自分のことは好きですか?
先日、小学生の孫から突然、「おじいちゃん、おじいちゃんは自分のことを好きなの」と尋ねられました。唐突だったので、どう答えようかと迷ってしまい、孫に同じ問いを返すと、孫は「好きな部分もあるけど、直したいなぁと思う部分もある。」と答えてくれました。私は、孫の言葉に納得し、「おじいちゃんも、好きな部分もあるし、そうでないところもあるよ。」と答えました。みなさんなら、この質問にどのように答えられるでしょうか。「自分のことを好きなの」という問いに答えようとする時、現在の自分のあり方を自分自身がどのように評価しているかがあぶり出されるのではないでしょうか。私達は、自分を取り巻く様々な状況(縁)の中で生きています。私達はその縁をどのように受け止め、どう生きているのでしょうか。困難な状況に出会えば逃げ出したくなり、難しい状況を乗り越えれば自分も捨てたものでないと自惚れることもあるのが人間です。自分を取り巻く様々な縁との関わり方こそが、自分を知る手掛かりになるのだと思います。
親鸞聖人は「愚禿悲嘆述懐和讃」のなかで、
浄土真宗に帰すれども 真実の心(しん)はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心(しん)もさらになし
と著しておられます。坂東性純先生はこの和讃について、「本願を信じ念仏を申して仏となる教えに帰した自分であるが、自分の内心を見れば、まことの心はどこにも見当たらない。『虚仮不実のわが身にて』『虚』は中身がないこと『仮』は一時的・かりそめ、『不実』とはまことがないことで、嘘偽りに固められたこの身という意味です。これは非常に厳しい自己省察の言葉です。」と述べておられます。
自分をどのように見るかは、どの視点に立っているかにより異なると思います。私たちが自分を見る場合は、「自分を立場とする」視点から見ているのだと思います。しかし、仏法の教えに出会い、改めて自分を見つめたとき、はじめて見えてくる自分自身があると感じます。親鸞聖人は自己の内面を直視すると、「清浄の心もさらになし」、すなわち汚れのない清らかな心はさらさらないと告白されているのです。
妻の友人は、どうしていいか迷い自分と向き合いたいときは、台所に立ってひたすらお鍋を磨くと仰っていました。またある人は、ひとりで山歩きをすると自分と向き合うことができる、とも話されています。自分を見つめ直したとき、新たな自分が誕生し、新しい歩みがはじますのではないでしょうか。