投稿者「龍湖山 即得寺」のアーカイブ

同朋会一日研修旅行に行ってきました

11月12日、同朋会の皆様と一日研修旅行に行きました。天候にも恵まれ、秋の美しい景色の中を皆様と歩き、この上ない清々しさを感じました。

 渡岸寺の十一面観世音菩薩像、孤篷庵の枯山水と池泉回遊、長浜別院大通寺にお参りするなかで、遠い昔から今日まで脈々と仏教の教えが継承されてきたこと、それを沢山の方々が守り続けてきたことに深く感じ入る場面が何度もありました。この感銘を同朋会の皆様と一緒に分かち合えたことが嬉しかったです。

(若坊守)

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平成29年11月のご挨拶

時の速さ

11月を迎え、だんだんと秋の深まりを感じる季節となりました。朝晩の冷え込みにより体調など崩しておられませんか。これから日に日に広葉樹が色づく頃となります。お天気のよい日には外出して、季節の移り変わりを感じるのもよいと思います。

 さて、皆さんは時の経つ速さを感じられることはないでしょうか。日常的には、面白い時楽しい時は早く時間が過ぎ、苦しい時嫌な時はゆっくり過ぎると感じることがあります。しかしそれとは別に、過ぎ去った一年の速さに驚かされるということがあります。

 蓮如上人はお亡くなりになる一年前の84才の時に御文(四帖目第4通)に「さて、秋も去り春も去って年月を送り、昨日も過ぎ、今日も過ぎてゆきます。いつの間に老いの年を重ねたのでしょうか、何とも気づかずに暮らしてきました。それでもその間は花鳥風月を愛でて楽しんだこともあったでしょうし、また、病の苦痛に一喜一憂したこともあったでしょう。ですが、学んできたことも、経験したことも、みな夢のように過ぎてしまいました。」と述べておられます。

 今年のカレンダ-も残すところ2枚となりました。この一年を振り返ってみると、忙しいといって目の前のことに追われいるだけではなかったかという思いが残ります。本当はどう生きたいのか。どう生きたら自分の人生に満足し、頷くことができるのでしょうか。カレンダ-の法語には「人生はやり直しが利かないんだ。利かないけれど、見直しのチャンスなんだ。」とあります。自己の欲を満たすことが人生の満足ということではないのでしょう。楽を求め、苦から逃げている私自身に、「本当にそれでよいのか。」と問い続けて下さる声に出遇うことこそ大切だと感じます。自分に与えられた人生を、一生懸命に生きる(生かされる)ときに、大切なことに出遇えるのでしょう。

平成29年10月のご挨拶

掃除

9月は台風18号が上陸し、各地に被害をもたらしました。皆さんのお住まいの地域はどうでしたか。お寺は幸いなことに大きな被害を受けることはありませんでした。全国各地で豪雨による水害や強風による被害が伝えられています。被災

された方にお見舞いを申し上げます。

 さて今回の台風の影響で、9月17日(日)に予定していた大掃除を、一日繰り上げて16日(土)に実施しました。今回の台風は大雨をもたらしましたが、16日も朝からの雨の中、深溝の御門徒や総代さん方とともに掃除に汗を流しました。また、台風の後始末も兼ねて23日の御彼岸会の午前中に再び総代の皆さんと共に境内と庭の掃除を行いました。写真は、カッパを着用しての掃除の様子と彼岸会前のきれいになった境内の様子です。

 掃除をするときにいつも思い起こされるのは、お釈迦様の弟子の周利槃特(チュ-ラ・パンダカ)の話です。物覚えの悪い周利槃特は、修行をする力もなく、文章を覚えることもできず、仏道をあきらめていましたが、お釈迦様の御説法で悟りを開くことができたのです。お釈迦様は周利槃特に箒を一本わたし、「これからは、この箒で掃除をしながら『塵を払わん、垢を除かん』と唱えなさい」とおっしゃり、周利槃特は来る日も来る日も箒を持ち掃除に励んでおりました。やがて、周利槃特は『塵を払わん、垢を除かん』ということを「自分の心の塵、心の垢」と自覚し悟りを開かれたのです。

