凡夫の身の自覚
残暑厳しい毎日ですが、ご門徒の皆さまはいかがお過ごしでしょうか。熱中症対策をしっかりととっていただき、体調管理にお気を付けください。
さて、仏教の経典では私たちの姿を「凡夫」と著されています。広辞苑で「凡夫」の欄を調べると、「煩悩に束縛されて迷っている人」とあります。凡夫ということをお聖教にはいろいろの言い方で説明してあります。その一つは「群萌」です。「群萌」というのは独りで生きていけない、寄り集まってでしか生きていけない状態をいいます。「独りで居ると寂しいが、二人で居ると煩わしい」という在り方を言います。二つ目は「凡小」です。「凡」は浅く生きているということです。毎日の生活で損得や勝ち負けにこだわり、物事を深く捉えることがない姿です。「小」は広さを失って、根性が小さいのが「小」です。広い世界を見失っているいるのが「小」です。三つ目は「貧苦」です。これは本来自分に備わっているものがあるのに気が付かない姿です。「貧」は心が貧しい状態であるため、外にいくら求めても満足のないことを言います。「苦」はいつも不安を抱え、安心できない心をいいます。この「凡夫」についての三つの言葉を示されると、毎日の自分の姿と重なるのです。
親鸞聖人は正信偈で「一切善悪凡夫人」と記されています。これは、善人や悪人を問わず、一切の人々は凡夫であると示されているのです。仲野良俊先生は『正信念仏偈講義・・法蔵館発行』で「一切善悪凡夫人というのは、群萌とか凡小とか、あるいは貧苦というような内容をもっておるわけですが、これはわかりやすく言い替えれば、業に動かされているものという意味です。つまり悪業が催せば悪人になる。善業が催せば善人になる。自分の心がけとか、そんなもんは間に合いません。善人といっても自分の心がけで善をやっているわけではない。結構なご縁に恵まれているから、計らずも善をやっているわけです。それからこんなことをしてはいけないといっても、悪縁が催してきたら、否でも悪業をやってのける。凡夫というものは弱いのです」と述べられています。
広辞苑に示されている「煩悩に迷っている人」という記述について、そのとおりだと考える一方で、凡夫であるが故に「迷う」のではないでしょうか。凡夫とは仏の眼から私達の姿を示された言葉です。我が身を仏法という「鏡」に映してみると、自分は正しいと考えていたことが実は狭い考えであったことに気付かされるのです。 念仏をいただくということは、自分の立場を越えて仏の眼をいただくと言うことです。「凡夫」が「凡夫」と知らされたとき、迷っていたと気付く時でしょう。