今月のご挨拶」カテゴリーアーカイブ

平成29年5月のご挨拶

ありのままの「いのち」

先日、一冊の本を手にする機会がありました。「お誕生日おめでとう、生まれてくれてありがとう」という題の本(真城義麿著)です。その中で、『私が人間に、そして「私」に生まれた意味はどこにあるのでしょうか。』という問いが投げかけられていました。私たちは、人間に生まれたことには違いありませんが、さらに重要なことは「自分」に生まれたということにあると思います。

 今から二千五百年前にインドの北部(現在のインドとネパールの国境付近)で、お釈迦様が生まれられ、仏教を説かれました。お釈迦様に関する説話は数多く残っておりますが、特に誕生に関して印象に残る説話があります。お釈迦様は誕生の際、七歩あるいた後に、「天上天下唯我独尊」と声を発したと伝えられています。誕生直後の赤ちゃんが、歩き、言葉を発することは現実ではあり得ないことでしょう。しかし、この説話が私たちに伝えている意味は何であるかを考えるべきです。

 「天上」とは、自分を取り巻く状況が、比較的自分に都合良く、思い通りに進んでいる状況のことを指します。逆に「天下」とは、なぜ自分だけがこんな辛い目に遭うのだろうかと思ってしまう、つまり思い通りに進まない状態を言います。「天上・天下」とは「どんな状況であっても、どんな境遇になっても」ということを指しています。

 「唯我」とは、存在しているどの一人も、かけがえのない人であることを表しています。誰とも代わることのできない存在なのです。私たち一人ひとりが、他の人と代わることのできない、代わりがきかない人間なのです。

 「独尊」の「独」は、何も加えなくとも「それ自身で」という意味です。成績や所得や地位が高いかどうかではなく、その人がその人として生きていることが尊いということです。身につけた技能や能力が尊いというのではありません。

 私たちは、自分のありのままの「いのち」の尊さに改めて目覚めるとともに、支え合い、尊び合う、互いの「いのち」に「ありがとう」と感謝し合いたいものです。

平成29年4月のご挨拶

人身受け難し、今すでに受く

朝晩は少し肌寒さを感じますが、ようやく新旭町にも春がやってきました。例年より少し遅れているようですが各地から桜の花便りが聞かれる季節となりました。皆様はお変わりありませんでしょうか。

 さて、皆さんは御法話を聴聞する時に、講師の先生とともに「三帰依文」を唱和されると思います。この「三帰依文」の最初の文が「人身受け難し今すでに受く」という言葉です。「三帰依文」の最初に、まずいのちを頂いていることと、法に出遇っていることの感動があらわれていると思います。しかし、唱えている自分自身は本当に「人身受け難し、今すでに受く」という感動を持っているかということが問われてきます。「人身」を受けるということは、「人」としてのいのちを頂くということでしょう。

 先日、百回忌の法事を依頼され、本堂でのお勤めをさせていただきました。百年前に亡くなった方とは、一緒に暮らしたことも、話をしたことも無いのですが、亡き人のご縁をいただいて念仏が口から出て下さるのです。間違いなく百年前の方のおはたらきに出会っていると感じました。「私のいのち」は過去幾千万の人たちから運ばれたいのちであり、現在地球上のあらゆる人々との繋がりの中で支えられているいのちなのです。本当に「人身を受ける」ということはただ自分が生まれ、生活していることだけにとどまるものではないのでしょう。「人身を受ける」ということは、実は「自分になる」「自分を賜る」ということを抜きにすることはできないはずです。それは、「人身受け難し、今すでに受く」と示されていますが、私たちは「自分に生まれた」「自分としての身を頂いた」ということを喜びとしているか、また「自分を賜った」ことに対する責任を果たしているかということが問題になります。「人間は一生かかって誰かになるのではない。自分が自分になるのである。」という言葉がありますが、自分になることへの道と、本当に自分に満足する道は、仏法に出遇わなければ求めることができないと感じます。日々の生活の中で仏法を聞き、念仏を称えることが「自分になる」ことだと頂いています。

