お知らせ&即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

令和5年1月のご挨拶

「報恩」

     明けましておめでとうございます。平素はご門徒の皆様方に大変お世話になりありがとうございます。今年も宜しくお願い申し上げます。昨年は皆様にとってどのような一年でしたか。世界情勢を見るとウクライナでの戦争が起こり、その結果、電気代をはじめあらゆる製品が値上げされている現実があります。また、新型コロナについても4年目を迎えることになります。私たちの生活も徐々にコロナ以前の生活を取り戻し始めたのではないでしょうか。

    さて、昨年12月には「報恩講」をお勤めいたしました。「報恩講」とは真宗門徒にとっては宗祖親鸞聖人の恩徳を讃えると共に、そのみ教えを聴聞する大切な法要です。昔から真宗門徒を表す言葉として「真宗門徒は報恩講に始まり、報恩講に終わる」「真宗門徒は一年365日が報恩講です」と言われてきました。辞書で調べますと「報」という字は、(むくいる。応える)(しらせる。告げる)という意味があります。「恩」は(めぐみ、いつくしみ)という意味です。恩に報いるためには、頂いた「恩」を知ることが大切です。同時に私の思いを越えて、阿弥陀様のはたらきにより「恩の大きさを報(し)らされる」のです。「報」は「火災報知器」や「報告」というように、相手から知らせてくれるはたらきがあります。「報恩」と「感謝」とはよく似ているようですが、内容は異なります。「感謝」は、謙虚な姿勢を表していると考えられますが、どんな場合にも「感謝」できるかどうかと問われると、難しさを感じます。それは、自分の都合に立ち、都合がよいときは感謝できるが、都合が悪くなると感謝できないという「私」が存在するからです。

 池田勇諦先生は『浄土真宗入門(東本願寺出版)』で、「ご先祖」は一方では感謝の対象でありつつ、一方で恐れの対象という複合性をもっています。生活が順調であれば、「ご先祖のおかげ」と喜び、逆境に陥れば「先祖の祟りでは?」と怯えるのがそれでしょう。「人間は功利心に比例して恐れを抱く」と言われるゆえんです。そうした「恐れ」の自分に気づくとき、ほんとうの感謝とは程遠い自分への悲しみに、初めてあたえられていくのが真の感謝ではないでしょうか。と示して下さっています。

     当たり前だと思って生活してきた私が、根底からひっくり返されることにより、ようやく当たり前ではなかったと気づかされるのです。私にとって都合の悪いことこそ、実は「私」を目覚めさせる阿弥陀様の大きなはたらきなのでしょう。

     さらに池田勇諦先生は「恩徳によって、初めて私を在らしめているもろもろの恩恵(それを仏教では父母の恩、人びとの恩、天地自然の恩の3つに統摂して説いています)への真の感謝が成り立つのです。しかもそれは「よくぞ仏法に遇わせて下さったことよ」という、よろこびの一点に統一される謝念というべきでしょう。と述べておられます。

令和4年11月のご挨拶

「預かりもの・賜りもの」

 先日、久しぶりに岐阜へ嫁いでいる二女(美法)と出会うことができました。コロナの関係で、なかなか出会うことができませんでした。顔を見ると元気そうで安心し、会話も弾みました。二女(美法)は子育て真っ最中で、小学三年生の男の子と四歳の保育園児(女の子)に奮闘しています。子どもとの何気ない会話の中に、大きな発見や喜びがあるとのことです。

 こんなことを聞かせてくれました。小学三年生の男の子が、「うちはお寺だから本堂や外の掃除をしなければならないの」と。それにたいして二女(美法)は「お寺というのは、門徒の皆さんからお預かりしているから、いつでもきれいにしておくのよ。」と答えたそうです。

 その時、二女は「預かるというけれど、本当はすべて預かりものばかりだなぁと感じるのや。子どもも自分で産んだから、自分の思い通りにしようと思うけど、仏さまからの預かりものなんやなぁと思う。この二人の子どもを仏さまが、私たち夫婦に対して預けてくださったのだと思う。だからこそ愛情をかけて育てないと。」と私に対して呟いてくれました。

 この二女の言葉を聞いて、私は生活そのものが「預かりもの」であると知らされたのです。子どもだけではなく、すべての生活が仏さまからの「預かりもの」であり「賜りもの」であるのです。そのことを忘れ、すべてが「自分のもの」であり、自分の思い通りになると勘違いしているのが私たちではないでしょうか。

 預かっている以上は、「こんな預かり方でいいのだろうか」「もっとできることはないだろうか」と預かっている身としての自覚が常に促されます。また、「賜りもの」としての生活を見直したときは、「本当に私は送り主の心を大切にできているだろうか」「頂いていることを当たり前にしていないだろうか」と問われるのです。

