投稿者「龍湖山 即得寺」のアーカイブ

令和7年12月のご挨拶

自分のことは好きですか?

先日、小学生の孫から突然、「おじいちゃん、おじいちゃんは自分のことを好きなの」と尋ねられました。唐突だったので、どう答えようかと迷ってしまい、孫に同じ問いを返すと、孫は「好きな部分もあるけど、直したいなぁと思う部分もある。」と答えてくれました。私は、孫の言葉に納得し、「おじいちゃんも、好きな部分もあるし、そうでないところもあるよ。」と答えました。みなさんなら、この質問にどのように答えられるでしょうか。「自分のことを好きなの」という問いに答えようとする時、現在の自分のあり方を自分自身がどのように評価しているかがあぶり出されるのではないでしょうか。私達は、自分を取り巻く様々な状況(縁)の中で生きています。私達はその縁をどのように受け止め、どう生きているのでしょうか。困難な状況に出会えば逃げ出したくなり、難しい状況を乗り越えれば自分も捨てたものでないと自惚れることもあるのが人間です。自分を取り巻く様々な縁との関わり方こそが、自分を知る手掛かりになるのだと思います。

親鸞聖人は「愚禿悲嘆述懐和讃」のなかで、

  浄土真宗に帰すれども 真実の心(しん)はありがたし

  虚仮不実のわが身にて 清浄の心(しん)もさらになし

と著しておられます。坂東性純先生はこの和讃について、「本願を信じ念仏を申して仏となる教えに帰した自分であるが、自分の内心を見れば、まことの心はどこにも見当たらない。『虚仮不実のわが身にて』『虚』は中身がないこと『仮』は一時的・かりそめ、『不実』とはまことがないことで、嘘偽りに固められたこの身という意味です。これは非常に厳しい自己省察の言葉です。」と述べておられます。

 自分をどのように見るかは、どの視点に立っているかにより異なると思います。私たちが自分を見る場合は、「自分を立場とする」視点から見ているのだと思います。しかし、仏法の教えに出会い、改めて自分を見つめたとき、はじめて見えてくる自分自身があると感じます。親鸞聖人は自己の内面を直視すると、「清浄の心もさらになし」、すなわち汚れのない清らかな心はさらさらないと告白されているのです。 

 妻の友人は、どうしていいか迷い自分と向き合いたいときは、台所に立ってひたすらお鍋を磨くと仰っていました。またある人は、ひとりで山歩きをすると自分と向き合うことができる、とも話されています。自分を見つめ直したとき、新たな自分が誕生し、新しい歩みがはじますのではないでしょうか。

令和7年11月のご挨拶

亡き人との出遇い

朝夕に肌寒さを感じる季節となりました。ご門徒皆様にはお変わりありませんでしょうか。一日の寒暖の差が大きく体調管理に気をつけていただきたく存じます。

 さて、坊守が亡くなって40日余りが過ぎようとしています。私にとってこの一ヶ月余りは変化の大きい期間でありました。それは、坊守が突然居なくなるとという事実と、次々と押し寄せてくる実務に押しつぶされそうに成りながら、何とか自分を保って生活しております。一日も早く、「日常を取り戻したい」という思いで、小学生のスク-ルガ-ドとしての登校時の見守り活動など、日々の生活の中で「当たり前に取り組んできた」ことに努めています。現在は、本堂の中陰壇に座ると、ただただ手が合わさり、「南無阿弥陀仏」とお念仏をいただいております。

