お知らせ&即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

和讃講を始めました

7月21日より小学生は夏休みに入りました。これと同時に、毎年実施しています「和讃講」(即得寺子ども会)も始まりました。朝7時30分過ぎから、小学生が集まりだし、45分から「和讃講」の始まりです。

 本堂では、ご本尊に手を合わせ、「ちかいの言葉」をみんなで唱えます。真宗宗歌は坊守のピアノ伴奏で歌い、正信偈のお勤めをします。日に日に小学生の声が大きくなるのが分かります。

 ゲ-ムの時間は、負けるじゃんけんや指運動、新聞紙を使った文字探しなど、みんな夢中で参加しています。

 最後は夏休みの宿題をする「学習の時間」です。みんな集中して課題に取り組んでいます。「和讃講」は7月27日まで行います。

令和5年7月のご挨拶

無  明

 坊守が退院して4ヶ月を迎えようとしています。入院に際しましては、ご門徒の皆様にご心配をお掛けいたしました。通院の度に検査結果を気にしながら診察を受けておりますが、お陰さまで現時点では、順調に回復をしております。

 さて、最近では1年前のことがよく思い起こされるのです。坊守が入院したのが昨年の5月でしたので、この頃は、坊守の病気のことを考えるとただただ不安な思いだけでした。冷静に病気について考えることができず、かといって何かができるわけでもなく、不安な気持ちばかりが押し寄せていました。

 ちょうど1年前、お寺の境内が草だらけになり、若坊守と一緒に草取りをしたのを思いだしていました。皆さんはお分かりのように、昨年だけ特別に草が成長したわけではありません。毎年、草は生えるのですが、成長する前に除草できていたのです。私は昨年の境内の状況を目にするまで、こまめに除草がされていたことを知らなかったのです。いつ見ても、境内は清掃されていることが当たり前だと思っていたのです。しかし坊守が入院で不在となった時、境内の草が私に「今まで誰が清掃していたのか、分かっているのか」と問いかけるのです。以前はそんなことは分かっていると返答しているところですが、昨年の状況を目にしたとき、分かっていなかったと、ただ頭が下がる思いをしました。

 無明とは、ものごとを知らないことではありません。むしろ、私はよく知っているという思い込みが「無明」の原因ではないでしょうか。坊守の入院までは、「私は坊守のことはよく知っている」と考えていましたが、実際は分からないことだらけでした。いままで、家庭生活の中で坊守がどんな役割を果たしてくれていたのかも実際には知らなかったといえます。ゴミの出し方から、掃除、炊事など数えればきりがありません。

 私の目は物事をよく見ているように思っていましたが、実は自分という立場でしか見ていない目でありました。そのため、坊守の姿は見ていても、本当の「はたらき」が見えていなかったのです。声にしてもそうです。いつも話をしているから坊守の「声」は聞いていると思い込んでいますが、音声は聞いていても本当の声は聞こえていなかったと思います。

 人との出会いとはどのようなことでしょうか。「顔は見ているが、出会えていない」という言葉があります。どこまでも自分の都合で人を判断し、便利に利用はするが、その人を分かろうとしているでしょうか。妻のこと、夫のこと、子どものこと、親のことが分かっていない私であったとうなずけたときに、新しい関係が始まるのではないでしょうか。

令和5年6月のご挨拶

スク-ルガ-ド

 今年度4月から、小学校のスク-ルガ-ドをお引き受けしました。私は列の最後から子どもたちと一緒に、小学校までの片道1.3㎞を歩いています。子ども達の歩調に合わせ、約25分かけて歩きます。この登校班には小学校1年生も3人いて大変可愛く、登校班のそれぞれの子どもさんの成長される姿を応援しています。登校班の小学生が少ないため、すぐに名前を覚え、毎日「おはようございます」の挨拶とともに登校しています。約2ヶ月が過ぎましたが、全員が元気よく登校していることが喜びです。

 小学生と一緒に歩き始めて色々なことを知ることができました。まず第一に地域の小学生に対して多くの方々が関わり、見守って下さっていることです。登校時・下校時の横断歩道での見守り、交差点での見守り、PTAの方による交通安全週間の立ち番など、安全な登下校が地域の方々によって支えられています。

 第二に、小学生にとっては登校の時間は子ども同士がふれあう時間なのです。私も仲間に入れてもらい、「クイズ」を出し合ったり、「しりとりあそび」をしたり、「たしざん」をするなど楽しい時間です。子どもさんと歩いているのが楽しくなり、元気をもらっています。

