お知らせ&即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

令和7年8月のご挨拶

幸せってなに?

 今年の暑さは格別で、30℃越えの気温に身体がついていきません。ご門徒の皆さまはいかがお過ごしでしょうか。熱中症対策をしっかりととっていただき、体調管理にお気を付けください。

 さて、法語のカレンダ-には「道は近きにあり 迷える人は これを遠きに求む」とあります。私たちはいろいろなものを求めて生活していますが、本当に手に入れたいものは何でしょうか。この法語に記されている道とはどのような道なのでしょうか。私たちは生まれた日からずっとこの人生を歩み続けていますが、何のために生きるのかがはっきりしていないのではないでしょうか。

 平野修先生は「この世の三種の功徳」を次のように記されています。「この世で優れた性質と可能性を持つものは、言うまでもなく「お金」です。二番目は何かというと、それは「健康」です。健康というのは非常に優れた性質と可能性を持っています。三番目は知恵とか技術ということで、広い意味で言うと、「知識」ということになります。」

 なぜ、この三つを手に入れたいと考えるのでしょうか。それはこの三つが手には入れば「幸せ」を実現できると考えているからでしょう。どの人も、「幸せ」になることを人生の目的としているのではないでしょうか。しかし「お金」を手に入れたからいって「幸せ」が手に入るとは限りません。むしろ「お金」があることによりトラブルに巻き込まれる危険が生じます。「健康」であることは「幸せ」なことだと思いますが、本当にその幸せを感じるのは「病気」になってからではないでしょうか。「健康」な時はそれが当たり前だと考えて、「幸せ」とは感じにくいのかもしれません。「知識」に優れていることは大切ですが、人と比較して自分は「偉い人間だ」と傲慢になるのでは幸せとはいい難いでしょう。

 いずれにしても、「幸せ」を実現するために、経済力や地位名誉や健康を必死になって求めていても、そこには私たちが求める「幸せ」は存在していないのではないでしょうか。

 「幸せ」とは一体どのようなことなのでしょうか。私たちは「幸せ」になりたいと考え、「幸せ」を求めて生きていますが、どうなることが「幸せ」になることかが分かっていないのではないでしょうか。今よりも豊かになり、便利さを求めることが「幸せ」だという考え方もあるでしょうが、戦後80年を迎える今、物が溢れ、便利さを十分享受する生活がここにあります。しかし「幸せ」を実感しているかというと、むしろ「空しさ」の方が大きいのではないでしょうか。

 「幸せ」とは都合のよいことを求めることではないのでしょう。都合が悪いと思っている事柄から私自身の在り方が問われ、そのことから学び育てられることにより、本当の私自身の歩むべき道が明らかになると考えます。その道は決して楽をする道では無いと思いまが、その苦労を通じて生きる喜びに出遇い、人生の深さや重さを感じるのだと思います。

 「幸せ」はきっと私たちの足下にあるのだと思います。

令和7年7月のご挨拶

悪衆生とは誰のことか

 正信偈のお勤めで、毎日拝読している言葉です。

 皆さんは正信偈を読んでいると、「悪」という文字が目に入ってきませんか。「邪見憍慢悪衆生」、「一生造悪」、「極重悪人」など「悪」という文字が正信偈には用いられています。私たちが「悪」と聞くと、法律に反する行為や犯罪を犯すことだと考えます。確かに新聞やテレビの報道を見ていますと、「誰でもいいから」という理由で犯罪が行われたり、金銭のトラブルで命を奪われたりということが実際に起こっています。では親鸞聖人が説かれた「悪」とは一体どのようなことなのでしょうか。仏教で言う「悪」は、人と人が傷つけ合うことであり、互いに苦しめ合うことです。この「悪」の在り方は、人と人との関係だけでなく、国際社会でも起こっています。「自国の平和を守るため」「やられる前にやっつけるべきだ」という考えに立ち、平和を実現するために相手国へミサイルを落としているのです。

邪見な見方に気付かない。 

 私たちは自分中心の物の見方から離れることができません。いつも自分は正しいという考えに立ち、行動し、その結果、他の人が犠牲になっていても自分を正当化するのです。他国の紛争について報道されると、愚かな行為であると感じると同時に、人々が戦火の下でどれだけ苦しめられているかを想像します。しかし、戦争であれ、人間関係の摩擦であれ、当事者は自分が正しいと考え、行動しているのです。一番愚かなことは、自分の行為が愚かであることすら気が付いていないことです。

