人生には避けられないことが二つある
今回は、池田勇諦先生の「浄土真宗入門」(東本願寺出版)の文章を紹介いたします。
『私たちが生きるという場合、ただ生きてさえいられればよいのでしょうか。決してそうではありません。そこには「生き甲斐」がなければ、生きられないということがあるのです。それゆえ現に「生き甲斐」にために、「生きる」ことを放棄することさえあるのです。
そこで私たちは、それぞれの境遇で、何かに生き甲斐を見出して生きているのでしょう。ある人は仕事に、ある人は子育てに、ある人は趣味に・・・
といった具合です。ところがここで、もう一つのことが確認されていなければ、いま生き甲斐だといっていることそれ自体が、地に足が着いていないことでないか?と思うのです。そのもう一つの大事なこととは、何でしょうか。 その点で、私にはいまも忘れられない出来ごとがあります。
働き盛りの主婦Kさんが、仕事中に倒れ、意識不明になられました。幸い一命はとりとめられましたが、後遺症で療養生活を余儀なくされたのです。そのKさんが、熱心な聞法紗であった義父母に、「いまこそ仏法に遇うチャンスや」と強く背中を押され、介添えされながら聞法の席に来られたのは、発病から二年後のことでした。
Kさん云く、「こんな身体になって、妻として、母として、主婦として、何一つできなくなりました。もう生きている意味がありません。死にたいです・・・」。言葉が不自由な状態の中から、振り絞るように、切々と言われたのです。
私はあまりにもきびしい現前の事実に言葉を失い、何も言えず、ただじっとKさんが絞りだされる言葉に耳を傾けるばかりでした。こうした訴えは、そのような縁に出会えばきっと突きあげてくる悲しさであり、切なさであり、苦しさにちがいありません。その意味で、浮かれている今日の私の生きざまを、身をもって見せてくださっているとしか言いようのないお姿でした。
しばらく沈黙のときが過ぎましたが、ふっと思い出されてきた一つの言葉。思わずそれを白紙に書きました。
人生には 避けられないことが 二つある
一つは死ぬこと もう一つは 生きることだ
「これを毎日読んでください。口ずさんでください。その声をあなた自身が聞き続けてください。きっと何かが聞こえてきますから」。そう申して、Kさんにその紙をお渡しするのが精一杯でした。
さきほど「もう一つのこと」と申したことが、この言葉から見事に言いあてられています。「避けられないこと」と聞けば、「死ぬこと」と誰しも言うでしょう。だが、その言葉が嘘か誠かは、「もう一つは生きることだ」と言えるか否かにかかっていると言えましょう。
なぜ、生きねばならないか。これこそ「何のために
生きるのか」を見開く問いであり、一人ひとりが聞き開く道なのです。』