、中学校ともに、「旅立ちの日に」を生徒代表のピアノ伴奏で歌われ、式場一杯に歌声が広がりました。

 この春に卒業される皆さんには、それぞれの学校で経験され、学ばれたことを大切に、4月からの新しい生活に臨んで頂きたいです。

 さて、学ぶとは一体どのようなことなのでしょう。伊藤元先生は『仏法とはどのような教えか』(東本願寺出版)で、室町時代の能を大成した世阿弥の『花鏡』という書物について紹介されています。

 「当流に万能一徳の一句あり。初心忘るべからず。

  この句、三ケ条の口伝あり。

  是非 初心忘るべからず。 時々初心忘るべからず。老後初心忘るべからず。」

 この本の中で伊藤元先生は次のように述べておられます。「初心とは、初々しい心ということではありません。これは初心者という意味です。自分の芸が未熟であるという事を忘れるなという。そして『初心忘るべからず』は三つのことで言っている。一つは『是非初心忘るべからず』。是非というのは、いい意味と悪い意味という事。言葉が略されていますけれど、若年の時の芸がいい意味でも悪い意味でも未熟だった事を忘れるなと。いい意味とは、芸が未熟な時は知りませんから大胆な舞ができます。ビクビクしないでできるんです。その次は『時々初心忘るべからず』。時々というのは、ある本の但し書きに『ときどき』と読むなと書いてあるんですね。その時期その時期という意味だと。三十代なら三十代、四十代なら四十代になってわかる未熟さがあるというわけです。その時期その時期の自分の芸が未熟であるという事を忘れるなと、こう言ったんですね。三つめは非常に難しいですね。『老後初心忘るべからず』。これはすごい言葉ですね。これだけは『花鏡』で解説しておりません。仏教では『老』という字の使い方に二通りあって、老いるという意味で使うのと、もう一つはその道を極めた、その道に長けている、それを『老』と使います。ここは後の意味でしょう。道を極めてしまった後の未熟とは何かというと、それは『慢心』なんです。驕りです。自分は知っているという驕りがある。それを忘れるなと言うんです。だから『いくら学んでマスタ-しても、自分は未熟なんだと言うことをずっと心の奥にたたき込んでおけ。そしたら死ぬまで学べる』と彼は言うんです。」

 法語には「人生に卒業はない」とあります。人生を通じて、出遇い続け、学び続けことが、そのまま育てられることだと感じます。日々の生活の中で、初心を忘れずに過ごしたいものです。