12月に入り、お寺では報恩講の準備が始まっています。3日(土)には同朋会の皆さんで大掃除をして頂きました。5日(月)には十四日講・光華法話会の皆さんにお磨きをして頂きました。両日とも天候に恵まれ多くの方が参加下さり、境内や本堂、そして仏具に至るまでピカピカにして下さいました。いよいよ今週の9日(金)から報恩講が始まります。皆さんとともに報恩講をお迎え致したいと思います。
さて、報恩講前の大掃除やお磨きを行っていると、如来様の「清浄光」を仰ぐとはどんなことだろうと思えてきます。「清」も「浄」もきよらかという意味です。どんな場所もどんな時も「清浄なる光」が私たちの世界に働き続けて下さっています。私たちの生活の場は、戦争があり差別があり強者弱者があり、その他様々な問題を抱えています。その根本は汚れであると考えます。この汚れを経典「阿弥陀経」には「五濁」(ごじょく)と示されています。「五濁」というのは、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは「劫濁こうじょく」「見濁けんじょく」「煩悩濁ぼんのうじょく」「衆生濁しゅじょうじょく」「命濁みょうじょく」の五つです。
まず、「劫濁」は「時代の汚れ」という意味です。疫病や飢饉、動乱や戦争など、時代そのものが汚れる状態なのです。「見濁」とは、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。「命濁」は、命の汚れということですが、それは自他の生命が軽んじられる状態と考えられます。これらの汚れは実は、私たち人間が作り出しているという事実があります。
如来の「清浄光」は私自身の汚れを照らす働きなのです。自分だけは汚れていないと思っていますが、汚れに気づいていないだけなのです。それが証拠に、大掃除やお磨きをすると、汚れていたことがはっきりと知らされるのです。私たちは今年も「報恩講」を通じて阿弥陀様の光明に出遇い、心の溝掃除をしたいものです。