平成29年3月のご挨拶

法語日めくりカレンダ-の4日のペ-ジには「人生には無駄なことは何一つありません」という言葉が載っています。私はこの言葉を見たとき、本当だろうかと考えてしまうのです。その理由は、私の生活では沢山の無駄があるように感じるからです。例えば時間を大切に使っているかといえば、なんとなく一日が過ぎたという日があり、時間を無駄にしてしまったと感じることがあります。皆さんはどうでしょうか。

 「無駄」という言葉を辞書で調べますと、「役に立たないこと。効果・効力が無いこと」と示されています。またその後には実に多くの慣用句が載っています。例を挙げますと、「無駄骨を折る。無駄口をたたく。無駄足を踏む。無駄話をする。無駄飯を食う」などです。

 沢山の無駄に関する言葉がある理由は、それだけ人が生活をするためには、無駄との関係が深いということでしょう。しかし、よく考えてみると、どんな人も始めから無駄をつくろうと考えて行動する人はいないはずです。行動した結果が、無駄になったと感じるのです。若い頃に少し困難なことに出会うと、どうせやっても無駄だと決めつけて、物事から逃げていたこともありました。

 仏法に出遇うと、無駄なことは何一つ無いんだと教えられます。逆に、無駄を作り、無駄と決めつけている自分が映し出されるのです。行動する前から「無駄になるとか、無駄にならない」ということにこだわりますが、大切なことは無駄になってもいいから、一生懸命に取り組むことだと教えられるのです。

 無駄を省くことも大切ですが、無駄を楽しむこともまた大切ではないでしょうか。

平成29年2月のご挨拶

二月に入り、暦の上では四日に立春を迎えますが、まだまだ寒い日が続いております。今年は1月に2回、大寒波につつまれ、高島はすっぽり雪の中となりました。私は京都へ行く用事があり、1月23日の月曜日に車で出かけました。大雪の中ではありましたが、速度を落としつつ順調に走ることができました。京都の天候は午前中は晴れていて、高島の雪は想像もできほどでした。

 当日は夕方5時からのお参りがありましたので、午後2時に余裕を持って京都を出発しました。順調に午後3時には湖西道路の志賀インターまで帰ってきましたが、渋滞で車が動かなくなり、のろのろ運転を繰り返し、帰宅したのはなんと午前0時15分でした。雪の恐ろしさを知らされました。

 写真は1月24日に写したものです。境内もすっかり雪化粧です。本堂の屋根雪が多すぎて、正面の除雪はできません。なかなかこれだけの雪は珍しいです。

 雪を邪魔ものにして、この雪さえなければと愚痴をこぼしがちですが、親鸞聖人は「和讃」で次のように示して下さっています。

  罪障功徳(ざいしょうくどく)の体(たい)となる

   氷と水のごとくにて   氷おおきに水おおし

   障りおおきに徳おおし

『毎日の生活で、罪の意識や障りこそが覚りのもととなるのです。氷が多ければ、溶け出す水も多いように、障りが多ければ、覚りの徳も多いのです。』と示されたのです。人は、あらゆる生活の中で苦しみや悩みを抱えて生きています。その悩みや苦しみこそが阿弥陀様と出遇っていく縁であります。今回の雪も、毎日の生活での障害と思われることも「障りおおきに徳おおし」と頂きたいです。

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平成29年1月のご挨拶

あけまして おめでとうございます。皆様には昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 さて、昨年は皆様はどのような一年を過ごされたのでしょう。それぞれに、心に残る一年であったと存じます。私にとっての一年は父の死という悲しい出遇い、また孫の誕生という喜びの出遇いの年でした。父の死と孫の誕生を通して「生きる」とはどのようなことかを考える機会を得たと思います。特に父の介護を通して知らされたことは、人の一生には自分の思いを超えて「限定」が必ずあるということです。いつまでも生きてくれていると思い込んでいる私の思いに反して、人生は有限であるという事実を教えられたのです。人生における四つの限定を自覚しなさいということだと感じました。四つの限定とは、①人生は「一回限り」であり、やり直しがきかない。(やり直しはきかないが、見直しはできる) ②人生は「単独」であり、自分を引き受けることである。人に代わってもらえない。独立者として歩むことである。③人生は「有限」である。いくら平均寿命が延びたとしても、死を免れない。 ④人生は「無常」である。平均寿命がどれだけ延びても、自分の死はいつ来るか分からない。 「生きている」ということは、このような限定の上に成り立っているのですが、毎日の生活で「生きているという実感」がなかなか持てないのです。毎日の生活に追われて、ただ忙しいだけの毎日を送っているのではないだろうかと感じます。

