令和6年5月のご挨拶

念仏もうしそうらえども

歎異抄の第九章には、親鸞聖人と唯円さんとの会話文が記されています。その内容は唯円さんが親鸞聖人を前にして、思い切って日頃疑問に思っていたことを告白したことです。唯円さんは親鸞聖人の教えを受けて、念仏に出遇われたときは大きな喜びに包まれていたのですが、月日が経つうちにその喜びが薄れてきたのです。歎異抄の第九章には「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろう」と示されています。唯円さんの疑問は「念仏をしても喜ぶ心がわいてこないのはどうしてでしょう」ということです。親鸞聖人はこの問いに対して直ぐさま「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と応答されています。親鸞聖人は唯円さんの問いを否定することなく、「親鸞も唯円さんと同じように感じていました」とお答えになったのです。

 私は他の人から質問されても、親鸞聖人のように他の人の質問を自分の「問い」とすることができませんでした。場合によっては質問を軽んじたり、後回しにしたりするのです。他の人からの質問は、他の人だけの疑問ではなく、実は私自身への大切な「問い」だと教えられます。また、その「問い」に向き合うことが、その人と向き合うことになるのではないでしょうか。「問い」はすぐに答えを出すことができる場合もありますが、多くの場合はすぐに答えを出すことができないのではないでしょうか。しかし、その「問い」を一緒に考えていく姿勢こそが求められているのではないでしょうか。

 親鸞聖人は唯円さんの「問い」に対して、「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり」と唯円さんにお話しされています。喜ぶべき心をおさえているのは、実は私の煩悩であると示されているのです。喜ぶべきことは沢山ありますが、その一つひとつが「当然だ」と考えているのです。そのため、毎日の生活に喜びも薄れ、感動しなくなっているのです。 松井憲一先生の「歎異抄講話 (法蔵館)」に次の詩が掲載されています。

       どのような不幸を吸っても        吐く息は感謝でありますように
             すべては恵みの呼吸ですから  

 唯円さんのこの「問い」は、私自身への問いでもあるのです。それは、「あなたは一体何を喜びとしていますか」「毎日、念仏と共に喜びのある日暮らしをされていますか」と問いかけて下さっているのです。

 本当の喜びとは何かと探している間は見つからなく、気がつけば「お念仏をいただいていることがすでに喜びである」ことを感じます。  孫の「おいしいと、うれしいとは似ているよね」ということばにハッとさせられました。