愚かであるから教えが必要なのです。

 親鸞聖人は私たちの在り方を「無明」と示されました。「無明」とは、大事なことが見えていないということです。さらに、見えていないということも、見えていないのです。そのため、自分の偏った見方「邪見」を本当に正しい見方だと思い込むのです。人と仲良くしたいと思っていても、「あの人は気に入らない」「あの人は邪魔だ」と言っている以上、本当に分かり合えることはできないのでしょう。仏の教えは、私たちに誤ったものの見方をしている、間違っているぞと教えてくださることです。

念仏と共に歩む人生。  

 お念仏を称えたら、欲がなくなったり、腹が立たなくなったりすることはありません。また、お念仏によって、都合のよいことを実現できるわけでもありません。お念仏は自分自身の在り方を照らしてくださるはたらきです。私自身が物事の本質を見失い、自分の都合だけを主張していることに気付かさせてくださるのです。

 お念仏により、限りない「いのち」の世界を感じると、お一人おひとりの中に「いのち」を見出し、同じ「いのち」が自分にまで運ばれていることに驚くと同時に、頭が下がります。与えられた一日一日をお念仏と共に歩むことが願われているのでしょう。

令和7年6月のご挨拶

「お米」

 最近お米についてのニュ-スが多くなり、本人の失言により農林水産大臣が交代するという事態が起こっています。お米に対しての関心が高まる中、お米がなくてはならないものであることを改めて実感させられます。

 我が国の歴史を振り返ると、紀元前2~3世紀に大陸から稲作が伝わり、人々の生活はそれまでの狩猟生活から農業を中心とする生活に変わりました。弥生時代には、稲作のために土地の開墾や共同作業が行われるようになりました。食料を蓄えることができるようになったため、人々の生活は豊になりました。一方で田畑を確保するために争いが繰り返され、貧富の差も生じることになりました。お米を手に取ると、遙か弥生時代にまで遡り、当時の人々の苦労が感じられます。

 「米価」を巡っての庶民の活動としてよく知られているのは、1918年に富山県で起こった「米騒動」です。当時の日本は第一次大戦に参戦したため、物価が高騰し、特にお米の価格は急激に高くなり、「米騒動」が引き起こされたのです。この騒動により時の政権「寺内内閣」は総辞職しました。お米の価格が、政治を動かす原動力になったわけです。

 「お米」について前住職は、「白いご飯さえあれば、おかずはいらん」とよく言っていました。戦時中を生きた父は若い頃に辛い経験をしたのだと思います。昭和一桁生まれの方にとっては「白いご飯」は当たり前ではないことが生活を通してよく分かっていたのでしょう。

 さて、今回の「米騒動」で政府は、備蓄米を放出することによって米価を引き下げようとしています。米価を引き下げれば問題は解決するかというと、そう簡単な問題ではないと思います。お米は生産者である農家の方にとっては命がけで育て上げたもの。また、採算が合わなければ米作りを止める農家も出てくるのではないでしょうか。それでなくても、農業全般に言えることは、後継者不足により今後の生産が見通せないという不安があることだと思います。「米価」を論じることも大変重要だと思いますが、価格だけに目を奪われると大切な事を見落とすことにならないか心配です。

 金子大栄師(真宗大谷派僧侶、元大谷大学名誉教授、1976年没)は著書「正信偈新講上巻」で帰命について述べておられます。『帰命ということは「たのむ」ことです。「たのむ」という言葉の意味の第一は「田の実」すなわち米のことです。米がなければ生きておれない、命の綱である。だから「たのみ」とは、それが無ければ生きていけないということで、「田の実」という意味から来ておる。』 金子先生は仏さまのはたらきを分かりやすく「お米」を例として示され、仏さまのはたらきなしには生きていけないことを教えてくださっているのです。

 今回のお米を巡る「騒動」も、普段は当たり前だと考えていることについて、大きな問いをいただいていると感じます。「米価」も大切な事ですが、それ以前にお米を口にできることを喜び、お米のいのちをいただいていることを忘れてはならないと思うのです。

花まつりをおこないました

4月29日朝9時より 本堂において花まつりを行いました。当日は天候にも恵まれ、沢山の小学生の参加の下、若院によるお釈迦様のお話やゲ-ムで楽しい時間を持つことができました。写真は○×ゲ-ムで盛り上がっている様子です。夏休みには7月19日から7月26日まで和讃講(子ども会)を行うことの案内もしました。是非とも参加してもらいたいです。