 一方で孫の成長を目にすると、全身で「いのち」を表現してくれています。与えられた「いのち」を精一杯生きているのです。食事も着替えも全て家族の力にゆだねながら生活する赤ん坊の姿は、自分の思いどおりにしたいと悪戦苦闘している私に、「生かされる」という尊さを教えてくれているのです。

 親鸞聖人の「お念仏」の教えは、自分自身が「生み出される」教えです。なぜ自分は生まれたのか。なぜ自分に生まれたのか。このことを「お念仏」を通じて確かめたいです。

 東本願寺の高塀には、親鸞聖人七百回御遠忌テーマが掲げられています。

 「生まれた意義と生きる喜びをみつけよう」

 新しい年を迎え、新たなご縁の出遇いを通じて、「生きる」ということを確かめたいと考えます。

平成28年12月のご挨拶

12月に入り、お寺では報恩講の準備が始まっています。3日(土)には同朋会の皆さんで大掃除をして頂きました。5日(月)には十四日講・光華法話会の皆さんにお磨きをして頂きました。両日とも天候に恵まれ多くの方が参加下さり、境内や本堂、そして仏具に至るまでピカピカにして下さいました。いよいよ今週の9日(金)から報恩講が始まります。皆さんとともに報恩講をお迎え致したいと思います。

 さて、報恩講前の大掃除やお磨きを行っていると、如来様の「清浄光」を仰ぐとはどんなことだろうと思えてきます。「清」も「浄」もきよらかという意味です。どんな場所もどんな時も「清浄なる光」が私たちの世界に働き続けて下さっています。私たちの生活の場は、戦争があり差別があり強者弱者があり、その他様々な問題を抱えています。その根本は汚れであると考えます。この汚れを経典「阿弥陀経」には「五濁」(ごじょく)と示されています。「五濁」というのは、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは「劫濁こうじょく」「見濁けんじょく」「煩悩濁ぼんのうじょく」「衆生濁しゅじょうじょく」「命濁みょうじょく」の五つです。

 まず、「劫濁」は「時代の汚れ」という意味です。疫病や飢饉、動乱や戦争など、時代そのものが汚れる状態なのです。「見濁」とは、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。「命濁」は、命の汚れということですが、それは自他の生命が軽んじられる状態と考えられます。これらの汚れは実は、私たち人間が作り出しているという事実があります。

 如来の「清浄光」は私自身の汚れを照らす働きなのです。自分だけは汚れていないと思っていますが、汚れに気づいていないだけなのです。それが証拠に、大掃除やお磨きをすると、汚れていたことがはっきりと知らされるのです。私たちは今年も「報恩講」を通じて阿弥陀様の光明に出遇い、心の溝掃除をしたいものです。

平成28年11月のご挨拶

今年も残すところ2ヶ月となりました。郵便局では年賀状の売り出しが始まったとのニュースを聞くと、気ぜわしく感じます。皆様はいかがお過ごしですか。

 11月は私たち真宗門徒にとっては特に大切な月です。それは親鸞聖人の御命日(11月28日)でもあり、また御命日をご縁として「報恩講」をお勤めする月だからです。御本山では11月21日~28日まで法座が勤まります。私自身も御本山の報恩講にお参りしたいと考えています。

