亡き人との出遇い
朝夕に肌寒さを感じる季節となりました。ご門徒皆様にはお変わりありませんでしょうか。一日の寒暖の差が大きく体調管理に気をつけていただきたく存じます。
さて、坊守が亡くなって40日余りが過ぎようとしています。私にとってこの一ヶ月余りは変化の大きい期間でありました。それは、坊守が突然居なくなるとという事実と、次々と押し寄せてくる実務に押しつぶされそうに成りながら、何とか自分を保って生活しております。一日も早く、「日常を取り戻したい」という思いで、小学生のスク-ルガ-ドとしての登校時の見守り活動など、日々の生活の中で「当たり前に取り組んできた」ことに努めています。現在は、本堂の中陰壇に座ると、ただただ手が合わさり、「南無阿弥陀仏」とお念仏をいただいております。
坊守は3冊目の冊子『「ありがとう」と言いたくて』の中で次のことを述べています。
| 「私たちが手を合わせる時、亡き人が仏に成る」 言葉にならないような、ご門徒の悲しみに出会う。亡き人は、お浄土に還られ仏となられている。そう聞かされても、人に伝えても、残された者の心の底から突き上げてくる悲しみ、涙はどうにもならない。苦悩の娑婆から仏となって、しずかな涅槃におられるといっても、「恩愛の絆 いよいよ断ちがたく 別離の情また去りがたし」というのが私共人間の思いとしてある。つい、「生前中はどのような思いでおられたか」ということをはからってしまう。 しかし、何も無いというところから始まった、賜ったいのち。そしてご縁尽きてお浄土に還られたいのちである。み仏に抱かれて、私共とともに「念仏の大道」に帰入させていただくのである。 このように嘆いたり悲しんだりする私共こそを案じてくださるのである。願いのこもった「南無阿弥陀仏」をくださるのである。私共はそれに応えて「南無阿弥陀仏」と申し、願いに応えるとき、亡き人が本当に私の仏と成られる気がします。 |
坊守の冊子を読み返していると、「南無阿弥陀仏」のお念仏とともに感謝の心で一杯になります。