令和7年5月のご挨拶

「国益とは」

 今年1月にアメリカの大統領にトランプ氏が就任してから、テレビでトランプ氏を見ない日はありません。それだけアメリカの大統領という椅子は力を持っているのだと思います。特に3月以降は連日、「トランプ関税」についての報道が盛んに行われ、トランプ氏の発言によって、株価や為替相場が乱高下する事態が起こっています。世界最大の経済大国であるアメリカが、各国との貿易について関税という新たな壁を設けた影響が大きいからでしょう。

 トランプ氏はアメリカ第一主義を掲げて大統領選挙で当選しました。アメリカの利益を最優先に考え行動するのが当たり前なのかもしれません。しかし、今回の関税措置が本当にアメリカの国益に叶うかが疑問です。関税騒動について報道される内容を見ていると、原因は貿易における赤字が問題であると主張していますが、本当に関税率を上げれば解決する問題であるのかが疑問です。今や、あらゆる製品は国境を越えて生産され、流通しています。日本のス-パ-マ-ケットに並んでいる商品も、外国産のものが多く並んでおり、パソコンやスマートフォンの中味は外国の部品で組み立てられています。今や、物も人も国際社会の中で移動し関係し合って成り立っているのでしょう。

 そもそも国益とは何でしょうか。その国にとって利益となることだと考えますが、国とは何を指すのでしょう。一口に国と言っても様々な体制があり、様々な人が存在します。国のとらえ方はいろいろあると思いますが、その土地に生活している国民を抜きにして国を語ることは出来ないと考えます。その意味では国益とは本当にその国の国民にとって利益となるかどうかを考えなければならないと思います。国益とは、目先の損得に振り回されることではなく、すべての国民にとって何がその国にとって利益となるのかを問うことから始まるものだと思います。さらに、一過性の利益の追求ではなく、50年、100年先においても国益として受け継いでいけることでなければならないはずです。  歎異抄後序には次のような記述があります。『聖人のおおせには、「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。」そのゆえは、如来の御こころによしとしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめ』とあります。私達凡夫にとっては何が国益であり、何が国益とならないかが分かりません。仏教では「自利利他」を説きます。自国の利益だけ考えるのではなく、他国と共に生きる道があるはずです。そのためには、本当の利益とは何かを問い続けることが大切なのではないでしょうか。

令和7年4月のご挨拶

「ピカピカの一年生」

 三月に孫が卒園しました。この三年間は坊守の入院もあり、保育園への孫の迎えなど孫との関係が深まりました。卒園式が近づくと、孫に「ねぇ、おじいちゃん。私の卒園式におじいちゃんも来てくれる?」と尋ねられたのです。参加制限もなく嬉しいお誘いであり、参加することにしました。当日は園児全員による卒園の言葉や歌に感動し、目頭がうるんできました。三歳から入園し四年間の保育園生活によって、先生や友だちから多くのことを学び、育てられ成長した姿に感動しました。

 四月からは「ピカピカの一年生」です。一年生はかがやいているのです。ピカピカしているのは制服やランドセルが新調され新しいからでもありますが、それ以上に小学校で学ぶことに喜びがあり、期待に胸を膨らませているからです。これから始まる小学校生活にワクワク、ドキドキしているからでしょう。

 一年生にとって、これから始まる小学校生活はよいことばかりではありません。友だちとけんかをしたり、悲しいことや悔しいことにも出遇うでしょう。また、色々なことに挑戦し、出来ることの喜びや友だちと遊ぶ楽しさも、もっと大きくなるはずです。一年生がかがやいているのは、喜んで小学生活を迎えるからであり、自分を支えてくれる両親や家族、友達や保育園の先生の励ましに安心し、自分の歩みを始めることが出来るからでしょう。

 私達も「ピカピカの一年生」に負けないで、毎日をワクワク、ドキドキ感動を持って生活しているかが問われているのではないでしょうか。「ピカピカの一年生は」はいのちがかがやいているのでしょう。精一杯に生きている姿を見ると素晴らしいと感じます。

 私共もいただいている「いのち」、一度きりの「いのち」をかがやかせたいものです。自分の思い通りにならず、不平や不満を言ってる時はいのちは曇っているのではないでしょうか。また、悲しみや不安を感じる時はいのちが元気を失っているのでしょう。  私共は、自分に与えられた課題をいただき、その課題から学び育てられると思います。ピカピカの一年生に対して私達は「ピカピカの念仏者」です。私共にいただいている課題は、仏さまからのお催促です。課題がなければ「お念仏」と出遇うことはありません。老いや病気、災害など思わぬ課題が降りかかってきますが、お念仏を通じてこそ、本当のいのちがかがやくのだと思います。互いにいのちをいただいていることの事実に立った時、喜びをいただくと感じます。

