不安の心が、念仏と出遇う力です
私たちの不安感情は一体どこから来るのでしょうか。たとえば、あらゆる生物は必ず死ぬと、分かりきっていますが、いざ自分が死ぬとなるとそれを受け入れることができないのが我が身ではないでしょうか。いつ死ぬのかはっきりしないから不安を感じますが、逆に死が具体的に明確になれば恐怖心に包まれてしまうのではないでしょうか。
岸見一郎著『不安の哲学』には、「不安とは、(未知、制御不能なものをコントロールしようとする時に起こす心の動き)である。」と記されてあります。また、不安はただ主観的なもので、気持ちの持ちようで解消できるようなものかといえばそうではありません。『不安の哲学』では、「哲学者アドラーは不安の原因ではなく、その目的が何かを考えます。アドラーは、仕事や対人関係のように生きていくにあたって避けることができない課題を『人生の課題』といい、不安はこの人生の課題から逃れるために作り出される感情であるといいます。言い換えると、不安の目的は人生の課題から逃れることです。」と記されています。
では、親鸞聖人・蓮如上人から受け継いできた真宗門徒はどのように不安と向き合ってきたのでしょうか。それは、一言でいえば「念仏を申して生きる」ということです。
大谷大学学長の一楽真先生は「念仏を申して生きると言うことは、決してお仏壇の前だけで「南無阿弥陀仏」と言うことではありません。常に「阿弥陀」「無量」という、比べることのできない世界を感じながら毎日の生活を送ると言うことではないでしょうか。念仏をいただく生活とはどのようなことでしょう。
一つには「自己中心からの解放」です。自分のものの見方、それを絶対化するのではなく、誰にでもそれぞれの言い分、考え、立場があります。このことを本当に認め合って行くような生き方が求められているのです。念仏に出遇うことによって、自己中心であった自分に気付けるのです。」と述べておられます。さらに、
「二つ目には、「問題を見抜く眼の獲得」です。日頃は自分中心に物事を見ていますから、どうしても自分にとって都合の良いことを求めます。また、自分の都合の悪いことを排除します。しかし、この心が実はお互いに争いを引き起こす根本ではないでしょうか。都合の悪いものを排除するというその心が、実はこの世を地獄にしていくんだと気付かされることが重要であり、同時に自分の愚かさを見つめて生きるということではないでしょうか。」と示されています。
不安の反対語は安心です。人間関係において、互いに認め合い、尊重し合える関係こそが安心できる関係ではないでしょうか。
また、自己中心の物の見方が不安を作り出しているのではないでしょうか。都合の悪いことこそ、本当に大切なことを知らして下さる力だと考えます。
念仏を申せば、おかげが感じられ、いのちのつながりが見えてくるのです。
(住職)