龍湖山 即得寺の由緒
開基について(お寺のはじまり)
本願寺の第八代蓮如上人蓮如上人 (1415年-1499年)
第8代。中興の祖は、比叡山の圧力から逃れるため、一時、堅田を本拠地として布教活動に努めました。文明元年(1470年)の頃、当時は堅田堅田湖族の首領であった「法住」の保護を受けており、対岸の守山にも念仏の教えを広めました。
守山では地方の豪族である金ヶ森金森_(守山市)の「道西」が蓮如上人を迎え入れました。蓮如上人に深く帰依した道西は、上人の意向である湖西での念仏の道場を開くため、弟の「正西」を湖西の地に派遣しました。当初、即得寺は正西により念仏の道場として開かれ、文亀2年(1502年)には本願寺の第九代実如上人実如上人 (1458年-1525年)
第9代。蓮如上人の子から阿弥陀如来の絵像が下付されました。
今の住職は22代目となります。
教えについて
即得寺は真宗大谷派のお寺です。親鸞聖人親鸞聖人 (1173年-1263年)
宗祖の教えを伝えています。「どんな人でも弥陀の本願を信じ念仏を称えれば救われる」という教えです。
正しい教えを聞くことによって、本当のことが分かります。教えに照らされることによって、本当の自分に出遇うことができます。仏様に手を合わせると、「いのち」の大切さが分かってきます。
お寺の建物について
即得寺の建物は藁園では最も歴史のある建造物です。 創建当時は小さなお堂でしたが、天明3年(1783年)に火事にあい、本堂はその時焼失しました。その後、本堂再建のためにご門徒の人たちが力を合わせ、特に「清水源八」さんは全ての財産を投げ打ってまで、本堂の再建に努力しました。建設には約8年の歳月を費やし、寛政10年(1798年)に本堂が再建されました。
宝暦6年(1756年)に造られました。即得寺の記録から想像しますと、本堂(道場)は何度か立て替えられたのではないかと思います。 江戸期にようやく寺院としての伽藍を整えたようです。この門は念願かなってようやく建設されたもので、火災の際にも焼失せずに現存しています。当時の石畳の造りがよく分かります。
明和元年(1764年)に造られました。大鐘(梵鐘)は、第二次大戦中に国に供出したため、現在の大鐘は昭和24年に再建したものになります。「涓滴(けんてき)岩を穿(うが)つ」という諺があります。わずかな力でも続けていれば必ず実を結び成功するということを例えたものです。鐘楼の周りの敷石には、雨滴によって穴があいています。約250年という時間を刻んでいる証です。
お寺の庭について
明治の初期に庭師「鈍穴」勝元鈍穴 (1810年-1889年)
幕末から明治前期の天才的作庭家。
近江国出身
ウィキペディアによって造られた庭です。
大きな池と中ノ島とのバランスがよく、独特の石組みが鈍穴の庭の特徴だといわれます。また三方を建物が囲んでいますが、鑑賞するには少し高い客殿からの眺めが一番です。客殿・庫裏仏間・書院とそれぞれの表情があり、趣があります。
どの季節にもそれぞれの良さがありますが、百日紅(サルスベリ)の真っ赤な花が咲く夏がよいと思います。