令和4年7月のご挨拶

 「往生」とは「浄土に生まれる」こと

     緑の美しい季節となりました。七月を迎え、今年も半年が経過し、時の流れの速さに驚くばかりです。新型コロナウイルス感染はやや落ち着いていると感じますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。今回は池田勇諦先生の著書「浄土真宗入門」に示されている「往生」について紹介します。

 さて、私たちは普段、「往生」という言葉をどんな意味で使っているでしょうか。まず“死ぬこと”。そうですね。「あの方は九十歳で大往生だった」などと申します。それから“どうしようもなくなって行き詰まる事”。「雨が降ってきたのに傘がなくて往生した」などと言います。特に「往生」が“死ぬこと”と理解されているのは、「浄土」の場合と同じように、“往生とは死んでから来世において浄土へ産まれることだ”という考えが一般化しているからでしょう。

 教えから言えば、「往生」とは「死ぬこと」ではなく、「浄土に生まれること」を意味します。だから、「浄土」と言えば、そこに「往生」ということが離れないのです。

 しかし、「浄土に生まれる」とは具体的にはいったいどういうことなのか。私たちは、一歩踏み込んで、そのことを教えに問わねばなりません。それは何よりも私自身、長年にわたって引きずってきた問題です。自分にとって「浄土に生まれる」ことは、いかなる体験なのか。よりはっきり言えば、「浄土に生まれる」というときに、どんな「生まれかた」をするのか、という問題なのです。

    前章で述べたことですが、浄土とは私たちが依って立つ「真の国土」としてはたらく阿弥陀の本願のかたちでした。私たちが阿弥陀仏の大悲の本願に目覚め、真実の信心をいただくとき、その国土はすでに私たちを支える「真の大地」として私たちのところへ到来してくださっているのです。ですから、その浄土に往生するとは、浄土の功徳を賜って、この世での生をせいいっぱい尽くしていく歩みの始まりであり、新しい生活の始まりと言えるものなのです。 親鸞聖人はこのことを、『仏説無量寿経』によって、「すなわち往生を得て、不退転に住す」と了解されていまを得るとは、もはや一歩も後戻りすることのない大道に立つことなのだと、きっぱり言い切っておられるのです。(以上)

 浄土に生まれるとは、今まで自分中心でしか考えていなかった私が、そのあり方を問われ、気付かされたと言うことでしょう。浄土に触れた時、自分の汚れに気付くのです。