令和7年2月のご挨拶

「平等とは」

 今年の冬は、北陸や東北地方に於いては大雪に見舞われていますが高島市ではほとんど雪が降ることもなく、穏やかな冬を迎えております。さて、先日から「平等」とはどのようなことかを考える機会がありました。NHK連続テレビ小説「虎に翼」の主人公の寅子は、日本初の女性弁護士で活躍されますが、一貫して「平等」というテ-マで物語が構成されていたと思います。日本国憲法第14条では、すべて国民は法の下に平等であり、人種や信条、性別、社会的地位などによって差別されないことが定められています。これは「法の下の平等」と呼ばれ、基本的人権の1つです。しかし憲法に記されているから「平等」が実現しているとは考えられないでしょう。身近なところでは男女差別や人種差別などさまざまな差別が生じています。親鸞聖人のお書きになられたご和讃の中に、「平等」という言葉が出てくる和讃があります。

    解脱の光輪きわもなし 光触かぶるものはみな 

        有無をはなるとのべたまう 平等覚に帰命せよ

浄土和讃(讃阿弥陀仏和讃第三首)

阿弥陀様は多くの異名で呼ばれており、ここでは「平等覚に帰命せよ」と記されているのは、阿弥陀様のはたらきを「平等」と親鸞聖人が受け止められたからです。また、釈尊がお説きになった「大無量寿経」についても、最初の経典名が「無量清浄平等覚経」であり、仏のはたらきを「平等」と考えたのです。元専修学院長竹中智秀師は仏のはたらきを分かりやすく「えらばず、きらわず、みすてず」と仰いました。

 「平等」を国語辞典で調べると、「すべて等しく差別がないこと」と記されています。しかし現実には平等な世界を願いつつ、一方では自己中心の考え方に振り回されてはいないでしょうか。大統領や知事の発言から「○○ファ-スト」という言葉を耳にします。その国やその地方を第一に考える(第一主義)でとても分かりやすい考えですが、なにか利己的な感情を感じます。自国の利益のためならどんな手段も辞さない姿勢が感じられるのです。それは同時に私自身の中に存在している感情であり、常に「自分ファ-スト」を主張している我が身の姿ではないでしょうか。「平等」の根底には、どんな人も尊重され大切にされたいという願いがあるのです。仏の教えに遇えば、私は「自分ファ-スト」を貫いているのではないかという問いに出遇うのです。「平等」についての的確な回答は見つかりませんが、「平等」とはなにかを問い続けることが大切だと考えます。

令和7年1月のご挨拶

「贋作」

 あけましておめでとうございます。平素はご門徒の皆様方に大変お世話になりありがとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。

 さて、昨年は皆様にとってどのような一年でしたか。私にとっては、一日一日が貴重な時間であり、それだけに時間の過ぎ去る速さに驚いています。

さて、先日NHKの番組で脚本家の倉本聰さんが紹介されていました。「北の国から」などのドラマで名作を生み出した方です。現在89歳の蔵本さんは、最後の映画として36年ぶりに「海と沈黙」という作品を手がけられたとのことです。映画のテ-マは「贋作」について問いたいとのことです。倉本さんは「贋作」が見つかると、なぜ昨日まで美しい、美しいと言っていたもの、そのものの美しさは変わらないはずなのに、一斉にそっぽを向いてしまうのか。美とはそんなものなんだろうか?」と問いかけておられるのです。またそれは「贋作」という詐欺まがいの行為について、人を欺くということをどのようにとらえるかを私たちに問いかけていることでもあると思います。

インタ-ネットが普及し、大変便利な社会になりましたが、一方でフェイクニュ-スを流したり、投資詐欺やロマンス詐欺などが横行しているのも事実です。投資詐欺などについても、欺す方が悪いに決まっていますが、大金を不用意に送金してしまう側にも問題があると感じます。

お経には「五濁」と示され、人間の汚れを説いてくださっています。特に「劫濁」(こうじょく)は社会全体の汚れを示され、人間の価値観の変化や社会的・精神的乱れを指摘しています。

倉本聰さんの「贋作」のテ-マは、まさに本物とは何かを問いかけていると思います。作品だけでなく、私自身が人間として「本物」であるかどうかを問い返さなければならないと考えます。親鸞聖人は、歎異抄で「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」と説いておられます。念仏は常に、私自身の汚れを「汚れとして」気付かしてくださる真実のはたらきです。

