お知らせ&即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

令和2年8月のご挨拶

「南無」のこころ

今年の7月は大変な状況となりました。九州を中心とした水害が発生し、球磨川流域や筑後川流域の氾濫が発生し、その後は山形県で最上川の氾濫が起こり、大規模な水害が発生しました。また、7月後半からは全国的に新型コロナ感染が再び広がり、都心部だけでなく地方にも感染が拡大しています。水害で被災された方々、コロナ感染でご苦労されている方々に対しまして心からお見舞い申し上げます。

 さて、親鸞聖人がお書きになった「正信偈」では、最初の言葉が『帰命無量寿如来 南無不可思議光』です。「帰命」と「南無」には、ともに「仏に帰依する」という意味があります。お念仏を称えるのも「南無阿弥陀仏」と口にしますが、「南無」という心が大切だと感じます。「南無」というのは、私の思いや考えが砕かれ、ほんとうに頭が下がることを意味します。それは、自分の考えが正しいという立場に立ち、自分の考えた世界を唯一のものと思いこんで、頑張っていた心が砕かれたところに開かれる明るい世界です。仏さまの眼に出遇うことにより、安心と満足が見いだされる世界です。

 私たち人間は、闇の世界に生きているといわれます。何でも見えているし、分かっているつもりでいますが、「本当のこと」「真実」が見えているのかが問われるのです。種々の問題に出会って、どこに本当の問題の根があるか、どこに本当の解決があるかと知恵を絞るのですが、考えるほどいよいよ自己中心性や、無明煩悩の故に流転している自己の姿が明らかになっていきます。

 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもって、そら言たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」

と親鸞聖人が説かれているとおりであります。

 「南無」と手を合わせて、真実の教えに出遇う人となることが願われている私たちです。水害や新型コロナに出遇うことによって、自分の生活を支えていたものは何であったのか。本当に大切なことは何であるかを確かめる機縁となることが願われています。

令和2年7月のご挨拶

もろもろの雑行をなげすてて、弥陀に帰命する

緑の美しい季節となりました。七月を迎え、今年も半年が経過し、時の流れの速さに驚くばかりです。新型コロナウイルス感染はやや落ち着いていると感じますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 「聖人一流」の御文(五帖目第十通)には、もろもろの雑行をなげすてて、とあります。「雑行」とは迷いや執着のことでしょう。「雑」とはいろいろな物が混じることです。では、何が混じっているのでしょう。毎日の生活では、いろいろな状況の中を行動をしていますが、常に「自分にとっての損得」を判断して行動しているのです。「御文」には、自分の都合ばかり考え、一時も離れることのできない私たちに、「雑行」を棄てなさいと呼びかけて下さっているのです。

雑行を投げ棄てるとは一体どういうことでしょうか。私が自転車に乗っている時は、自動車がとっても邪魔に感じます。しかし、自動車を運転していると、「もう少し道路の端を走ればよいのに」と思い、自転車が邪魔に感じるのです。こんな経験をされた方はおられると思います。乗り物が関係するのではなく、どんな場合でも常に、自分を中心とする心があるからです。

 生活の中では悩み、苦しみが無くなれば、どれほど楽になれるかと考えますが、悩みはつきません。その理由は、悩みを作りだしているのは「自分」だからです。「雑行を投げ棄てる」とは、「自分中心の考えを止める」ということではないのでしょう。

法語には「凡夫であることを忘れないのは、念仏の智慧なのです」と示されています。「雑行を棄てる」とは、阿弥陀様の働きによって、「凡夫」であるという自覚をいただくことでしょう。自分は正しい、偉いと思っていた私が、実は丸ごと「凡夫」であったと気付かせて頂くことでしょう。

 法語には「煩悩を止めることはできない。煩悩と気付くことはできる」とあります。自転車に乗っていても、自動車の運転をしていても、周りを邪魔者にしているのは、自分中心の心だったと気付かなければ、共に生きることはできません。

弥陀に帰命するとはどのようなことでしょうか。生きるということ自体が実は「雑行の連続」ではないでしょうか。しかし思い通りにしたいと思っても、思い通りにはならないのが人生です。思い通りにならないときこそ、「いのち」の事実に立って、自身の人生について意味をたずねるチャンスとなるのでしょう。   

即得寺住職 川那邉 章

前住職17回忌・前々坊守33回忌法要をお勤めしました。

5月24日(日)に即得寺の前住職・前々坊守の法事をお勤めしました。今回の法事を迎えるに当たり、新型コロナウイルス感染が拡大する中で不安を感じながら準備を進めました。当初予定していた法要を縮小してお勤めすることになりました。法中は会焼香の寺院二カ寺と門徒代表として総代様等にお参り頂きました。写真は本堂の様子です。この日を迎えるために心を込めてお荘厳をさせていただきました。