 掃除を進んで行うことはなかなかできませんが、掃除が仏事であるといただけると大事なご縁であると頷けるのです。「ここが一番いいところ ここが一番大事なところ」といただくと、清浄なる場(浄土)を求めずにはおれないのです。

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平成29年9月のご挨拶

友との再会

 

朝晩は少し涼しさを感じる頃となりました。今年はむしむしと湿度が高く、夏らしい空が晴れ渡るという日がないままに夏が終わろうとしています。皆様はお変わりありませんでしょうか。

 さて、皆さんは「同窓会」に参加されることはないでしょうか。7月のある日、我が家の郵便受けに一通の手紙が配達されました。差出人を見るとそこには懐かしい大学時代の友人の名前がありました。急いで開封すると、久しぶりに「同窓会」を開催するという案内だったのです。考えてみると15年ぐらい前に集まって以来の出会いです。(5年前に同窓会は開催されましたが私用のため欠席しました)当日の予定を確認すると、幸い予定が入っていません。早速返信用のはがきの出欠欄に〇印を記入し、返送いたしました。8月が終わり9月を迎えるといよいよ「同窓会」の日が近づいてきました。誰が参加するのか、何人参加するのかなどの不安な心は少しありましたが、JRの切符の手配をして小旅行に出かけました。会場では幹事のIさんが笑顔で迎えてくれ、その瞬間に大学生に戻った気分でした。ロビ-には早く着いた同窓生の友人たちが迎えてくれたのですが、卒業以来初めて出会う方もあり、懐かしさを感じました。ただ、参加者全員の顔が分かったわけではなかったのです。なんか見覚えのある顔だなぁと感じていたのですが、名前が出てこないのです。同窓生の中には、私の顔が分からない人もあり、お互い様でした。

 40数年という時間は、私にとっては決して短い時間ではありません。その間、就職して働き始め、結婚し、子供を育て、その子供が結婚し、また親を亡くし・・・と今振り返ってみると本当に様々なことがあった40数年です。しかし同窓会とは不思議なもので時間の長さがなくなり、昨日まで一緒にいた様な身近さを感じるのです。文字通り「タイムスリップ」をしているのでしょう。同窓生の一人ひとりの精一杯生きている姿に接し、私自身も元気をもらったように感じました。参加した方とはもちろんのこと、今回都合で参加できなかった方や亡くなった方とも友人との会話を通じてお出会いできたと感じました。

 仲間とは出遇い続けるから「仲間」であると思うのです。そして20歳の時に見えなかったことが、40年という時を経て新しい出遇い生みだしてくれたのです。次回は3年後に再会することを約束して、同窓会の地を後にしました。

平成29年8月のご挨拶

「父の御命日を迎えて」

 

昨年の8月に私の実父が還浄し、一年が過ぎました。振り返ってみるともう一年がたったんだなぁと時の速さに驚いています。御命日の朝、大鐘を撞いた後で、坊守とともに本堂に座り手を合わせました。父が亡くなる半年前からは一日おきに坊守がス-プを作り、水筒に詰めてマキノまで運んでいたのが思い出されます。時には喜んで食べてくれたこと、時には熱が出てしんどそうな状態だったこと。父の状態の変化に、喜んだり不安になったりの私たちでした。一年という時間の経過はいろいろな場面での父との出会いを感じさせられるものでした。特に住職として用務を行うときや、家族との会話の中にも父のはたらきを感じるのです。いつも父はこんな時にはどうしただろうと思うとともに、父が何を大切にしていたかを知らされるのです。そして、私の考えの行き着く先は常に、父は偉大であったということと同時に、父は優しかったということです。

 伊藤元先生の「ご法事を縁として」という本(東本願寺出版)には(「人はどんな力をもっているのか」や「どういう行いをしたのか」ということが重要だと思うかもしれませんが、もっと大事なことは、「どういう存在であったか」ということが大きいと思うのです。)とあります。亡き人の人柄も大切な思い出ですが、亡き人が自分にとってどのような存在であるのかということが改めて問われるのです。常に自分のことを願い続けてくれていた父であったということに頷けるのです。