 坊守は3冊目の冊子『「ありがとう」と言いたくて』の中で次のことを述べています。

  「私たちが手を合わせる時、亡き人が仏に成る」  言葉にならないような、ご門徒の悲しみに出会う。亡き人は、お浄土に還られ仏となられている。そう聞かされても、人に伝えても、残された者の心の底から突き上げてくる悲しみ、涙はどうにもならない。苦悩の娑婆から仏となって、しずかな涅槃におられるといっても、「恩愛の絆 いよいよ断ちがたく 別離の情また去りがたし」というのが私共人間の思いとしてある。つい、「生前中はどのような思いでおられたか」ということをはからってしまう。  しかし、何も無いというところから始まった、賜ったいのち。そしてご縁尽きてお浄土に還られたいのちである。み仏に抱かれて、私共とともに「念仏の大道」に帰入させていただくのである。  このように嘆いたり悲しんだりする私共こそを案じてくださるのである。願いのこもった「南無阿弥陀仏」をくださるのである。私共はそれに応えて「南無阿弥陀仏」と申し、願いに応えるとき、亡き人が本当に私の仏と成られる気がします。  

坊守の冊子を読み返していると、「南無阿弥陀仏」のお念仏とともに感謝の心で一杯になります。

令和7年10月のご挨拶

坊守の葬儀について(御礼)

 この度の坊守の還浄は、即得寺並びに川那邉家にとりまして大きな悲しみです。坊守は3度目の移植を受けるため1月末から入院し、2月に移植をしていただきました。その後、3月には一時危篤となりましたがそれもどうにか乗り越え、8月1日には退院することができ、家族に囲まれながらの毎日を喜んでおりました。週に1度は大津赤十字病院への通院があり、片道1時間15分程度の通院時間が私にとっては、大切な時間でもあり、楽しいドライブでもありました。

 22日の朝、坊守の身体が少し熱っぽいと感じ、体温を測ると37.4℃で本人は「病院ではこのくらいの熱は出ていたから心配はない」というのでしばらく様子を見ていました。その後、再び体温を測ると39.0℃あり、すぐに病院に連絡を取り、検査の結果は肺炎と診断され入院となりました。適切に処置していただき、一旦は落ち着いた状態であったため、夜の8時過ぎに病院を後にして帰宅しました。帰宅後安心していたところ、夜の11時過ぎに病院からの呼び出しがあり、娘や妹に連絡を行い病院へ向かいました。9月23日午前4時前に坊守は、家族のお念仏の声に包まれ、静かに息を引き取りました。

 9月23日は秋の彼岸の中日で、即得寺では午前10時から彼岸会を勤めることになっており、予定通りお勤めをいたしました。参詣されたご門徒にはいち早く坊守の還浄をお知らせいたしました。

 坊守が著した3冊目の冊子の〈応病与薬〉の項には、「ありがとうございます。」とは南無阿弥陀仏のことでありました。「ごめんなさい。」とは南無阿弥陀仏のことでありました。「私。」とは南無阿弥陀仏のことでありました。と記してくれています。3冊目の冊子は「『ありがとう』と言いたくて」というタイトルです。坊守にとっては家族やご門徒の皆様、友人や病院でお世話になったすべての人に、心から「ありがとう」を伝えたかったのだと思います。冊子の最後には「『ありがとう』と言うことができること、これが生きる喜びである。」と結んでくれています。

 この度の坊守の通夜(9月25日)・葬儀(9月26日)につきまして、門徒総代様、世話方様、女性世話方様はじめ、ご門徒の皆様には、それぞれご予定のある中、準備から当日の業務に至るまでご協力を頂き深く感謝申し上げます。また、通夜・葬儀とも遠近を問わず、ご門徒の皆様、寺院関係、坊守会の皆様、友人の方々など数多くの方にご会葬いただき感謝の心で一杯です。本堂・境内一杯の正信偈の声で送って頂き、改めてお念仏のはたらきの大きさに出遇わせて頂きました。

 私や家族に対しましても温かいお声を掛けて頂き、ご門徒の皆様のお心を頂戴させてもらっております。お一人おひとりに御礼を申し上げる処ですが、書中をもちまして御礼申し上げます。