前々坊守(芳枝)は明治37年の生まれで、藁園生まれ藁園育ちです。一宮から住職となる祖父を迎え、即得寺のために坊守として尽くしてくださいました。また父を含めて2男4女という子どもに恵まれ、子育てを通じての大きな喜びに包まれた御生涯であったと思います。昭和63年8月に84歳で命終し、浄土に還られました。

前住職は昭和3年の生まれで、大谷大学卒業後は熱心に布教に努めました。住職として、親鸞聖人のみ教えをご法座を通じて、また自らの生き方を通じて伝え続けて下さいました。そして、お念仏の声が途絶えなかったことが思い起こされます。平成16年6月に76歳で命終し、浄土に還られました。

この度の法事をお勤めすることにより、改めて前住職・前々坊守の願いを受けとめ、親鸞聖人のみ教えを御門徒の皆様とともに聴聞してまいりたいと存じます。

IMG_0936    IMG_0937

IMG_0941   IMG_0945

大掃除を行いました

5月16日(土)に予定していました「五月の大掃除」は前日の深夜より大雨となりました。私は大掃除が実施できるかどうかを案じ、朝5時に目が覚めました。何度も境内に出てみたり、天気予報を調べてみたりしましたが、この日は一日中雨の予報です。朝7時に16日の大掃除を17日に延期することを総代長さんと電話で相談し、参加者の皆さんに連絡をして頂くようにお願いしました。

 直前での日程の変更でどれだけの方が参加して頂けるかが心配でありましたが、17日の午前8時30分に小池の門徒の皆さん、女性世話方の皆さんが次々に顔を見せてくださり、ほとんど欠席されることなく集合してくださいました。

 8時30分の挨拶の後、境内を中心に清掃し、本堂西側の庭の掃除を行いました。10時前に女性世話方さんの接待による冷たいお茶でのどを潤しました。写真は休憩の様子です。

休憩後は皆さんが雑巾を持ち本堂の縁やガラス戸を掃除して頂きました。新型コロナ感染の影響で、なかなか外出ができず、また門徒の皆さん方がお互いに出会う機会が少なくなっていましたが、この大掃除ではマスクをしながら、皆さんとの会話も弾みました。

休日のご予定の多い中で、大掃除に参加して頂きましたご門徒の皆様に心から感謝申し上げます。

IMG_0922    IMG_0924    IMG_0923

IMG_0926    IMG_0927

令和2年5月のご挨拶

「ただ念仏のみぞまことにておわします」

さわやかな季節を迎えながらも、新型コロナウイルス感染拡大に胸の痛む日々です。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 6歳の孫が尋ねたそうです。「お母さん、コロナウイルスは、なんで人間のところに来たの」と。私どもの娘であるこの母親は、「人間とはどういうものかを知らせるために来たのかもね、と言ったけれど、どう答えたらよかったのかしらね」と電話で問いました。そして「人間の姿をあぶり出すためだとしても、ここまで追い込まれなければ私達は自分の本性に気づけないということかしらね」と続けました。確かに「命」を守り「生活」「経済」「政治」そして「立場」を同時に成り立たせようとすれば矛盾が生じ、自国を守ろうとすれば互いに他国と距離を置かざるを得ず、ややもすると排他的な気持ちを抱いたり、連帯よりも分離、感謝よりも利害が先に立つことも起こります。一人一人の本当の幸せは、世界協調にあるというのに、マスクの奪い合い,エゴによる衝突、感染者に寄り添うどころか差別まで起こりうるのが私達の住む世界です。そして、途上国や貧しい国、社会的弱者が一層深刻な影響を受けることにまで思いが至らない私です。

私達の宗門においては、教区や地区や組の教化事業が次々と中止され、各寺院においては、講や同朋会や仏事の縮小もやむを得ない状況が起こっています。危惧されるのは、人と人の分断、地域社会の崩壊、孤立化、お寺ばなれです。新型コロナ感染が収束した時、私達の世界秩序や、強く豊かな国とそうでない国の格差、地域の状況や人間関係、宗教ばなれや、人間の心の有り様はどのようになっているのでしょうか。私共の生き方、人間性が、根底から問われる気がします。善導大師が「機の深信」をお説き下さっていますが、今回はとことん追い込まれて「自分の都合でしか生きられない罪悪深重のわが姿」を 見せつけられたと思えます。

一方で、献身的に人に尽くし、世の中のために命がけの取組をされる姿にも触れ、私共はどのような命を生きようとしているのだろうかと考えさせられます。

「阿弥陀の世界」は諸仏がともに讃え合い、敬い合う世界であり、その様なあり方が私どもにも願われています。人間の本性がコロナに暴かれつつある今こそ、「ただ念仏のみぞまことにておわします」との親鸞聖人のお言葉に導かれ、いよいよ仏法聴聞させて頂く時だと思います。