 今年の「和讃講」で恩徳讃を歌ったときに、小学2年生の子どもさんから次のような質問を受けました。「ねぇ 先生、骨を砕きても、謝すべし。ってどういうことですか」と尋ねられたのです。そのときは小学校2年生に分かるようにどう説明すべきかを考え、とっさに答えることができませんでした。改めて恩徳讃に触れると、「身を粉にしても・・・」「骨を砕きても・・・」という言葉に気づくのです。出遇ったことの大きさや尊さに気づく。その人の存在の大きさに出遇うということが、身を捨ててでも報ずることであると知らされたのです。

和讃講を行いました。

今年度の和讃講は7月22日(土)から始めました。7月21日(金)から小学校は夏休みに入りましたが、住職・坊守の所用のため、22日より始めました。毎年は土曜日・日曜日は「和讃講」はお休みにしていますので、本当に子どもたちが集まってくれるか坊守とともに、心配していました。

 7時30分を過ぎた頃に、ひとり、ふたりと、子どもさんが集まってきて、和讃講を始めることができました。

 まずは、仏さまとの「ごあいさつ」です。住職と一緒に声をそろえて「なんまんだぶつ」とお念仏を称え、「誓いのことば」を唱和します。正信偈の練習では、赤本を持って、しっかり声を出します。どの子も一生懸命にお勤めができました。

 なんと言ってもお楽しみはゲ-ムの時間です。みんなが気に入ってくれたのは、「負けるじゃんけん」です。ややこしいですが、負けた方が勝ちということです。いつもは相手に勝とうとしますから、なかなか負けられないのです。日ごろの勝とうとする心が邪魔になるのです。子どもたちには「負けるじゃんけん」は気に入ってもらったようです。

 即得寺の「和讃講」の目玉は、みんなで夏の宿題に取り組むことです。学習の時間になると机に向かい真剣に鉛筆を走らせています。

 写真は和讃講の様子です。本堂いっぱいに子どもたちの声が響いていました。7月31日に昼食会を行い、準備をして下さった法話会の皆さんや総代の皆さんと楽しいひとときが持てました。

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平成29年7月のご挨拶

7月を迎え皆様はいかがお過ごしですか。例年この時期になると全国各地で集中豪雨のニュ-スが飛び込んできます。身近なところで災害が発生しています。十分な備えも必要ですが、被害を最小にするためには正確な情報の入手と早めの対応が大切であると考えます。どうぞお気を付けて下さい。

 さて、私は学校を4年前に退職してからは、少しばかり時間的余裕ができたため、ほんの真似事ではありますが畑での野菜作りに挑戦しています。なかなか上手くいかないのですが、御門徒の先輩に尋ねたり、本で調べたりしながら栽培しています。タマネギ栽培にも挑戦していますが、昨年は玉が大きくならず、失敗しました。理由は追肥が不十分であったためです。今年度こそはと、寒い12月や2月に肥料を施し、成長を見守りました。お陰様で病気にもならず、5月末に立派なタマネギを収穫することができました。

 収穫をすると、料理をしたくなるもので、ネットでタマネギのレシピを検索し、数あるためタマネギ料理の中から「オニオンス-プ」ならできそうだと考え、早速料理に取りかかりました。タマネギを切る時の目に感じる刺激も楽しみながら、フライパンで飴色になるまで炒め、コンソメス-プでコトコトと煮ればできあがりです。何ともいえない新タマネギの甘みがあり、とろみが口一杯にひろがりました。

 家族からの評価も上々で、「お野菜を植えて育てる苦労から始まったオニオンス-プだもん、感動やね」の一言にうれしくなりました。考えてみれば、先祖から頂いた土地に、タマネギを栽培し、収穫し、料理をして、一緒に食べてくれる家族がいるなんてこれ以上の贅沢はありません。

 宮城先生の本には「幸せとは因を知ることである。我々はすぐに果を求めるが、どれだけものをもらっても、当たり前という思いしか起こらないところには、幸せはないのでしょう。つまり、ほんとうに心から感謝せずにおれない、そういう事実に会ったとき、人間はいちばん幸せを感じるということなのです。」と示されています。