令和7年9月のご挨拶

凡夫の身の自覚

残暑厳しい毎日ですが、ご門徒の皆さまはいかがお過ごしでしょうか。熱中症対策をしっかりととっていただき、体調管理にお気を付けください。

 さて、仏教の経典では私たちの姿を「凡夫」と著されています。広辞苑で「凡夫」の欄を調べると、「煩悩に束縛されて迷っている人」とあります。凡夫ということをお聖教にはいろいろの言い方で説明してあります。その一つは「群萌」です。「群萌」というのは独りで生きていけない、寄り集まってでしか生きていけない状態をいいます。「独りで居ると寂しいが、二人で居ると煩わしい」という在り方を言います。二つ目は「凡小」です。「凡」は浅く生きているということです。毎日の生活で損得や勝ち負けにこだわり、物事を深く捉えることがない姿です。「小」は広さを失って、根性が小さいのが「小」です。広い世界を見失っているいるのが「小」です。三つ目は「貧苦」です。これは本来自分に備わっているものがあるのに気が付かない姿です。「貧」は心が貧しい状態であるため、外にいくら求めても満足のないことを言います。「苦」はいつも不安を抱え、安心できない心をいいます。この「凡夫」についての三つの言葉を示されると、毎日の自分の姿と重なるのです。

 親鸞聖人は正信偈で「一切善悪凡夫人」と記されています。これは、善人や悪人を問わず、一切の人々は凡夫であると示されているのです。仲野良俊先生は『正信念仏偈講義・・法蔵館発行』で「一切善悪凡夫人というのは、群萌とか凡小とか、あるいは貧苦というような内容をもっておるわけですが、これはわかりやすく言い替えれば、業に動かされているものという意味です。つまり悪業が催せば悪人になる。善業が催せば善人になる。自分の心がけとか、そんなもんは間に合いません。善人といっても自分の心がけで善をやっているわけではない。結構なご縁に恵まれているから、計らずも善をやっているわけです。それからこんなことをしてはいけないといっても、悪縁が催してきたら、否でも悪業をやってのける。凡夫というものは弱いのです」と述べられています。

 広辞苑に示されている「煩悩に迷っている人」という記述について、そのとおりだと考える一方で、凡夫であるが故に「迷う」のではないでしょうか。凡夫とは仏の眼から私達の姿を示された言葉です。我が身を仏法という「鏡」に映してみると、自分は正しいと考えていたことが実は狭い考えであったことに気付かされるのです。  念仏をいただくということは、自分の立場を越えて仏の眼をいただくと言うことです。「凡夫」が「凡夫」と知らされたとき、迷っていたと気付く時でしょう。

令和7年8月のご挨拶

幸せってなに?

 今年の暑さは格別で、30℃越えの気温に身体がついていきません。ご門徒の皆さまはいかがお過ごしでしょうか。熱中症対策をしっかりととっていただき、体調管理にお気を付けください。

 さて、法語のカレンダ-には「道は近きにあり 迷える人は これを遠きに求む」とあります。私たちはいろいろなものを求めて生活していますが、本当に手に入れたいものは何でしょうか。この法語に記されている道とはどのような道なのでしょうか。私たちは生まれた日からずっとこの人生を歩み続けていますが、何のために生きるのかがはっきりしていないのではないでしょうか。

 平野修先生は「この世の三種の功徳」を次のように記されています。「この世で優れた性質と可能性を持つものは、言うまでもなく「お金」です。二番目は何かというと、それは「健康」です。健康というのは非常に優れた性質と可能性を持っています。三番目は知恵とか技術ということで、広い意味で言うと、「知識」ということになります。」

 なぜ、この三つを手に入れたいと考えるのでしょうか。それはこの三つが手には入れば「幸せ」を実現できると考えているからでしょう。どの人も、「幸せ」になることを人生の目的としているのではないでしょうか。しかし「お金」を手に入れたからいって「幸せ」が手に入るとは限りません。むしろ「お金」があることによりトラブルに巻き込まれる危険が生じます。「健康」であることは「幸せ」なことだと思いますが、本当にその幸せを感じるのは「病気」になってからではないでしょうか。「健康」な時はそれが当たり前だと考えて、「幸せ」とは感じにくいのかもしれません。「知識」に優れていることは大切ですが、人と比較して自分は「偉い人間だ」と傲慢になるのでは幸せとはいい難いでしょう。

