令和6年4月のご挨拶

お念仏と天職

 歎異抄の第八章には、「念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。」と記されています。これは私が念仏を称えるにいたった背景が考えられます。自分に先だって、祖父祖母や歴史上の様々な方々が念仏を喜んで称えてくださった。そしてそのはたらきが私に届き、私の口から念仏が声になったということではないでしょうか。このようなはたらきを他力といいますが、板東性純先生は『新講歎異抄』(草光舎発行)で次のように述べられています。

 「これは職業選択にしてもそうだと思います。自分はこの職業に就いた。これは私が選んだのである。自分自身の誇りとして誰でもがそういう気持ちを持つものだと思います。でもなぜこの職業を選ぶに至ったかという由来まで思いをいたしますと、これといってきめることのできない多くの方々のご縁が係わっています。親がこの道に就いていた、自分は小さいときから日夜その親の姿を見ていたとか、あるいは自分がたまたまご縁があって知り合った先生から、近所の人とか先輩とかいろいろな方々の影響が強かったのでその気になった。そういうことを考え合わせると、最初から自分で選んだとは言えなくなります。多くのご縁のおかげで、この職業を選んだと言わなければなりません。昔は職業を天職という言葉で表しましたが、なぜ天が就くかと申しますと、自分が選んだように思っているけれど、実は選ばされたのだ。数え切れないいろいろなご縁によって自分が生涯の道とするこの職業を選んだのです。(中略)自分がこの職業を選ぶに先だって、自分に訴えかけるものが先にあったのだ。それにこたえて自分はこの職業を選び取ったのだ。天が私に与えてくださった職分ということで、天職というのだとおもいます。職業というものは、自分が選んだという事実に即して与えられたという事実がそこにある。自分が選んだか他が選んだかという二つのうちのどちらかではなくて、相即しているわけです。自分が選んだままが選ばされた。自分に先立って因縁が、いろいろなご縁が呼びかけてくださったままに選んだ。それがたまたま自分の従事している職業であるということになれば、二つは決して別の出来事ではなくて、この事実が、自分が選んだのでありかつ、選ばされたことである。一つの事実の中に自分だけではない要素が見出されるわけである。」

 念仏も職業も、私にまで伝えられたことに改めて驚くとともに、このことに出会わなければ今の自分は存在していないということが明らかになるのです。そしてそれは、私の力を越えて私を育て続けてくださっているはたらきです。「はたらき」の大きさに気付くとき、ただ南無阿弥陀仏とお念仏をいただくばかりです。