お知らせ&即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

他力とは如来よりたまわりたる信心です

浄土真宗の教えを一言で表すことは大変難しいことですが、大切な一点は、「他力」を頂く教えだということです。「他力」という言葉を誤解して用いられる方もおられます。以前、国会での答弁で、「自分の国のことは自分でしなければならぬ、他力本願では駄目だ」と発言されたことがありました。このように、自分の力だけでは間に合わないために、他の力を当てにすることだと誤解している人がいます。その誤解の原因は、すべてのことは自分中心に行われており、自分の思いどおりにできるという心があるからです。また、自分が努力すれば思いを実現できると考えています。この様な考えを「自力」というのです。 親鸞聖人は「自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。」(『一念多念文意』)と示されています。この言葉に出会いますと、まさに自分の思い通りにしようとしている自分の姿が明らかにされるのです。

 一方「他力」という言葉について親鸞聖人は、他の力を借りるという依頼心という意味で用いられたわけではありません。歎異抄には「如来よりたまわりたる信心」と示して下さっています。また「往生は、なにごともなにごとも、凡夫(ぼんぶ)のはからいならず、如来の御(おん)ちかいに、まかせまいらせたればこそ、他力にてはそうらえ」(『御消息集』)。と説いて下さっています。

 私たちは、大きな力に支えられて生きているのです。一人ひとりのいのちが与えられ、互いに支え合って生きています。吐く息、吸う息、ひとつとしてわが力でできるものではありません。他力は、その自覚の宗教的表現であるといえます。

 また他力の世界は、努力が必要ないと誤解される人がいます。受験で合格した場合は「自分が一生懸命に頑張ったからだ」と思います。しかし、一生懸命に努力できる条件(他力)があったからこそ努力できたのではないでしょうか。 

 法語には「他力の生活は最後まで、努力せずには おれない生活です」宮城 顗(みやぎ しずか)とあります。よくよく考えてみると、私を支えている大きな力(家族や様々な人)のはたらき、私にかけられた大きな願い(本願)に出遇うと、自分の力ではなかったと気づくのです。南無阿弥陀仏の念仏を頂くと、思い通りにしようとしていた私が、すでに大きな力(如来)の働きによって、思い通りになっていたのです。

 他力に生きるということを藤原鉄乗師が「念仏十唱」という詩で紹介して下さっています。

  春なれや 宇宙万有ことごとく よみがえるなり 南無阿弥陀仏。

  み仏の誓いなりせば 草も木も芽ぶき立ちつつ 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 咲く花も小鳥の声も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 生も死も三世十方 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば大空に かがやく星も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば悪逆の 提婆・阿闍世も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 世々少々の四海同朋 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば われも人も 六種四生 南無阿弥陀仏

 この詩を読んでいると、大きな世界に出会わせて頂きます。

平成29年3月のご挨拶

法語日めくりカレンダ-の4日のペ-ジには「人生には無駄なことは何一つありません」という言葉が載っています。私はこの言葉を見たとき、本当だろうかと考えてしまうのです。その理由は、私の生活では沢山の無駄があるように感じるからです。例えば時間を大切に使っているかといえば、なんとなく一日が過ぎたという日があり、時間を無駄にしてしまったと感じることがあります。皆さんはどうでしょうか。

 「無駄」という言葉を辞書で調べますと、「役に立たないこと。効果・効力が無いこと」と示されています。またその後には実に多くの慣用句が載っています。例を挙げますと、「無駄骨を折る。無駄口をたたく。無駄足を踏む。無駄話をする。無駄飯を食う」などです。

 沢山の無駄に関する言葉がある理由は、それだけ人が生活をするためには、無駄との関係が深いということでしょう。しかし、よく考えてみると、どんな人も始めから無駄をつくろうと考えて行動する人はいないはずです。行動した結果が、無駄になったと感じるのです。若い頃に少し困難なことに出会うと、どうせやっても無駄だと決めつけて、物事から逃げていたこともありました。

 仏法に出遇うと、無駄なことは何一つ無いんだと教えられます。逆に、無駄を作り、無駄と決めつけている自分が映し出されるのです。行動する前から「無駄になるとか、無駄にならない」ということにこだわりますが、大切なことは無駄になってもいいから、一生懸命に取り組むことだと教えられるのです。