 今回、ささやかなオニオンス-プを通じて、大きな幸せ出遇うことができました。いつでも南無阿弥陀仏と称えて、食事を頂きたいです。

平成29年6月のご挨拶

昨年の12月にテレビの園芸番組で、バラの育て方について詳しく説明をしていました。その時は「バラの花はきれいだなぁ。」ぐらいに思っていたのですが、だんだん興味が湧いてきて、自分でも育てられるかも知れないと思い始めました。そこでインタ-ネットで「バラの苗木」という言葉を打ち込んで検索すると、沢山の販売店のHPが見つかり、いろいろな苗木が販売されていることが分かりました。

 早速、苗木を注文し取り寄せました。2月の終わりに届いたのですが、外は大雪のため、室内で管理することにしました。ワクワク感と同時に「こんなに放っておいてよいのかなぁ」という不安がおこり、今度はインタ-ネットで「バラの栽培の本」を注文しました。その本を頼りに、冬の剪定や水、肥料の管理について理解し、一回り大きい鉢への植え替えを行い、3月からは日の当たる外で育てました。家族中から「この忙しさの中で、本当にお世話ができるの?」という冷ややかな声援を受けていましたが、お陰で下の写真のように、沢山の花が咲きました。

 バラの栽培を通じて教えられたことは、一日一日の成長の中に「いのち」があるということです。そして、それぞれの苗木が精一杯に花を咲かせようとするということです。また同じバラでも一本一本それぞれ異なり、同じでは無いのですね。(バラバラでいっしょ。) 今振り返って考えると、バラを育てていた私が、バラから多くのことを教えられ、楽しさをもらったという感じです。

 是非皆さんも何かを育ててみてはいかがでしょうか。きっと新しい発見があるはずです。

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皆さんと一緒に大掃除をしました

5月27日(日)に大掃除をしました。午前8時30分に境内に集まって頂いた総代さん、女性総代さん、小池の御門徒の皆さんへの御挨拶で掃除に取りかかって頂きました。境内や庭の落ち葉、除草を丁寧にして頂きました。女性総代さんのお茶で一息ついた後は、本堂の掃除です。畳拭きは男の方に、縁や階段は女の方にと分担し互いに力を合わせてきれいにして頂きました。最後に記念写真を一枚!皆さんいい顔です。お疲れ様でした。

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平成29年5月のご挨拶

ありのままの「いのち」

先日、一冊の本を手にする機会がありました。「お誕生日おめでとう、生まれてくれてありがとう」という題の本(真城義麿著)です。その中で、『私が人間に、そして「私」に生まれた意味はどこにあるのでしょうか。』という問いが投げかけられていました。私たちは、人間に生まれたことには違いありませんが、さらに重要なことは「自分」に生まれたということにあると思います。

 今から二千五百年前にインドの北部(現在のインドとネパールの国境付近)で、お釈迦様が生まれられ、仏教を説かれました。お釈迦様に関する説話は数多く残っておりますが、特に誕生に関して印象に残る説話があります。お釈迦様は誕生の際、七歩あるいた後に、「天上天下唯我独尊」と声を発したと伝えられています。誕生直後の赤ちゃんが、歩き、言葉を発することは現実ではあり得ないことでしょう。しかし、この説話が私たちに伝えている意味は何であるかを考えるべきです。

 「天上」とは、自分を取り巻く状況が、比較的自分に都合良く、思い通りに進んでいる状況のことを指します。逆に「天下」とは、なぜ自分だけがこんな辛い目に遭うのだろうかと思ってしまう、つまり思い通りに進まない状態を言います。「天上・天下」とは「どんな状況であっても、どんな境遇になっても」ということを指しています。

 「唯我」とは、存在しているどの一人も、かけがえのない人であることを表しています。誰とも代わることのできない存在なのです。私たち一人ひとりが、他の人と代わることのできない、代わりがきかない人間なのです。

 「独尊」の「独」は、何も加えなくとも「それ自身で」という意味です。成績や所得や地位が高いかどうかではなく、その人がその人として生きていることが尊いということです。身につけた技能や能力が尊いというのではありません。

 私たちは、自分のありのままの「いのち」の尊さに改めて目覚めるとともに、支え合い、尊び合う、互いの「いのち」に「ありがとう」と感謝し合いたいものです。