令和7年7月のご挨拶

悪衆生とは誰のことか

 正信偈のお勤めで、毎日拝読している言葉です。

 皆さんは正信偈を読んでいると、「悪」という文字が目に入ってきませんか。「邪見憍慢悪衆生」、「一生造悪」、「極重悪人」など「悪」という文字が正信偈には用いられています。私たちが「悪」と聞くと、法律に反する行為や犯罪を犯すことだと考えます。確かに新聞やテレビの報道を見ていますと、「誰でもいいから」という理由で犯罪が行われたり、金銭のトラブルで命を奪われたりということが実際に起こっています。では親鸞聖人が説かれた「悪」とは一体どのようなことなのでしょうか。仏教で言う「悪」は、人と人が傷つけ合うことであり、互いに苦しめ合うことです。この「悪」の在り方は、人と人との関係だけでなく、国際社会でも起こっています。「自国の平和を守るため」「やられる前にやっつけるべきだ」という考えに立ち、平和を実現するために相手国へミサイルを落としているのです。

邪見な見方に気付かない。 

 私たちは自分中心の物の見方から離れることができません。いつも自分は正しいという考えに立ち、行動し、その結果、他の人が犠牲になっていても自分を正当化するのです。他国の紛争について報道されると、愚かな行為であると感じると同時に、人々が戦火の下でどれだけ苦しめられているかを想像します。しかし、戦争であれ、人間関係の摩擦であれ、当事者は自分が正しいと考え、行動しているのです。一番愚かなことは、自分の行為が愚かであることすら気が付いていないことです。

愚かであるから教えが必要なのです。

 親鸞聖人は私たちの在り方を「無明」と示されました。「無明」とは、大事なことが見えていないということです。さらに、見えていないということも、見えていないのです。そのため、自分の偏った見方「邪見」を本当に正しい見方だと思い込むのです。人と仲良くしたいと思っていても、「あの人は気に入らない」「あの人は邪魔だ」と言っている以上、本当に分かり合えることはできないのでしょう。仏の教えは、私たちに誤ったものの見方をしている、間違っているぞと教えてくださることです。

念仏と共に歩む人生。  

 お念仏を称えたら、欲がなくなったり、腹が立たなくなったりすることはありません。また、お念仏によって、都合のよいことを実現できるわけでもありません。お念仏は自分自身の在り方を照らしてくださるはたらきです。私自身が物事の本質を見失い、自分の都合だけを主張していることに気付かさせてくださるのです。

 お念仏により、限りない「いのち」の世界を感じると、お一人おひとりの中に「いのち」を見出し、同じ「いのち」が自分にまで運ばれていることに驚くと同時に、頭が下がります。与えられた一日一日をお念仏と共に歩むことが願われているのでしょう。