 無駄を省くことも大切ですが、無駄を楽しむこともまた大切ではないでしょうか。

春の彼岸会ご案内

ご門徒の皆様には日々報恩感謝の生活を送っておられることでしょう。さて、彼岸会を例年通り左記のように勤めますのでお参り下さい。

 今年は三重県の藤本愛吉先生をお迎えして「いのちの願い」について御法話をいただきます。仏教では「いのち」をどのように捉えるのか、いのちに対してどんなことが願われているのかを先生のお話を通じて確かめる機会にして頂きたく存じます。

 今年も、彼岸会を仏法に出遇うご縁として頂きたいものです。

 

       記

日時 三月二十日(月)春分の日

午後二時より  午後七時三十分より

布教 藤本 愛吉 師(三重県)

講題 「いのちの願い」

場所 即得寺

平成29年2月のご挨拶

二月に入り、暦の上では四日に立春を迎えますが、まだまだ寒い日が続いております。今年は1月に2回、大寒波につつまれ、高島はすっぽり雪の中となりました。私は京都へ行く用事があり、1月23日の月曜日に車で出かけました。大雪の中ではありましたが、速度を落としつつ順調に走ることができました。京都の天候は午前中は晴れていて、高島の雪は想像もできほどでした。

 当日は夕方5時からのお参りがありましたので、午後2時に余裕を持って京都を出発しました。順調に午後3時には湖西道路の志賀インターまで帰ってきましたが、渋滞で車が動かなくなり、のろのろ運転を繰り返し、帰宅したのはなんと午前0時15分でした。雪の恐ろしさを知らされました。

 写真は1月24日に写したものです。境内もすっかり雪化粧です。本堂の屋根雪が多すぎて、正面の除雪はできません。なかなかこれだけの雪は珍しいです。

 雪を邪魔ものにして、この雪さえなければと愚痴をこぼしがちですが、親鸞聖人は「和讃」で次のように示して下さっています。

  罪障功徳(ざいしょうくどく)の体(たい)となる

   氷と水のごとくにて   氷おおきに水おおし

   障りおおきに徳おおし

『毎日の生活で、罪の意識や障りこそが覚りのもととなるのです。氷が多ければ、溶け出す水も多いように、障りが多ければ、覚りの徳も多いのです。』と示されたのです。人は、あらゆる生活の中で苦しみや悩みを抱えて生きています。その悩みや苦しみこそが阿弥陀様と出遇っていく縁であります。今回の雪も、毎日の生活での障害と思われることも「障りおおきに徳おおし」と頂きたいです。

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平成29年1月のご挨拶

あけまして おめでとうございます。皆様には昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 さて、昨年は皆様はどのような一年を過ごされたのでしょう。それぞれに、心に残る一年であったと存じます。私にとっての一年は父の死という悲しい出遇い、また孫の誕生という喜びの出遇いの年でした。父の死と孫の誕生を通して「生きる」とはどのようなことかを考える機会を得たと思います。特に父の介護を通して知らされたことは、人の一生には自分の思いを超えて「限定」が必ずあるということです。いつまでも生きてくれていると思い込んでいる私の思いに反して、人生は有限であるという事実を教えられたのです。人生における四つの限定を自覚しなさいということだと感じました。四つの限定とは、①人生は「一回限り」であり、やり直しがきかない。(やり直しはきかないが、見直しはできる) ②人生は「単独」であり、自分を引き受けることである。人に代わってもらえない。独立者として歩むことである。③人生は「有限」である。いくら平均寿命が延びたとしても、死を免れない。 ④人生は「無常」である。平均寿命がどれだけ延びても、自分の死はいつ来るか分からない。 「生きている」ということは、このような限定の上に成り立っているのですが、毎日の生活で「生きているという実感」がなかなか持てないのです。毎日の生活に追われて、ただ忙しいだけの毎日を送っているのではないだろうかと感じます。

 一方で孫の成長を目にすると、全身で「いのち」を表現してくれています。与えられた「いのち」を精一杯生きているのです。食事も着替えも全て家族の力にゆだねながら生活する赤ん坊の姿は、自分の思いどおりにしたいと悪戦苦闘している私に、「生かされる」という尊さを教えてくれているのです。