 いずれにしても、「幸せ」を実現するために、経済力や地位名誉や健康を必死になって求めていても、そこには私たちが求める「幸せ」は存在していないのではないでしょうか。

 「幸せ」とは一体どのようなことなのでしょうか。私たちは「幸せ」になりたいと考え、「幸せ」を求めて生きていますが、どうなることが「幸せ」になることかが分かっていないのではないでしょうか。今よりも豊かになり、便利さを求めることが「幸せ」だという考え方もあるでしょうが、戦後80年を迎える今、物が溢れ、便利さを十分享受する生活がここにあります。しかし「幸せ」を実感しているかというと、むしろ「空しさ」の方が大きいのではないでしょうか。

 「幸せ」とは都合のよいことを求めることではないのでしょう。都合が悪いと思っている事柄から私自身の在り方が問われ、そのことから学び育てられることにより、本当の私自身の歩むべき道が明らかになると考えます。その道は決して楽をする道では無いと思いまが、その苦労を通じて生きる喜びに出遇い、人生の深さや重さを感じるのだと思います。

 「幸せ」はきっと私たちの足下にあるのだと思います。

令和7年7月のご挨拶

悪衆生とは誰のことか

 正信偈のお勤めで、毎日拝読している言葉です。

 皆さんは正信偈を読んでいると、「悪」という文字が目に入ってきませんか。「邪見憍慢悪衆生」、「一生造悪」、「極重悪人」など「悪」という文字が正信偈には用いられています。私たちが「悪」と聞くと、法律に反する行為や犯罪を犯すことだと考えます。確かに新聞やテレビの報道を見ていますと、「誰でもいいから」という理由で犯罪が行われたり、金銭のトラブルで命を奪われたりということが実際に起こっています。では親鸞聖人が説かれた「悪」とは一体どのようなことなのでしょうか。仏教で言う「悪」は、人と人が傷つけ合うことであり、互いに苦しめ合うことです。この「悪」の在り方は、人と人との関係だけでなく、国際社会でも起こっています。「自国の平和を守るため」「やられる前にやっつけるべきだ」という考えに立ち、平和を実現するために相手国へミサイルを落としているのです。

邪見な見方に気付かない。 

 私たちは自分中心の物の見方から離れることができません。いつも自分は正しいという考えに立ち、行動し、その結果、他の人が犠牲になっていても自分を正当化するのです。他国の紛争について報道されると、愚かな行為であると感じると同時に、人々が戦火の下でどれだけ苦しめられているかを想像します。しかし、戦争であれ、人間関係の摩擦であれ、当事者は自分が正しいと考え、行動しているのです。一番愚かなことは、自分の行為が愚かであることすら気が付いていないことです。

愚かであるから教えが必要なのです。

 親鸞聖人は私たちの在り方を「無明」と示されました。「無明」とは、大事なことが見えていないということです。さらに、見えていないということも、見えていないのです。そのため、自分の偏った見方「邪見」を本当に正しい見方だと思い込むのです。人と仲良くしたいと思っていても、「あの人は気に入らない」「あの人は邪魔だ」と言っている以上、本当に分かり合えることはできないのでしょう。仏の教えは、私たちに誤ったものの見方をしている、間違っているぞと教えてくださることです。

念仏と共に歩む人生。  

 お念仏を称えたら、欲がなくなったり、腹が立たなくなったりすることはありません。また、お念仏によって、都合のよいことを実現できるわけでもありません。お念仏は自分自身の在り方を照らしてくださるはたらきです。私自身が物事の本質を見失い、自分の都合だけを主張していることに気付かさせてくださるのです。

 お念仏により、限りない「いのち」の世界を感じると、お一人おひとりの中に「いのち」を見出し、同じ「いのち」が自分にまで運ばれていることに驚くと同時に、頭が下がります。与えられた一日一日をお念仏と共に歩むことが願われているのでしょう。