令和6年11月のご挨拶

有無の見

 朝夕に肌寒さを感じる季節となりました。ご門徒皆様にはお変わりありませんでしょうか。一日の寒暖の差が大きく体調管理に気をつけていただきたく存じます。

 先日、本堂でお勤めをしておりまして、ふと目に入ってきたのが「有無をはなるとのべたもう」というお言葉です。ご存知のとおりこの言葉は、親鸞聖人がお詠みになった「和讃」の一節です。皆さんは何回もこの箇所を読んでくださっていると思います。浄土和讃の「讃阿弥陀仏偈和讃」の第三首目です。

     解脱の光輪きわもなし  光触かぶるものはみな

      有無をはなるとのべたもう  平等覚に帰命せよ

「有無」というのは、有無の見をはなれるということです。「見」というのはものの見方ということです。宮城 顗先生は「私たちには、つねに自分の考え方を間違いのないもの、正しいものとして固執するということがあります。善導大師は、「五濁」のなかの「見濁」、つまり思想の混乱ということを、自分の誤った考え方を、いや、決して間違っていないといいくるめ、他者の正しい考えを、いや、そうでない、間違っているといいつのることと釈しておられます。」と述べておられます。

 私自身の生活を振り返ってみますと、「有無」のこだわりが悩みや不安を生み出していると考えられます。自分にとって何が正しいか間違っているかは実はよく分からないのに、目先の都合で判断していまうことがあります。そんなときは、必ず自分は正しいという立場に固執しますから、他の人との摩擦が生じるわけです。

 仏様は、「有無にこだわるな」「有無をはなれよ」と呼びかけてくださっているのです。お念仏をいただくと、「有無」にこだわっていた自分に気付かされます。「有無」をはなれたとき、他の人の言葉や考えが聞こえてくるのではないでしょうか。

 【ご報告】 この10月に若院(真哉)が、名古屋大学大学院の教授となりました。家と名 古屋の行き来を繰り返す生活で苦労の多いことですが、いよいよご門徒の皆様と ともに歩みを進めさせていただきたいと思います。今後ともよろしくお願いしま す。

         

  

 

 

 

令和6年9月のご挨拶

真宗とはどんな教えですか。

 今年の夏は異常な暑さで、自分の体調を管理することがやっとでした。ご門徒の皆さんはお変わりありませんでしょうか。

 さて、皆さんの宗旨は何ですかと聞かれれば、もちろん「真宗です」とお答えになるでしょうし、開祖は誰ですかと聞かれれば、「親鸞聖人です」と答えられるでしょう。ここまでの問いについては、明確な答えがあります。しかし次の問いはどうでしょう。真宗とはどんな教えですか。皆さんならどのように答えられますか。宗派や開祖は大切ですが、肝心なことはその教えであります。教えがはっきりしなければ、信心をいただくということもないのでしょう。

 「真宗」とは文字通り「まこと」を「むね」としていただく教えです。「真(まこと)」というのは、本当ということです。「宗(むね)」というのは、物事の中心ということです。身体であれば「胸(むね)」であり、建物であれば「棟(むね)」で、中心を表すという意味で共通しているのです。「宗(むね)」とは「拠りどころ」で、人が何を中心に成り立っているかを表します。もっと言えば、その人が何を大事にしているかということです。私にとって何を大切にしているかが明らかになるということが「真宗」ということです。

 NHKの朝の連続テレビ小説「虎と翼」では、主人公の寅子が再婚相手の家族と生活する様子が描かれています。それぞれの家族にとって大切にしてきたことが異なり、家族が分かり合うということが、努力を要することである事を知らされます。

 私たちは、何かの「拠り所」を持っていない人はいないと思います。しかしその「拠り所」が本当に人生の「拠り所」となっているのでしょうか。親鸞聖人は800年の時間を越えて、私たちに呼びかけて下さっているのです。「あなたが考えている『宗(むね)』は『真(まこと)』ですか。本当に大切にすべきことは見つかっていますか。」と尋ねてくださっているのです。

 お金や健康や仕事など自分が大切だと考えていることは沢山ありますが、それらを生涯変わらぬ「拠り所」として生きていけるのでしょうか。これらはすべて、自分の都合を投影したもので、ある場面では「拠り所」となっても、どんな状況に於いても「拠り所」とはならないのではないでしょうか。 親鸞聖人は「浄土真宗」を明らかにされ、「浄土」こそ「真実を宗とする」ことであると説かれたのです。「浄土」とは『本来の願いが明らかにされる世界(場)』ということです。「虎と翼」の寅子たち家族にとって、「本来の願いが明らかにされる世界」を互いにいただき続けることが、ともに家族として生活することであると思います。浄土は仏の世界です。南無阿弥陀仏と念仏申しあげたとき、私の価値観が転換され、仏の大きな世界に生かされるのでしょう。