 親鸞聖人の「お念仏」の教えは、自分自身が「生み出される」教えです。なぜ自分は生まれたのか。なぜ自分に生まれたのか。このことを「お念仏」を通じて確かめたいです。

 東本願寺の高塀には、親鸞聖人七百回御遠忌テーマが掲げられています。

 「生まれた意義と生きる喜びをみつけよう」

 新しい年を迎え、新たなご縁の出遇いを通じて、「生きる」ということを確かめたいと考えます。

平成28年12月のご挨拶

12月に入り、お寺では報恩講の準備が始まっています。3日(土)には同朋会の皆さんで大掃除をして頂きました。5日(月)には十四日講・光華法話会の皆さんにお磨きをして頂きました。両日とも天候に恵まれ多くの方が参加下さり、境内や本堂、そして仏具に至るまでピカピカにして下さいました。いよいよ今週の9日(金)から報恩講が始まります。皆さんとともに報恩講をお迎え致したいと思います。

 さて、報恩講前の大掃除やお磨きを行っていると、如来様の「清浄光」を仰ぐとはどんなことだろうと思えてきます。「清」も「浄」もきよらかという意味です。どんな場所もどんな時も「清浄なる光」が私たちの世界に働き続けて下さっています。私たちの生活の場は、戦争があり差別があり強者弱者があり、その他様々な問題を抱えています。その根本は汚れであると考えます。この汚れを経典「阿弥陀経」には「五濁」(ごじょく)と示されています。「五濁」というのは、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは「劫濁こうじょく」「見濁けんじょく」「煩悩濁ぼんのうじょく」「衆生濁しゅじょうじょく」「命濁みょうじょく」の五つです。

 まず、「劫濁」は「時代の汚れ」という意味です。疫病や飢饉、動乱や戦争など、時代そのものが汚れる状態なのです。「見濁」とは、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。「命濁」は、命の汚れということですが、それは自他の生命が軽んじられる状態と考えられます。これらの汚れは実は、私たち人間が作り出しているという事実があります。

 如来の「清浄光」は私自身の汚れを照らす働きなのです。自分だけは汚れていないと思っていますが、汚れに気づいていないだけなのです。それが証拠に、大掃除やお磨きをすると、汚れていたことがはっきりと知らされるのです。私たちは今年も「報恩講」を通じて阿弥陀様の光明に出遇い、心の溝掃除をしたいものです。

真宗本廟両堂等御修復完了奉告法要に参拝しました

11月21日(月)に近江第26組北部会の住職・坊守さんとともに団体参拝しました。バスで和やかに話が弾むなかで、御本山前に到着しましたが、なんと、御本山前にはバス、バス、バスの行列ができており、なかなか降りることができません。やっと降りると、人、人、人の行列です。ちょうど10時からの音楽法要に間に合い、御影堂に入ろうとしましたが、廊下まで人でいっぱいで、入ることはできませんでした。

 音楽法要は、エレクトーンの伴奏とともに、コーラスの歌声が御影堂の隅々まで響き渡り、ただただ感動いたしました。御影堂の縁には、報恩講の冊子と音楽法要の冊子が置いてあり、その冊子には曲目や歌詞が掲載されていました。その中に、「三帰依文」の和訳歌詞や「回向」の和訳歌詞をコーラスの歌声とともに目で追っていると、その言葉の深さに改めて出遇いました。

 回向の和訳歌詞を紹介します。

願わくは 一切世界の人々と この出会いの喜びを

みな平等に分かち合い ともに仏になる心 発(おこ)して

阿弥陀みほとけの 安楽国に生(あ)れ 生きてはたらく身とならん

 丸山公園で昼食を取り、午後からは東山の将軍塚にある青龍殿を訪れました。山頂から京都市内が一望でき、木々の紅葉と重なり、秋を満喫しました。心も胃袋も充実した一日でした。

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平成28年11月のご挨拶

今年も残すところ2ヶ月となりました。郵便局では年賀状の売り出しが始まったとのニュースを聞くと、気ぜわしく感じます。皆様はいかがお過ごしですか。

 11月は私たち真宗門徒にとっては特に大切な月です。それは親鸞聖人の御命日(11月28日)でもあり、また御命日をご縁として「報恩講」をお勤めする月だからです。御本山では11月21日~28日まで法座が勤まります。私自身も御本山の報恩講にお参りしたいと考えています。