 さて、私たちは「報恩講」という言葉はよく知っていますが、どんな意味があるのでしょう。報恩講とは、覚如上人によって始められ、蓮如上人によって広く行われた法座です。真宗門徒として「如来のみ教えを私たちに身をもって明らかにしてくだされた、宗祖親鸞聖人」の恩徳を讃えるとともに、そのみ教えを聴聞する行事です。「報恩」の「報」という漢字にはいくつかの意味があります。漢和辞典を引いてみますと、①「報」むくいる。返す。用例としては「報恩」・・恩に報いる。恩返し。 「報酬」・・労力や尽力に対する謝礼の金品。とあります。二つめの意味としては②しらせる。告げる。用例としては「報告」・・告げ知らせること。「報知」・・告げ知らせる(火災報知器)。「報道」社会の出来事を知らせる。とあります。

 私は「報」という漢字の持つ大切な意味が、「知らせる。告げる。」という点にあると気づきました。私は「恩」に報いると言われても、どれだけ恩を受けているか知らないのです。もっと正確に言えば、「恩」を受けていることさえ気づいていないのです。大切なことに気づいてこそ、私の人生は空しく過ぎることはないのでしょう。

 「報恩」ということは、私の生活で本当に大切なことは何かを問うてくれます。「今、頂いていること」の大きさに気づき、「本当に大切なこと」を知らされるときに、感謝できるのでしょう。

 歎異抄の第14章には「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」と示されています。報恩講にお参りして改めて念仏を頂きたく思います。

 即得寺の報恩講は、⒓月9日(金)~11日(日)、狐野秀存先生をお迎えして勤まります。どうか皆様お参り下さい。

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平成28年9月のご挨拶

仲秋の候 皆様には慈光のもと、御健勝にて仏恩報謝の日々をお過ごしのこととお慶び申し上げます。先日の台風の影響で、東北・北海道地方には大きな被害が引き起こされました。皆様のお住まいの地域では被害がなかったかと案じております。被災された皆様に心からお見舞いを申し上げます。

 さて、今年度の秋講が8月25日から29日まで、安曇川町横江浜の真光寺様で五日間に渡って開講されました。三木先生・真城先生をお迎えし、御同行とと聴聞させて頂きました。振り返ってみますと、昨年は即得寺で5日間にわたって会所を引き受けさせていただき、御門徒の皆様をはじめ、多くの方々のお世話になり無事に勤めさせていただいたのが昨日のごとく蘇ってきます。本当に時の過ぎるのは早いものです。今回の秋講には先回の会所当番寺院として、即得寺は大きな役割をいただいておりました。それは、この秋講に本山から下付されている19代門主の乘如上人の御絵像と闡如上人の御消息を一年間お預かりし、この度真光寺様へお届けするということでした。8月27日(土)は朝から雨が降っており、濡れないように準備も行いましたが、引き継ぎの儀式を行う午前11時過ぎには雨もやみ予定通りに御絵像・御消息をお届けできました。写真は即得寺総代さんに唐櫃を担いで頂いているところです。無事に御絵像をお届けすることができ、これで秋講の会所としての責任を果たすことができたと、ほっとしております。

 高島秋講は二五〇年以上の歴史があり、その時の関係者がこの行事を伝えてきて下さったという事実があります。この行事を通じて伝えられてきたものは、「念仏相続」に他なりません。そのことを頂くと、「はい、確かに受け取りました」と声を出して申し上げなければなりません。皆さんはどうでしょうか。本当に大切なもの、大切なことを先人から受け取っておられるはずですが、しかし、受け取ったのか、受け取っていないのかがはっきりしないのではありませんか。

 私たちは、両親や先祖から何を受け取り、自分の子や孫に何を引き継ぐべきか。このことを一度考えてみたいものです。お金や物を引き継いだだけではあまりにも寂しいことです。

  ・本当に受け取らなければならないことは何か。

  ・自分の子や孫に何を伝えるべきか。

 お念仏の生活をしてこられた先人からは、損得・勝ち負けではなく、人として大切なことに気づいてほしいという願いがかけられていると思います。「念仏」を伝えたい。「親鸞聖人の教え」を伝えたいという願いが、高島秋講や彼岸会・報恩講など様々な形をとって、私にまで届けられているのです。今回の高島秋講に出遇い、改めて「念仏相続」こそが最も大切なことだと感じました。

