令和4年8月のご挨拶

「本願の正機」

     皆様お変わりありませんか。私、坊守は5月より思いがけない入院となり、日頃の境遇の有り難さや、これまでの恵まれたお出遇いの喜びというものをいよいよ深く思い、感謝しているところです。

 私の病室は3階にあり、近くには三井寺が見え、窓のすぐ近くにも、いくつかのお寺の屋根が広がっています。高い位置からなので、境内や駐車場、お墓など敷地内がよくわかるののですが、おそらく道路からは、ぐるりと塀が巡らされているので見えにくいことと思います。お参りやご用の方が訪れてこそのお寺となっています。「門をくぐる」というのは、実はよほどのご縁なのかもしれませんね。私共は真宗門徒と呼ばれますが、門のどこに立っているのでしょうか。四衢亮先生が、よく「浄土の門が開かれる」と表現されますが、それはどんなことなのかと思っていました。6月の同朋大会で、ご講師としてお越しくださった折り、住職からそのことについて質問してもらうことができました。

 先生がお応えくださったには、「既に浄土の門は開かれているのだ。間に合わないことが起こって、気付く、その時が『本願の正機』なのだ。」ということ。「また我々は、浄土の門に入ることばかりを考えているが、門は出入り自由なのである。再び娑婆に出て、聞法の仲間を誘うことができるのが、門なのである。」ということ。私のややこしいはからいが「真実」や「既に開かれている門」を見えにくくしていたことを知らされました。

 今、ここで、このままの私に開かれ迎えられていることを思い、嬉しく感じるとともに、「私の役割」ということを考えさせられました。

〈一緒に聞いていきませんか〉

 録音された先生のお話から、更に胸を打たれた親鸞聖人のお姿。それは、ご自分を殺そうとした人をも同朋として「一緒に聞いていきませんか」と歩みをともにされたことです。山伏弁円の「意に添わない者は殺してしまいたい。」という罪業性を、ご自分の中にも見い出され、尽きることのない課題を聞き続けられたことであります。力によって思い通りにしようとした弁円が、聖人の温かさに触れ、自分の行いを悔い明法房という名をいただき、弟子としてともに歩まれた事実に感動せずにはいられません。

 四衢先生のお話の中で、「浄土をどうとらえるか」ということについても、考えさせられました。私共にとって最も苦しいのは「孤独」。同伴する者なし、という状態です。どんな私をも見捨てることなく、「一緒に聞いていきませんか」と、呼びかけてくださるお声、その歩みを開いてくださるのが「南無阿弥陀仏」であり、その世界こそがお浄土であると思います。今、ここで、このように過ごす私も、また、どのような状態になろうと、決して見捨てられることのない浄土の世界にあること、それはとても大きな喜びです。

即得寺 坊守  川那邉睦美