   即得寺坊守  川那邉睦美

      

令和2年2月のご挨拶

「光陰矢のごとし」

 皆様はいかがお過ごしですか。今年は例年に比べて暖冬で、新旭でも雪がない冬となっています。テレビや新聞では「新型肺炎」が猛威を振るっており、感染される方が日を追うごとに増加していることです。皆様も予防に心掛けていただきたく存じます。

 さて2月を迎えて感じたことは、「新年を迎えたのが数日前のような気がしているのに、早くも1ケ月が過ぎ去っていた」という事実です。文字通り「光陰矢のごとし」です。広辞苑では「光」は日、「陰」は月をあらわし、月日、歳月、時をあらわすとのことです。振り返ると、1月は何をしていたのだろうと思い返すのですが、ただただ忙しさに追われて、気がつくと2月を迎えていたのです。実は時間の感覚というのは感動がなくなると早く感じるのだそうです。小学生の時は一日が長く感じていたと思います。長く感じるのは同じ時間を過ごしていても、ワクワク、ドキドキという感動があったからだそうです。日常の少しの変化にも、友達との遊びの中にも、ワクワク、ドキドキがあったはずです。しかし、60歳を過ぎた私は、毎日の中でワクワク、ドキドキすることが少なくなり、感動する心が乏しくなってきたと感じるのです。一日一日は新しい時間として頂いているはずですが、ともすれば毎日の生活が同じ事を繰り返しているだけの生活になっているのでしょう。そのため、感動も乏しくなり、ワクワク感を忘れてしまっているのです。その証拠に、昨日食べた食事の内容が思い出せないのです。ワクワクしながら食卓に着き、一つ一つの食材を味わい、感動しているかと問われると、答えられないのです。

 蓮如上人の白骨の御文には「さればいまだ萬歳の人身を受けたりということをきかず。一生すぎやすし」と示されています。また、法語には「何年生きたかではなく、どう生きたかである」とあります。

 今一度、生活を見直すと、孫との生活に「ワクワク、ドキドキ」させられており、お寺を訪れて下さる方との出遇いも「ワクワク、ドキドキ」するものです。何も外に目を向けなくても、「今日私の目が覚めた」ことがすでに「ワクワク、ドキドキ」であるはずです。自分の手が動くことも、家族と話せることも、実は「ワクワク、ドキドキ」であるのです。そのことを忘れているから、時間だけが過ぎ去ってしまい、時の速さに驚くのです。

春の彼岸会について

春の彼岸会ご案内

 ご門徒の皆様には日々報恩感謝の生活を送られていることと存じます。さて、今年度の彼岸会については新型コロナウイルスによる行事の自粛要請を受け、総代会での協議の結果、内勤めといたしますので、参拝して頂く必要はありません。現時点では、新型コロナウイルスの感染状況がどのように変化するか予想を立てることができません。やむを得ない対応として、お勤めのみの法要とさせて頂きます。勤行後の法話は中止致します。せっかくの聞法の機会であり、予定下さっていた皆様にとって残念なことと思います。

 各御門徒の皆様におかれましては、今回のお彼岸の御中日(3月20日・金)には、それぞれのご家庭の御内仏に灯明を点灯し、ご家族一緒に正信偈のお勤めをして頂きたく念願しております。

 時節柄、ご自愛頂きますよう念願致します。

       記

日時 3月20日(金)春分の日

 午前9時より 

    正信偈のお勤め(内勤め)

即  得  寺clip_image002

令和2年3月のご挨拶

「いのち」に出遇う

感染症の拡大に思う

     昨年末に中国の武漢で発生した新型肺炎(コロナウイルス)は中国国内だけに留まらず、今や全世界を巻き込んで猛威を振るっている。中国では七万八千人を超え、死者は二千七百人余りに達している。日本でも百五〇人余りの感染が確認されています。(2月26日現在)日を追うごとニュースで伝えられる内容が変化し、深刻な状況が感じ取れます。

 当初は報道が示すとおり、直接中国への渡航されたこと、または中国からの旅行者を受け入れることにより感染されたのだと考えていました。しかし現時点では海外渡航歴の有無にかかわらず感染者が報告され、感染の拡大が予想されます。 今回の感染の最大の難点は、治療薬がないということでしょう。人類の歴史はまさに、病気との闘いであったといえるのではないでしょうか。数々の伝染病の原因を突き止め、薬を開発し、治療法を確立してきた歴史があります。「健康」「命」をそうやって願ってきたと言えます。今回の新型ウイルスに対する治療薬も、一刻も早く開発されることを念じずにはいられません。