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平成28年8月のご挨拶

今年の暑さは格別で、例年に比べ一段と暑く感じられます。皆さまにはお変わりなくお過ごしのことと存じます。

 さて、先日境内を掃除していました時、毎日見ている当たり前の風景の中に、ふと新しい発見をいたしました。即得寺の鐘楼の土台は石垣で積み上げられていますが、この石垣はよく見ると自然石が使われており、石の大きさも大小様々です。これらを見ていると様々なことが頭に浮かんできます。

  その一つは熊本城の石垣が崩落したことです。どんなに堅牢で、絶対に壊れないと思っていても、「絶対」ということはこの世にはあり得ないのです。よく「絶対に儲かります」「絶対安全です」「絶対事故は起こりません」といいますが、本当にそうでしょうか。熊本城の石垣が私たちに教えてくれていることを大切にしたいものです。

 もう一つは、この石垣は社会の様子だなぁと感じるのです。写真をご覧下さい。大きい石、小さい石、それぞれ形や大きさが異なりますが、みんなで肩寄せ合って、石垣を作っているのです。大きな顔をしてデーンと威張っている石も、側には自分を支えている石があるのです。

 なんか人間社会のようで、じっと見ているとクスッと笑えてしまいます。そのうち、「私はこの石垣のどの石かなぁ」なんて考えてみると面白いものです。不思議なことに、一つも要らない石はありません。すべての石がそれぞれを支え合って成り立っているのです。

 最近、「本当は人間としてどのように生活をしたいのか」を考えることがあります。時には、自分のことだけをするのが精一杯で、人のことなど考える余裕のないこともあります。しかし本当は「ともに生きたい」と願っているのでしょう。

それでは「ともに生きたい」という願いを実現するにはどんなことが大切でしょうか。

① 「分け合う」楽しいこと、おいしいものを分け合いたいものです。

② 「助け合う」一人でできないことも、助け合えば半分の力でできます。

③ 「支え合う」小さな子ども、高齢者の方の力も生かし、支え合いの生活をしたいです。

④ 「励まし合う」どんなことでも認め合い、励まし合えば力が湧いてきます。

⑤ 「声を掛け合う」おはよう、ありがとう、おかげさま、のあいさつができる。

これらの「合う」に出遇うと、損得を超えた大きな喜びに出遇えるのではないでしょうか。皆さんはどんな「合う」が大切だと感じられますか。

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平成28年7月のご挨拶

7月に入り暑い日々が続きます。庭の植木も伸び盛りとなり、緑の鮮やかな季節を感じています。一雨ごとに木々が成長し、一雨ごとに夏に向かっていると感じます。

 さて、皆さんはここ数年間の気象状況をご覧になると、昭和の30年代~50年代にはこんな暑い状況はなかったと思っておられるはずです。年々日本や地球が暑くなっているようです。真夏日や猛暑日という気象単語も以前にはなかったように思いますが、今では日中の暑さが基準を超えると、テレビ画面が小さくなり熱中症注意を喚起する内容が放送されています。真夏日とは日最高気温が30℃を超えたときであり、その上の猛暑日は日最高気温が35℃を上回ったときです。さて皆さんは日本の最高気温は何度かをご存じですか。気象庁のHPによりますと次の通りです。

  第1位 高知県江川崎(41.0℃、2013年8月12日)

  第2位 埼玉県熊谷 (40.9℃、2007年8月16日)

  第3位 岐阜県多治見(40.9℃、2007年8月16日)

  第4位 山形県山形 (40.8℃、1933年7月25日)

  第5位 山梨県甲府 (40.7℃、2013年8月10日)

私はまだ、40℃以上の気温を経験したことがないので、どんな状況であるかは分かりませんが、たぶん汗は流れるし、立っているだけでクラクラ目眩がしそうです。皆様方は、十分に暑さ対策をされ、夏を乗り切って頂きたいと思います。お寺では、昨年本堂に冷房設備をしていただき、快適にお参りをして頂けるようになりました。

 遠方の方で、この8月に新旭町への帰郷を予定されておられる方は、是非お寺にもお参り下さい。お出会い出来る日を楽しみに、お待ちしております。