令和8年7月のご挨拶

お念仏を称えていますか

お念仏はどんなときに称えるのでしょうか。

 「蓮如上人御一代聞書」によれば、山科の勧修寺に住んでいる道徳は日頃から蓮如上人を慕っていました。明応二年(一四九三年)のお正月(元日)に山科本願寺にお参りし、蓮如上人に新年のご挨拶を伝えたことが記されています。この時、蓮如上人は「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし」と仰っています。年号から計算すると、この年に蓮如上人は七九歳であり、弟子の道徳は七四歳です。お二人の年齢から推察すれば、蓮如上人は常々、念仏の大切さを伝えられていたはずです。また、道徳も念仏者として、親鸞聖人の教えを深く頂いておられたと考えます。新たな年を迎えるにあたり、「念仏を称えることこそ大切である」ことを改めて確認されたのでしょう。「念仏もうす」とは、自分にとって都合の良いことを仏にお願いすることではありません。また、悪いことが起こらないようにするための呪文でもありません。

 念仏は仏の名前を呼ぶこと。 

 誰でも自分の名前を持っています。この名前が自分を表すものであり、自分を一人の人間として存在を表すものです。ですから名前の代わりに番号や記号を付けられることは、人格を奪うことになるのです。(強制収容所では番号で管理された) 「名」という漢字は、夕部首に口と書きます。夕方暗くなって見分けがつかなくなると、口で「私は誰それだ」と自分を相手に伝えることから生まれた文字だそうです。

 名前の持つ意味は。

 宮城顗先生は『歎異抄に何を学ぶのか』(東本願寺出版)で次のように述べておられます。「名前というものは抽象的なものではなくて、実は名前こそがもっとも具体的なものなんだと。言い替えれば、私たちは物事に名前を通して出遇うわけです。・・・中略・・・その名というものは、自分というものを人に伝える最後の最も具体的な道なんだということです。」 念仏とは、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来の名を称えることです。仏の名を称えることが、具体的に仏のはたらきに出遇うということです。

 念仏は請求書ではなく領収書です。

 福井県に医師で念仏者の米沢英雄先生がおられました。先生は「念仏は請求書ではない。領収書だ」と仰いました。また、「念仏を称えることにより、自分の都合を叶えてもらおうと思ったり、善いことを期待したりします。これは請求書です。念仏は事実に頷いた心であり、いただいた心である」と仰っています。

 「南無阿弥陀仏」とお念仏が私の口からこぼれるということは、「本当に大事なことを見落とすな」という、仏からの呼びかけなのです。念仏を申すということは、自分中心の在り方を、仏から問いかけてられていることに気付くことなのです。