 『安心決定鈔』には

 「されば、いずるいき、いるいきも、仏の功徳をはなるる時分なけれ ば、みな南無阿弥陀仏の体なり。」と説かれています。

 私の身体も全て、頂きものであります。一息一息が賜ったものであり、一息一息がお念仏であることが知らされるのです。

令和4年10月のご挨拶

「浄土」

 先月の台風での被害はどうでしたでしょうか。お寺では本堂の一部が風で少し被害を受けました。

 さて、皆さん「浄土」とはどのようなことだと考えられますか。世界に目を移すと、2月から始まったロシアとウクライナとの戦争は、この世の地獄ではないでしょうか。本当は両国の人々は、一日も早く戦争を終えてほしい。平和な時を取り戻したい、互いに仲良くしたいと思っているはずなのです。

 池田勇諦先生は著書「浄土真宗入門」(東本願寺出版)で次のように示されています。「私は「浄土真宗」の四文字を次のように受けとめています。すなわち、「真宗」は「問い」であり、「浄土」は「答え」であると。・・・略・・・そして真宗とは、人生の真実の宗は何か、つまり私たちは何を根拠に生き死にするのかという、人間にとって根本的な問いかけであります。この根本的な問いに、阿弥陀仏の本願は「浄土」という二文字をもって応答されている。そのことを明らかにされたのが親鸞聖人でした。」

 池田先生が述べておられるように、本当の問いがないところには、「浄土」は存在しないと思います。そのため、「浄土はどんなところか」「浄土は本当にあるのか」という質問を受けますが、浄土があるかないかを論じるより、浄土を必要とするかどうかが問われると考えます。

 阿弥陀の浄土は「願いの世界」です。仏が私たち人間に何を願いとされているか。その願いに出遇う場所が「浄土」ではないでしょうか。阿弥陀仏の願いの第1番目は、「たとえ私が仏を得るとしても、私の国に地獄、餓鬼、畜生があるならば、私はさとりをとりません」とあります。これは、地獄、餓鬼、畜生は痛ましいことであると示されています。しかし私たち人間のあり方を考えると、戦争や争いを行い、自己中心的な考えを止められないのが現状です。

 「浄土」とは私たちが人間らしく生きることを成り立たせる場所なのです。本来の私自身を成り立たせるような場が「浄土」であり、「浄土」を見いだすことが、一人ひとりの人生(いのち)がいちばん輝く世界だと感じます。

 池田先生は、「浄土へ往生すると言うと、「いつか」「どこか」いいところへ行けると考えがちです。しかし浄土が私たち自身のこととして明らかになってくると、「いつか」「どこか」ではなく、「いま」がいちばん適切なときであり、「ここ」がいちばん大事なところであることが見えてきます。」と述べられています。

 「いま」「ここ」をどのような場としているか、本当に大事な場となっているかが、問われているのでしょう。

令和4年9月のご挨拶

「基準」

朝夕は幾分涼しさを感じる季節となりました。皆様はいかがお過ごしのことでしょうか。

 先日、中村石材さんに境内の灯籠の修復をお願いしました。私(住職)がこのお寺に入ったときから気になっていたのですが、二基ある灯籠の北側が地盤の関係で沈んでおり、少し北側に傾いていました。今回の修復は江戸時代以来のことではないかと思っています。

 さて、8月22日より石材店の職人さんに入っていただき、工事をしていただきました。その時感じたことは、職人さんというのはすごいなぁということです。北側・南側の二基の灯籠を測量し、黄色の工事用の糸を何本か張り、現在の灯籠の位置を正確に記録されていました。その結果、北側の灯籠は南側の灯籠に対して東側に7cmずれていることが判明しました。40年間見ている灯籠は傾いていることは分かっていましたが、位置そのものがずれているとは考えもしませんでした。

 傾きは、長年の地盤の変化によるものですが、そもそも左右が対称に設置されていると考えていた位置が異なっているとは疑いもしませんでした。測量を行い、参道からの距離や本堂を起点とした距離を割り出していただくと、確かにずれているのです。

 基準とは面白いもので、左右の灯籠がずれていると考えたとき、北側を基準にすれば南側がずれていることになります。南側を基準にすればその逆が言えます。本堂を基準にすれば前後左右についての誤差が割り出されます。今回は左右の灯籠の高さも一致するように修復していただきました。

 私達の生活に於いても、基準は大切なものです。何を基準にして生活をしているか。左右の灯籠だけを比べているときには、どちらかを基準にした場合はもう一方が異なっていることになります。工事用の黄色の糸を張り渡すと、なるほど位置がずれていたのかと納得するのです。

 仏法を頂くということは、私が立っている位置を確認するということではないでしょうか。自分はいつだって正しいと思い込んでいたことが、お念仏という黄色い工事用の糸を張り巡らせると、突出していたのは私であったと気付かされるのです。