令和7年6月のご挨拶

「お米」

 最近お米についてのニュ-スが多くなり、本人の失言により農林水産大臣が交代するという事態が起こっています。お米に対しての関心が高まる中、お米がなくてはならないものであることを改めて実感させられます。

 我が国の歴史を振り返ると、紀元前2~3世紀に大陸から稲作が伝わり、人々の生活はそれまでの狩猟生活から農業を中心とする生活に変わりました。弥生時代には、稲作のために土地の開墾や共同作業が行われるようになりました。食料を蓄えることができるようになったため、人々の生活は豊になりました。一方で田畑を確保するために争いが繰り返され、貧富の差も生じることになりました。お米を手に取ると、遙か弥生時代にまで遡り、当時の人々の苦労が感じられます。

 「米価」を巡っての庶民の活動としてよく知られているのは、1918年に富山県で起こった「米騒動」です。当時の日本は第一次大戦に参戦したため、物価が高騰し、特にお米の価格は急激に高くなり、「米騒動」が引き起こされたのです。この騒動により時の政権「寺内内閣」は総辞職しました。お米の価格が、政治を動かす原動力になったわけです。

 「お米」について前住職は、「白いご飯さえあれば、おかずはいらん」とよく言っていました。戦時中を生きた父は若い頃に辛い経験をしたのだと思います。昭和一桁生まれの方にとっては「白いご飯」は当たり前ではないことが生活を通してよく分かっていたのでしょう。

 さて、今回の「米騒動」で政府は、備蓄米を放出することによって米価を引き下げようとしています。米価を引き下げれば問題は解決するかというと、そう簡単な問題ではないと思います。お米は生産者である農家の方にとっては命がけで育て上げたもの。また、採算が合わなければ米作りを止める農家も出てくるのではないでしょうか。それでなくても、農業全般に言えることは、後継者不足により今後の生産が見通せないという不安があることだと思います。「米価」を論じることも大変重要だと思いますが、価格だけに目を奪われると大切な事を見落とすことにならないか心配です。

 金子大栄師(真宗大谷派僧侶、元大谷大学名誉教授、1976年没)は著書「正信偈新講上巻」で帰命について述べておられます。『帰命ということは「たのむ」ことです。「たのむ」という言葉の意味の第一は「田の実」すなわち米のことです。米がなければ生きておれない、命の綱である。だから「たのみ」とは、それが無ければ生きていけないということで、「田の実」という意味から来ておる。』 金子先生は仏さまのはたらきを分かりやすく「お米」を例として示され、仏さまのはたらきなしには生きていけないことを教えてくださっているのです。

 今回のお米を巡る「騒動」も、普段は当たり前だと考えていることについて、大きな問いをいただいていると感じます。「米価」も大切な事ですが、それ以前にお米を口にできることを喜び、お米のいのちをいただいていることを忘れてはならないと思うのです。

花まつりをおこないました

4月29日朝9時より 本堂において花まつりを行いました。当日は天候にも恵まれ、沢山の小学生の参加の下、若院によるお釈迦様のお話やゲ-ムで楽しい時間を持つことができました。写真は○×ゲ-ムで盛り上がっている様子です。夏休みには7月19日から7月26日まで和讃講(子ども会)を行うことの案内もしました。是非とも参加してもらいたいです。

令和7年5月のご挨拶

「国益とは」

 今年1月にアメリカの大統領にトランプ氏が就任してから、テレビでトランプ氏を見ない日はありません。それだけアメリカの大統領という椅子は力を持っているのだと思います。特に3月以降は連日、「トランプ関税」についての報道が盛んに行われ、トランプ氏の発言によって、株価や為替相場が乱高下する事態が起こっています。世界最大の経済大国であるアメリカが、各国との貿易について関税という新たな壁を設けた影響が大きいからでしょう。