 第3に、小学生の人数が大きく減少していることです。日本全体が少子化の問題を抱えていますが、南小学校でも同じ問題があります。人数だけが問題ではありませんが、一人ひとりがのびのびと大きく育ってほしいと感じます。  毎日、小学校まで歩くことによってよかったことは沢山ありますが、そのひとつは私自身の体重が減ったことです。ご門徒の方に出会うと、「少し痩せられましたか?」と尋ねられることが多くなりました。また、毎日ですから、規則正しい生活をするようになりました。朝は時計を見ながら、集合場所に遅れないようにと、少し緊張感を持って過ごしています。この一年間は「スク-ルガ-ド」として子どもさんとともに歩みを進めたいです。なにより「ご院さん」と呼ばれるより、「○○ちゃんのおじいちゃん」という新しい呼び名で子どもさんが呼んでくれることがうれしいです。

「花まつり」をおこないました。

   4月29日朝9時より 本堂において花まつりを行いました。当日は天候にも恵まれ、沢山の小学生の参加の下、住職のいのちのお話や若院によるゲ-ムで楽しい時間を持つことができました。写真は境内での宝探しの様子です。みんな夢中で、汗をかきました。

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春彼岸会法要をお勤めしました。

   3月21日(火)に、逮夜は午後2時より、初夜は午後7時30分よりお勤めいたしました。コロナ感染が比較的落ち着いている状況であり、多くのご門徒の皆さんにお参りいただきました。

今回の御法話は岡崎別院輪番の福田 大先生が「亡き人を案ずる私が、亡き人から案じられている」と題してお話下さいました。私たちは人を問うことによって生活しているが、実は如来から問われている存在である。また、日常生活の中で真宗の教えに出遇うとはどのようなことかをわかりやすく教えて頂きました。印象に残った先生の言葉は「悟るといふても/迷ふていることを/悟るのである(安田理深)」です。今頂いているご縁に、しっかりと向き合いたいです。

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わかきとき、仏法はたしなめ

『蓮如上人御一代記聞書』(第63通)には、『仏法者、もうされ候う。

 「わかきとき、仏法はたしなめ」と、候う。「としよれば、行歩(ぎょうぶ)もかなわず、ねむたくもあるなり。ただ、わかきとき、たしなめ」と、候う。』と記されています。 蓮如上人は、当時の門徒方に、若いときにこそ、仏法を聞きなさい」と教えられたのです。その理由は、年齢を重ねると足腰が弱り、すぐに眠たくなってしまうから」と仰っています。

 しかし、蓮如上人の本意は「若いときにたしなめ」という受け止めにあるのでしょう。それは、自分の年齢をどのように感じているかという問題もあると思います。私は、今年二月の誕生日で、満70歳を迎えることができ、家族が古希のお祝いをしてくれました。一昔前であれば、古希は長寿を祝う行事だったと思いますが、私は「まだまだ若い」と思っています。この「私はまだまだ若い、私はまだまだ元気だ」という気持ちが、「仏法はまだ早い」ということに繋がっているのではないでしょうか。

「仏法を聞く、聞法する」とはどのようなことでしょうか。法語のカレンダーには「日常生活の全体が大きな問いかけをもっている」とあります。自分の都合のよいことだけを求め、都合の悪いことから逃げているのが私たちではないでしょうか。 年齢を問わず、毎日の生活を通じて、本当に大切なことに出遇うということが願われているのでしょう。

 日常生活から何が問われているのかを確かめて下さい。私たちが「当たり前」と思っていることが、「本当に当たり前なのか」という問いかけが聞こえるはずです。その問いかけに出遇ったとき、当たり前と思っていた日常生活から大きな喜びを感じることができるのでしょう。

 池田勇諦先生は、「人間は生きている限り暇はありません。時間をこしらえなかったら、このような聞法会の場には来られません。家で寝転がっていては、ご縁には出遇えません。」と仰っています。

          (住職)

令和5年3月のご挨拶

「今」を安心して 生き生きと

 春。出会いに季節。年々「新しい出会い」も少なくなり、新鮮な感覚も失いがちなのですが、皆様はいかがでしょうか。しかし、これまでに得ることができた「あたり前のようなお出会い」がまた、どれ程尊いものであったかを改めて知らされ、深まりをもってくる日々でもあります。

 さて、私(坊守)は305日間の入院生活を 経て、3月2日に退院させて頂くことができました。「自宅養生・通院」という形で、しばらくは家でも入院同様の生活ではありますが、家族の元に帰ることができた喜びを実感しています。皆様からあたたかい励ましのお言葉やお心をかけて頂きました事に、感謝の手を合わせております。ありがとうございました。「人の心のあたたかさ」に、人はどれ程支えられて生きていることでしょうか。