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     (修復前)         (修復後)

令和4年8月のご挨拶

「本願の正機」

     皆様お変わりありませんか。私、坊守は5月より思いがけない入院となり、日頃の境遇の有り難さや、これまでの恵まれたお出遇いの喜びというものをいよいよ深く思い、感謝しているところです。

 私の病室は3階にあり、近くには三井寺が見え、窓のすぐ近くにも、いくつかのお寺の屋根が広がっています。高い位置からなので、境内や駐車場、お墓など敷地内がよくわかるののですが、おそらく道路からは、ぐるりと塀が巡らされているので見えにくいことと思います。お参りやご用の方が訪れてこそのお寺となっています。「門をくぐる」というのは、実はよほどのご縁なのかもしれませんね。私共は真宗門徒と呼ばれますが、門のどこに立っているのでしょうか。四衢亮先生が、よく「浄土の門が開かれる」と表現されますが、それはどんなことなのかと思っていました。6月の同朋大会で、ご講師としてお越しくださった折り、住職からそのことについて質問してもらうことができました。

 先生がお応えくださったには、「既に浄土の門は開かれているのだ。間に合わないことが起こって、気付く、その時が『本願の正機』なのだ。」ということ。「また我々は、浄土の門に入ることばかりを考えているが、門は出入り自由なのである。再び娑婆に出て、聞法の仲間を誘うことができるのが、門なのである。」ということ。私のややこしいはからいが「真実」や「既に開かれている門」を見えにくくしていたことを知らされました。

 今、ここで、このままの私に開かれ迎えられていることを思い、嬉しく感じるとともに、「私の役割」ということを考えさせられました。

〈一緒に聞いていきませんか〉

 録音された先生のお話から、更に胸を打たれた親鸞聖人のお姿。それは、ご自分を殺そうとした人をも同朋として「一緒に聞いていきませんか」と歩みをともにされたことです。山伏弁円の「意に添わない者は殺してしまいたい。」という罪業性を、ご自分の中にも見い出され、尽きることのない課題を聞き続けられたことであります。力によって思い通りにしようとした弁円が、聖人の温かさに触れ、自分の行いを悔い明法房という名をいただき、弟子としてともに歩まれた事実に感動せずにはいられません。

 四衢先生のお話の中で、「浄土をどうとらえるか」ということについても、考えさせられました。私共にとって最も苦しいのは「孤独」。同伴する者なし、という状態です。どんな私をも見捨てることなく、「一緒に聞いていきませんか」と、呼びかけてくださるお声、その歩みを開いてくださるのが「南無阿弥陀仏」であり、その世界こそがお浄土であると思います。今、ここで、このように過ごす私も、また、どのような状態になろうと、決して見捨てられることのない浄土の世界にあること、それはとても大きな喜びです。

即得寺 坊守  川那邉睦美

和讃講(子ども会)が始まりました。

 今年も夏休みを迎え、和讃講(子ども会)が始まりました。7月21日~27日までの期間小学生を対象に朝、7時45分から8時45分まで即得寺本堂で、正信偈の練習・ゲ-ム・お話・夏の宿題などに取り組んでいます。

今年はコロナの影響もあり、12名程度の参加者ですが、毎日熱心に参加してくれています。7月27日には参加者全員にご褒美のプレゼントを用意しています。

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令和4年7月のご挨拶

 「往生」とは「浄土に生まれる」こと

     緑の美しい季節となりました。七月を迎え、今年も半年が経過し、時の流れの速さに驚くばかりです。新型コロナウイルス感染はやや落ち着いていると感じますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。今回は池田勇諦先生の著書「浄土真宗入門」に示されている「往生」について紹介します。

 さて、私たちは普段、「往生」という言葉をどんな意味で使っているでしょうか。まず“死ぬこと”。そうですね。「あの方は九十歳で大往生だった」などと申します。それから“どうしようもなくなって行き詰まる事”。「雨が降ってきたのに傘がなくて往生した」などと言います。特に「往生」が“死ぬこと”と理解されているのは、「浄土」の場合と同じように、“往生とは死んでから来世において浄土へ産まれることだ”という考えが一般化しているからでしょう。

 教えから言えば、「往生」とは「死ぬこと」ではなく、「浄土に生まれること」を意味します。だから、「浄土」と言えば、そこに「往生」ということが離れないのです。

 しかし、「浄土に生まれる」とは具体的にはいったいどういうことなのか。私たちは、一歩踏み込んで、そのことを教えに問わねばなりません。それは何よりも私自身、長年にわたって引きずってきた問題です。自分にとって「浄土に生まれる」ことは、いかなる体験なのか。よりはっきり言えば、「浄土に生まれる」というときに、どんな「生まれかた」をするのか、という問題なのです。

