幸せって何だろう
ふと、「幸せって何だろう」と考えることがあります。私たちは「幸せ」を求めて毎日の生活を営んでいるのではないでしょうか。どうすれば「幸せ」になれるか、「幸せ」を手に入れることに一生懸命になっているのです。亀谷亨先生の著書『浄土真宗の救い』には、「『人間とはこうあるべきだ、こうなってこそ人間は幸せになる』という思い込みや決めつけ、・・・私はよく『自分なりの幸せの方程式』と言いますが、それをなんとなく持っているわけですね」と述べられています。さらに「私がこんなに辛いのは何かが足りないからじゃないかと思って、そこに何かを足そうとする。何か邪魔なものがあるんじゃないかと思って、それを引こうとする。それが人間の方程式の常です。」とあります。
幸せの方程式には、幸せを実現する3つの要素があるといいます。第1は経済力です。お金があればどんなことも手に入れることができると思い込みます。しかし、大切なものこそお金では手に入れることはできないし、お金が原因で争いや事件が起こっていることも事実です。第2に健康です。健康で長生きこそ幸せの基本だと考えます。しかし、老病死は避けることができない現実として存在します。第3は名利です。人から「あなたはいい人」だと言われたい。しかし、人からの評価を気にして生きることは、自身の人生を窮屈にするのではないでしょうか。幸せの3要素を手に入れることが、「幸せ」になれることではないようです。
では「幸せ」とは何でしょうか。自分の人生が「思いどおり」に成ることが「幸せ」だと考えがちですが、果たしてそうでしょうか。宮城顗先生は「だいたい私どもの人生というものは、納得できないものなのです。納得して老病死というわけにはいかないでしょう。われわれ凡人は、年を感じてうろたえたり、病気になって嘆いたり、死を前にして絶望したりするわけです。私たちにはまったく納得のいかないものなのです。そういう納得のいかない、逆にいいますと、私が納得しようがしまいが、決して動かない、より深い命を生きているということです。」とおっしゃています。
私たちは自分の人生に損得や勝ち負けを持ち込んで、人生を判断します。しかし、目先の損得ではなく、自身の人生に対する大きなはたらきに目覚めるとき、出遇いがあるのでしょう。東井義雄先生の言葉に、「悲しみを通さないと見えてこない世界がある」とあります。私自身、坊守が亡くなったことは、大きな悲しみですが、そのことを通して気付かされたことがたくさんあります。「幸せ」とは、自身に与えられた人生を、どれだけ豊かに生きたかということではないでしょうか。
「人生を耕させてもらう道 それがお念仏」(東井義雄先生)