 さて、私たちは「報恩講」という言葉はよく知っていますが、どんな意味があるのでしょう。報恩講とは、覚如上人によって始められ、蓮如上人によって広く行われた法座です。真宗門徒として「如来のみ教えを私たちに身をもって明らかにしてくだされた、宗祖親鸞聖人」の恩徳を讃えるとともに、そのみ教えを聴聞する行事です。「報恩」の「報」という漢字にはいくつかの意味があります。漢和辞典を引いてみますと、①「報」むくいる。返す。用例としては「報恩」・・恩に報いる。恩返し。 「報酬」・・労力や尽力に対する謝礼の金品。とあります。二つめの意味としては②しらせる。告げる。用例としては「報告」・・告げ知らせること。「報知」・・告げ知らせる(火災報知器)。「報道」社会の出来事を知らせる。とあります。

 私は「報」という漢字の持つ大切な意味が、「知らせる。告げる。」という点にあると気づきました。私は「恩」に報いると言われても、どれだけ恩を受けているか知らないのです。もっと正確に言えば、「恩」を受けていることさえ気づいていないのです。大切なことに気づいてこそ、私の人生は空しく過ぎることはないのでしょう。

 「報恩」ということは、私の生活で本当に大切なことは何かを問うてくれます。「今、頂いていること」の大きさに気づき、「本当に大切なこと」を知らされるときに、感謝できるのでしょう。

 歎異抄の第14章には「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」と示されています。報恩講にお参りして改めて念仏を頂きたく思います。

 即得寺の報恩講は、⒓月9日(金)~11日(日)、狐野秀存先生をお迎えして勤まります。どうか皆様お参り下さい。

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平成28年10月のご挨拶

うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ (良寛)

10月に入り、朝夕に涼しさを感じる季節となりました。皆様には慈光のもと、御健勝にて仏恩報謝の日々をお過ごしのこととお慶び申し上げます。冒頭の句は良寛和尚の句です。先日、親戚寺院の十三回忌法要に参勤しました折に、そのお寺の御住職の御挨拶でこの句が紹介され、心に残りましたので今回の御挨拶に紹介いたします。

 皆さんの地域の紅葉はどうですか。即得寺の庭の木々はまだ青々としており、紅葉までには、あと一ヶ月以上先のことと思えます。庭に出て、写真を撮りましたが、鮮やかな緑の葉を広げており、若々しさを感じます。

「うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ」

 この句は良寛和尚の「辞世の句」であるそうです。70歳を超えた良寛和尚は、老いの身の中で「死」を実感されたのだと思います。生涯にわたって寺を持たず、貧しいながらも清らかな生き方を通されました。そうした中で、多くの詩や歌を詠み、また、子供達と遊んだ時等の逸話から慈愛に満ちたお人柄が伝えられています。良寛の命が終焉に近づいた頃、良寛自身が詠んだ俳句であります。「うらをみせおもてを見せ」るとは、自分の本当は人に見せたくない部分も全て自分なのだということではないでしょうか。私は、自分の嫌な面や隠したい面を外に出すことはできません。しかし良寛和尚は、自分の裏も表も全てさらし出さなければ自らの人生を全うできないと示されているようです。あるがままに老い、あるがままに生きるということを教えられます。

 親鸞聖人は「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。」と教えてくださっています。

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同朋会一日研修会に行ってきました

例年恒例になっております一日研修会を会員の皆さまの参加を得て実施いたしました。当日は、河内会長様や役員の方々にお世話になり30名の皆さまと共に有意義な研修をさせて頂きました。

 今回は教如上人の御旧跡である安八郡の光顕寺様と大垣の西圓寺様を訪問し、参拝いたしました。どちらの寺院でも御住職様の分かりやすい説明と教如上人への思いを語って頂き、岐阜の地で改めて教如上人のご苦労に出遇わせて頂きました。大切な寺宝、宝物を私たちのためにお出し頂き、準備をして待っていて下さったことに、ただただ感謝するばかりです。教如上人の御生涯は、常に戦と隣り合わせであったと感じますが、その教如上人を支える多くの念仏者がおられたことも事実であると感じました。特に土手組(どろてぐみ)の活躍や、身代わりとなり、自らの命をなげうって上人を護られた西園寺の当時の御住職にただ頭が下がるばかりです。今日、東本願寺を御本山とする真宗大谷派は教如上人によって開かれていますが、今回の研修でのお話を伺いますと、大変なご苦労と信念の上に大谷派が開かれたことを感じました。

 芭蕉の「奥の細道むすびの地記念館」にも立ち寄り、俳諧の世界にも触れました。秋のさわやかな気候の中で、思い出に残る一日となりました。

 今回の研修を終わって一句詠みます。

  「上人の 願いに出遇う 美濃の秋」

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