 入院中は移植前の感染予防のために、健康な歯を10本も抜いてもらったり、様々な症状で苦しい時期がありました。ある時はうまく呼吸ができなくなり、「いち・・にい・・さん・・・」と数えながら息を吐いて寝ようとするのですが、続かない。そんな時、ひとつ置きにお念仏が出てきました。「いち・・南無阿弥陀仏・・・にい・・南無阿弥陀仏・・・145・・南無阿弥陀仏・・」あたりまで覚えているということは、その辺りで眠れたということでしょうか。阿弥陀様が私の苦しみを、ともに背負って、私の息となってくださったと思います。

 「吐く息、吸う息、有難く、一息一息がお念仏」という心を忘れぬようにしたいと思いました。

 また、この間、何人かの患者さんとのお出会いもあり、皆愛すべき存在となりました。同時に、これまでの事が反省されたり、恥ずかしくなったり、感謝の手が合わさったり・・・。またまた、それどころではなくなったり・・・。 人として、また動物(ただただ生き物)として生かされる時間を賜りました。どの時間も私にとって大切であったと思えます。

 主治医の先生から「退院」という言葉が発せられた時、夢のように感じられました。そして家族一人一人が大変喜んでくれました。しばらくは家族にもいろいろ迷惑をかけるばかりなのに。考えてみれば、以前はあたり前と思いながら家族と生活し、その中で様々な問題に日々あくせくしていたのに、戻れるというだけで、全てがOKという思いになっているのは不思議でありました。

 「退院が約束された身になった」その事そのものが、それほど救いの思いと感謝一杯になるのですね。

 「現生正定聚」ということは、「仏となることが約束されている身」だと知ることで救われ、「今」を安心して生き生きと生きられる すばらしい世界であります。しかも親鸞聖人は「御同朋・御同行」という「人との関わり」を教えて下さり、そこに「浄土」という世界観を開いていてくださる。このような「お念仏の眼差し」に出遇い続けることは本当に幸せです。ご縁あるお仲間とともに聞法生活の喜びを感じていきたいと思います。

即得寺坊守 川那邉睦美

令和5年2月のご挨拶

「人生見直しのチャンス」

 一月下旬に大寒波が押し寄せましたが、皆様にはいかがお過ごしでしょうか。昨年の年末は比較的温かい日が続き、雪が積もることもなかっただけに、今回の寒波では改めて冬の厳しさを知らされました。

さて、28日の法語カレンダ-が目に入りました。そこには「人生はやり直しが利かないんだ、利かないけれど見直しのチャンスなんだ」とあります。この言葉をどのように考えればよいか、私なりに考えてみました。

私たちの人生は、一回限りの人生を生きているわけです。その人生は、誰かにかわってもらうことができず、限りのある人生であることは誰もが知っていることです。しかも人生の時間を戻すことはできないわけです。その意味で「人生はやり直しが利かない」と表現されているのです。

では、「見直しのチャンスなんだ」とはどんなことを意味するのでしょうか。人生を見直すとはどんな時でしょう。自分の思い描いていた人生と異なったとき、自分の思い通りに行かないときではないでしょうか。そんな時こそ人は自分を見つめ、人生の意味を改めて問うのではないでしょうか。そして、その時こそ、人生の意味を深く、重く、広く尋ね、人生を豊かにするのでしょう。

「夜と霧」の作者であるフランクルさんは、「人生に何かを期待するのではなく、人生から何を期待されているかである」と述べておられます。

人生と一口に言いますが、毎日の生活を通じて、何に出遇い何に感動するかを大切のしたいものです。私は、この人に出遇うために私は生まれてきたと言い切れる人生でありたいと思います。また、都合が悪いことについても、このことに出遇わずして私の人生はないと受け止めたいです。

この度の本山の慶讃法要テ-マは「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」です。人生を通じて、本当に大切なことに出遇い続けることこそ願われていることでしょう。

令和5年1月のご挨拶

「報恩」

     明けましておめでとうございます。平素はご門徒の皆様方に大変お世話になりありがとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。昨年は皆様にとってどのような一年でしたか。世界情勢を見るとウクライナでの戦争が起こり、その結果、電気代をはじめあらゆる製品が値上げされている現実があります。また、新型コロナについても4年目を迎えることになります。私たちの生活も徐々にコロナ以前の生活を取り戻し始めたのではないでしょうか。