    前章で述べたことですが、浄土とは私たちが依って立つ「真の国土」としてはたらく阿弥陀の本願のかたちでした。私たちが阿弥陀仏の大悲の本願に目覚め、真実の信心をいただくとき、その国土はすでに私たちを支える「真の大地」として私たちのところへ到来してくださっているのです。ですから、その浄土に往生するとは、浄土の功徳を賜って、この世での生をせいいっぱい尽くしていく歩みの始まりであり、新しい生活の始まりと言えるものなのです。 親鸞聖人はこのことを、『仏説無量寿経』によって、「すなわち往生を得て、不退転に住す」と了解されていまを得るとは、もはや一歩も後戻りすることのない大道に立つことなのだと、きっぱり言い切っておられるのです。(以上)

 浄土に生まれるとは、今まで自分中心でしか考えていなかった私が、そのあり方を問われ、気付かされたと言うことでしょう。浄土に触れた時、自分の汚れに気付くのです。

令和4年5月のご挨拶

不安の心が、念仏と出遇う力です

   私たちの不安感情は一体どこから来るのでしょうか。たとえば、あらゆる生物は必ず死ぬと、分かりきっていますが、いざ自分が死ぬとなるとそれを受け入れることができないのが我が身ではないでしょうか。いつ死ぬのかはっきりしないから不安を感じますが、逆に死が具体的に明確になれば恐怖心に包まれてしまうのではないでしょうか。

 岸見一郎著『不安の哲学』には、「不安とは、(未知、制御不能なものをコントロールしようとする時に起こす心の動き)である。」と記されてあります。また、不安はただ主観的なもので、気持ちの持ちようで解消できるようなものかといえばそうではありません。『不安の哲学』では、「哲学者アドラーは不安の原因ではなく、その目的が何かを考えます。アドラーは、仕事や対人関係のように生きていくにあたって避けることができない課題を『人生の課題』といい、不安はこの人生の課題から逃れるために作り出される感情であるといいます。言い換えると、不安の目的は人生の課題から逃れることです。」と記されています。

 では、親鸞聖人・蓮如上人から受け継いできた真宗門徒はどのように不安と向き合ってきたのでしょうか。それは、一言でいえば「念仏を申して生きる」ということです。

 大谷大学学長の一楽真先生は「念仏を申して生きると言うことは、決してお仏壇の前だけで「南無阿弥陀仏」と言うことではありません。常に「阿弥陀」「無量」という、比べることのできない世界を感じながら毎日の生活を送ると言うことではないでしょうか。念仏をいただく生活とはどのようなことでしょう。

 一つには「自己中心からの解放」です。自分のものの見方、それを絶対化するのではなく、誰にでもそれぞれの言い分、考え、立場があります。このことを本当に認め合って行くような生き方が求められているのです。念仏に出遇うことによって、自己中心であった自分に気付けるのです。」と述べておられます。さらに、

 「二つ目には、「問題を見抜く眼の獲得」です。日頃は自分中心に物事を見ていますから、どうしても自分にとって都合の良いことを求めます。また、自分の都合の悪いことを排除します。しかし、この心が実はお互いに争いを引き起こす根本ではないでしょうか。都合の悪いものを排除するというその心が、実はこの世を地獄にしていくんだと気付かされることが重要であり、同時に自分の愚かさを見つめて生きるということではないでしょうか。」と示されています。

 不安の反対語は安心です。人間関係において、互いに認め合い、尊重し合える関係こそが安心できる関係ではないでしょうか。

 また、自己中心の物の見方が不安を作り出しているのではないでしょうか。都合の悪いことこそ、本当に大切なことを知らして下さる力だと考えます。

 念仏を申せば、おかげが感じられ、いのちのつながりが見えてくるのです。

        (住職)

花まつりをしました

お釈迦様の誕生日は4月8日で仏教の各宗派は「花まつり」として、御誕生をお祝いしています。当時では4月29日に行っています。今年は門の下に誕生仏を安置し、「花まつり」をお迎えしました。

参加者は少なかったですが、坊守のクイズや若院の宝探しで盛り上がりました。

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春彼岸会法要をお勤めしました。

3月21日(月)に、逮夜は午後2時より、初夜は午後7時30分よりお勤めいたしました。

今回の御法話は長浜教区の佐藤義成先生が「ともに生きる」と題してお話下さいました。真宗を「真実の宗」として科学的な観点からもお説きくださいました。真理と自分の思いのずれが苦しみの原因であることが知らされました。また、彼岸と此岸を対比させ、此岸に身を置く私たちの生活はどうあるべきかを問いかけていただいたように思います。山崎ヨンさんの「不安が私の命やもん、不安を取られたら生きようがないわ。」という言葉が胸に残りました。

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