令和4年2月のご挨拶

「鬼退治」

    昨年の暮れに面白いテレビ番組があったので録画しておき、先日ようやく視聴することができました。番組の名前は「昔話法廷」です。ご覧になった方もおられると思いますが、昔話で登場する主人公を法廷で裁くという内容です。桃太郎やカチカチ山のウサギなど昔話の主人公で、誰でもが知っている登場人物(動物?)です。私たちが知っている多くは主人公が敵討ちを行い、お爺さんや村人を助けるというスト-リ-になっています。その登場人物の善悪を疑ったことなどなく、常に「めでたし、めでたし」で物語は終わるものだと思っていました。

しかしテレビ番組の「昔話法廷」ではなんと桃太郎が裁かれるのです。その罪名は、鬼に対しての殺人傷害罪と鬼の財宝を奪った強盗罪です。この番組を視聴して、桃太郎・村人の立場でしかこの物語を読んでいなかった自分に気づかされました。「鬼」はやっつけられて当然だという先入観があり、鬼の財宝は桃太郎が奪って当然だと思っていたのです。「桃太郎や村人」から鬼を見れば、鬼は自分たちにとって「悪」そのものであったのです。一方「鬼たち」から桃太郎や村人を見れば、自分たち鬼を差別し、自分たちの存在を否定する「悪」でしかないのです。(この番組では桃太郎自身も出生における差別に苦しみ、人として葛藤する姿が描かれており、考えさせられました。)

 仏教では、私たちには根本煩悩としての自我意識が存在し、常に善悪を作り出し判断していると示されています。自我意識はいつでも自分は世間から「善い人、善人」と思われ優位に立ちたいと考え、逆に「善くない人、悪人」と思われれば世間から排除され居場所がなくなると恐れるのです。また、自分だけではなく、他の人に対しても「善悪」を判断します。その基準はどこまでも「自我意識」を中心にするため、自分の都合によるのです。そのため、同じ人でも自分の都合次第では善人になったり悪人になったりするのです。

曇鸞大師は『浄土論註』において「邪見憍慢の悪衆生」ということを問題にしておられます。邪見憍慢とは、自我意識に立って物事を「分別」し、それが正しいと思い込んでいる私たちの姿を問題にされた表現です。善悪、損得、老若、長短、などを「分別」し、善いと思うこと(人)は取り、善くないと思うこと(人)は捨てていく生活を続けていくことに何の疑問も感じていないことに気づかされます。

    桃太郎が鬼退治という方法をとるのではなく、鬼と共生する世界を作ることが本当は願われていたのではないでしょうか。「鬼」を作り出すのも、実は私共の自我意識だったと気づかされるばかりです。