    さて、昨年12月には「報恩講」をお勤めいたしました。「報恩講」とは真宗門徒にとっては宗祖親鸞聖人の恩徳を讃えると共に、そのみ教えを聴聞する大切な法要です。昔から真宗門徒を表す言葉として「真宗門徒は報恩講に始まり、報恩講に終わる」「真宗門徒は一年365日が報恩講です」と言われてきました。辞書で調べますと「報」という字は、(むくいる。応える)(しらせる。告げる)という意味があります。「恩」は(めぐみ、いつくしみ)という意味です。恩に報いるためには、頂いた「恩」を知ることが大切です。同時に私の思いを越えて、阿弥陀様のはたらきにより「恩の大きさを報(し)らされる」のです。「報」は「火災報知器」や「報告」というように、相手から知らせてくれるはたらきがあります。「報恩」と「感謝」とはよく似ているようですが、内容は異なります。「感謝」は、謙虚な姿勢を表していると考えられますが、どんな場合にも「感謝」できるかどうかと問われると、難しさを感じます。それは、自分の都合に立ち、都合がよいときは感謝できるが、都合が悪くなると感謝できないという「私」が存在するからです。

 池田勇諦先生は『浄土真宗入門(東本願寺出版)』で、「ご先祖」は一方では感謝の対象でありつつ、一方で恐れの対象という複合性をもっています。生活が順調であれば、「ご先祖のおかげ」と喜び、逆境に陥れば「先祖の祟りでは?」と怯えるのがそれでしょう。「人間は功利心に比例して恐れを抱く」と言われるゆえんです。そうした「恐れ」の自分に気づくとき、ほんとうの感謝とは程遠い自分への悲しみに、初めてあたえられていくのが真の感謝ではないでしょうか。と示して下さっています。

     当たり前だと思って生活してきた私が、根底からひっくり返されることにより、ようやく当たり前ではなかったと気づかされるのです。私にとって都合の悪いことこそ、実は「私」を目覚めさせる阿弥陀様の大きなはたらきなのでしょう。

     さらに池田勇諦先生は「恩徳によって、初めて私を在らしめているもろもろの恩恵(それを仏教では父母の恩、人びとの恩、天地自然の恩の3つに統摂して説いています)への真の感謝が成り立つのです。しかもそれは「よくぞ仏法に遇わせて下さったことよ」という、よろこびの一点に統一される謝念というべきでしょう。と述べておられます。

令和4年11月のご挨拶

「預かりもの・賜りもの」

 先日、久しぶりに岐阜へ嫁いでいる二女(美法)と出会うことができました。コロナの関係で、なかなか出会うことができませんでした。顔を見ると元気そうで安心し、会話も弾みました。二女(美法)は子育て真っ最中で、小学三年生の男の子と四歳の保育園児(女の子)に奮闘しています。子どもとの何気ない会話の中に、大きな発見や喜びがあるとのことです。

 こんなことを聞かせてくれました。小学三年生の男の子が、「うちはお寺だから本堂や外の掃除をしなければならないの」と。それにたいして二女(美法)は「お寺というのは、門徒の皆さんからお預かりしているから、いつでもきれいにしておくのよ。」と答えたそうです。

 その時、二女は「預かるというけれど、本当はすべて預かりものばかりだなぁと感じるのや。子どもも自分で産んだから、自分の思い通りにしようと思うけど、仏さまからの預かりものなんやなぁと思う。この二人の子どもを仏さまが、私たち夫婦に対して預けてくださったのだと思う。だからこそ愛情をかけて育てないと。」と私に対して呟いてくれました。

 この二女の言葉を聞いて、私は生活そのものが「預かりもの」であると知らされたのです。子どもだけではなく、すべての生活が仏さまからの「預かりもの」であり「賜りもの」であるのです。そのことを忘れ、すべてが「自分のもの」であり、自分の思い通りになると勘違いしているのが私たちではないでしょうか。

 預かっている以上は、「こんな預かり方でいいのだろうか」「もっとできることはないだろうか」と預かっている身としての自覚が常に促されます。また、「賜りもの」としての生活を見直したときは、「本当に私は送り主の心を大切にできているだろうか」「頂いていることを当たり前にしていないだろうか」と問われるのです。

 『安心決定鈔』には

 「されば、いずるいき、いるいきも、仏の功徳をはなるる時分なけれ ば、みな南無阿弥陀仏の体なり。」と説かれています。

 私の身体も全て、頂きものであります。一息一息が賜ったものであり、一息一息がお念仏であることが知らされるのです。