 トランプ氏はアメリカ第一主義を掲げて大統領選挙で当選しました。アメリカの利益を最優先に考え行動するのが当たり前なのかもしれません。しかし、今回の関税措置が本当にアメリカの国益に叶うかが疑問です。関税騒動について報道される内容を見ていると、原因は貿易における赤字が問題であると主張していますが、本当に関税率を上げれば解決する問題であるのかが疑問です。今や、あらゆる製品は国境を越えて生産され、流通しています。日本のス-パ-マ-ケットに並んでいる商品も、外国産のものが多く並んでおり、パソコンやスマートフォンの中味は外国の部品で組み立てられています。今や、物も人も国際社会の中で移動し関係し合って成り立っているのでしょう。

 そもそも国益とは何でしょうか。その国にとって利益となることだと考えますが、国とは何を指すのでしょう。一口に国と言っても様々な体制があり、様々な人が存在します。国のとらえ方はいろいろあると思いますが、その土地に生活している国民を抜きにして国を語ることは出来ないと考えます。その意味では国益とは本当にその国の国民にとって利益となるかどうかを考えなければならないと思います。国益とは、目先の損得に振り回されることではなく、すべての国民にとって何がその国にとって利益となるのかを問うことから始まるものだと思います。さらに、一過性の利益の追求ではなく、50年、100年先においても国益として受け継いでいけることでなければならないはずです。  歎異抄後序には次のような記述があります。『聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。」そのゆえは、如来の御こころによしとしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめ』とあります。私達凡夫にとっては何が国益であり、何が国益とならないかが分かりません。仏教では「自利利他」を説きます。自国の利益だけ考えるのではなく、他国と共に生きる道があるはずです。そのためには、本当の利益とは何かを問い続けることが大切なのではないでしょうか。

令和7年4月のご挨拶

「ピカピカの一年生」

 三月に孫が卒園しました。この三年間は坊守の入院もあり、保育園への孫の迎えなど孫との関係が深まりました。卒園式が近づくと、孫に「ねぇ、おじいちゃん。私の卒園式におじいちゃんも来てくれる?」と尋ねられたのです。参加制限もなく嬉しいお誘いであり、参加することにしました。当日は園児全員による卒園の言葉や歌に感動し、目頭がうるんできました。三歳から入園し四年間の保育園生活によって、先生や友だちから多くのことを学び、育てられ成長した姿に感動しました。

 四月からは「ピカピカの一年生」です。一年生はかがやいているのです。ピカピカしているのは制服やランドセルが新調され新しいからでもありますが、それ以上に小学校で学ぶことに喜びがあり、期待に胸を膨らませているからです。これから始まる小学校生活にワクワク、ドキドキしているからでしょう。

 一年生にとって、これから始まる小学校生活はよいことばかりではありません。友だちとけんかをしたり、悲しいことや悔しいことにも出遇うでしょう。また、色々なことに挑戦し、出来ることの喜びや友だちと遊ぶ楽しさも、もっと大きくなるはずです。一年生がかがやいているのは、喜んで小学生活を迎えるからであり、自分を支えてくれる両親や家族、友達や保育園の先生の励ましに安心し、自分の歩みを始めることが出来るからでしょう。

 私達も「ピカピカの一年生」に負けないで、毎日をワクワク、ドキドキ感動を持って生活しているかが問われているのではないでしょうか。「ピカピカの一年生は」はいのちがかがやいているのでしょう。精一杯に生きている姿を見ると素晴らしいと感じます。

 私共もいただいている「いのち」、一度きりの「いのち」をかがやかせたいものです。自分の思い通りにならず、不平や不満を言ってる時はいのちは曇っているのではないでしょうか。また、悲しみや不安を感じる時はいのちが元気を失っているのでしょう。  私共は、自分に与えられた課題をいただき、その課題から学び育てられると思います。ピカピカの一年生に対して私達は「ピカピカの念仏者」です。私共にいただいている課題は、仏さまからのお催促です。課題がなければ「お念仏」と出遇うことはありません。老いや病気、災害など思わぬ課題が降りかかってきますが、お念仏を通じてこそ、本当のいのちがかがやくのだと思います。互いにいのちをいただいていることの事実に立った時、喜びをいただくと感じます。