医療関係者のご苦労を思う

     今回、国内感染で思うことは、治療に当たっておられる医師や病院関係者、政府や自治体の関係者に敬意を表したいということです。直接治療や業務を担当されておられるご苦労を感じずにはおれません。自らが感染するリスクを負いながら、一生懸命に働いて下さっているお姿を思うと、ただ頭が下がります。今回のことで、どれだけご家族も心配されておられるかと思うと、胸の痛みを感じます。一日も早く、新型肺炎の感染が止まることを願っております。

「いのち」に出遇う

     私たちが病気になれば、病院のベッドで身を委ねなくてはなりません。しかし、病気の身体を引き受けることができないのが我が心です。現実を受け入れることができず、病気に対する不安を感じ、健康は善、病気は悪だと思い込むのです。

 ところが、病気のときも健康なときも、共通の事実があります。それは「いのち」が与えられているということです。「いのち」が与えられていなければ、病気にもなれないということです。健康なときも病気で苦しいときも、生きているという事実が前提になっています。病気であろうが無かろうが、老年であろうが若かろうが、私にとって共通の事実は、「いのち」が与えられて生きているということなのです。その「いのち」をどういただくかということがとても大切な問題であります。

     毎月、お茶所で「歎異抄の会」を開いていますが、二月の会で、ある方が「ご院さん、私は一度自分の心臓を取り出して、お礼が言いたいですわ」と仰いました。考えてみれば、口から愚痴や不満をこぼしながらの日々ですが、心臓も腎臓も文句ひとつ言わず働き続けているのです。私が眠りこけている時も、働き続けているのです。そうした「いのち」に向き合うとき、手を合わさずにはおれないのです。そして、「自分に力で生きているのではなかった」と気付かされたとき、「生死の苦海」が「功徳の大宝海」に転じて下さるのだと思います。

令和2年1月のご挨拶

「新しい年を喜ぶ」

 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。新年を迎えると、心があらたまり、何か新鮮な気持ちになります。

 さて、歎異抄の第9章には弟子の唯円坊の言葉として「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと」と述べられています。唯円坊は、普段から疑問に思っていたことを親鸞聖人に思い切って質問したのでしょう。その理由は念仏を申しても、自分は何も変わらないし、念仏を喜べない自分がいるという事実からです。この質問に対して親鸞聖人は、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円坊おなじこころにてありけり。」と述べられたのです。聖人は「私も疑問に思っていましたが、唯円坊も同じ心だったのですね」とおっしゃったのです。

 「喜ぶ」ということを考えますと、どんな時に喜んだかを思い出すのです。受験や就職、結婚など人生の節目での「喜び」は必ずあると思います。しかし時間が経つとその「喜び」も色あせてしまい、却って愚痴の種になってはいないでしょうか。私の場合は、自分の希望が実現できたときや、自分の思うように事が運んだときは喜べるのですが、逆に自分の思いが実現されず努力が報われなかったときは「喜べない」のです。

 念仏を申して喜ぶということはどのようなことでしょうか。自分の思い通りになっても、ならなくても念仏申すことを喜ぶということでしょう。親鸞聖人は歎異抄で唯円坊に対して「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり」と述べておられます。

 この歎異抄の言葉に出会いますと、私自身が「何を喜びとするか」が問われていると考えます。自分の思いを通すためには、他の人の思いを犠牲にしているということがあります。また、自分が今、いのちを頂き生きていることについて「喜べているか」ということがあります。新しい年を迎えて、「本当に喜ぶべきこと」とは何かを念仏を申しながら尋ねたいと思います。

令和元年11月のご挨拶

身命をかえりみずして

9月末から10月にかけて、関東東北地方は大変な災害が起こりました。一度被災された地域に、再び災害が起こり、改めて自然の厳しさと、人間の無力さを知らされました。被災された方には心からお見舞い申し上げます。

 さて、10月23日(水)に湖西中学1年生の生徒さんの校外学習に「学校サポ-タ-」として参加しました。「ふるさとウォ-ク」と名づけられ、JR北小松駅から湖西中学校までの20kmを歩く校外学習でした。依頼を受けたときは少し不安がありましたが、生徒さんとおしゃべりをしながら楽しい時間を頂きました。歩いているといろいろなことが頭に浮かび、遠く鎌倉時代の人はわらじで歩いたことを思い、『歎異抄』の一節に心が移っていきました。

 親鸞聖人の御在世の頃のことが『歎異抄』には次のように書かれています。「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたもう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。」と。関東の門弟が信心の問題を問うために、はるばる京都の親鸞聖人を訪ねられたときのことが語られており、常陸国から下総、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江、山城まで関所を越えて20日余りの日程で旅をされたというのです。

 今日では便利な時代となったために、余り苦労せずに移動することができ、地球のどこにでも短時間で行くことができます。しかし、身命をかえりみずして問うべき問いを大切にしているかと言われると、応えられないのです。熱意を持って「問い」に向かわなければ、本当に大事なことが分からないと思います。

 東本願寺の塀には、「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」というスロ-ガンが掲げてあります。