仏教は自分を映す鏡である

今年度の高島秋講で、皆さんは織田先生の御法話を聴聞されたことでしょう。先生は御法話の中で『仏教とはどのような教えか』について分かりやすくお話をしてくださいました。当日の法話で話されたことは、仏教の教えは「鏡を見る」ようなことである。私たちは毎日何度も「鏡」を見ている。「鏡」を見るといっても、「鏡の品質や製品としての鏡」を見ているのではない。私たちが「鏡」を見る場合は、「自分の姿」を映すために見るのである。しかし、映し出された「自分の姿」はどこまでも、自分の外側である。大切なのは、自分の内面を映し出す「鏡」である。「鏡」がなければ自分の姿が見えないのと同じように、「仏教の教え」がなければ、自分の内面を映し出すことができないのである、とお話してくださいました。

 織田先生のお話のとおりだと考えます。私たちは、「鏡」の前では、少しすまし顔になり、自分という眼をとおして、自分の気に入った自分を見るのです。決して、自分のいやな顔や嫌いな表情は作らないと思います。泣き顔や怒ったときに「鏡」を見る人は少ないと思います。

 では内面はどうでしょうか。毎日の生活を通じて、様々な悩みが湧き起こっています。その悩み一つ一つをとってみれば、その根本に「自分の思い通りにしたい」という心があるのです。この心に気づけない限り、どれだけ悩んでも、本当の解決にはならないのです。

 宮城顗(みやぎしずか) 先生は次のように仰っています。

無明とはいったい何かと申しますと、因縁の道理に暗いことであり、したがって、我執を意味しているわけであります。因縁の道理というものに眼を開かずに、我という思いに立って、我という思いに執着している。・・・・(略)

 私たちの生き方は、本来のことが見えていない、本来のあり方を知らないということが出発点になっています。道理に生かされながら、そのことに「無知」である。「無知・無明」のため、何でも自分でできると勘違いし、ある時は有頂天になる。また、自分の都合の悪いことが起こると、その現実が受け入れられず、愚痴をこぼしたり、腹を立てたりするのです。

 仏教を学ぶということは、自分のあり方を問うことであり、問われることです。私たちは、「よく生きたい」という願いをもっています。しかし、どのようにすれば、「よく生きる」ことができるのかが分からないのです。そのため、ひとときの楽しさを求めてみたり、物欲を満たそうとするのです。

 「仏法」は、毎日の生活が事実となって、私に本当のあり方を問うて下さっているのです。「よく生きる」ということは、「満足」するということでしょう。決して「楽」をすることではありません。自分の人生に「生きる意味」を頂き、自分に与えられた課題を果たすことが「よく生きること」であると考えます。