令和2年1月のご挨拶

「新しい年を喜ぶ」

 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。新年を迎えると、心があらたまり、何か新鮮な気持ちになります。

 さて、歎異抄の第9章には弟子の唯円坊の言葉として「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと」と述べられています。唯円坊は、普段から疑問に思っていたことを親鸞聖人に思い切って質問したのでしょう。その理由は念仏を申しても、自分は何も変わらないし、念仏を喜べない自分がいるという事実からです。この質問に対して親鸞聖人は、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円坊おなじこころにてありけり。」と述べられたのです。聖人は「私も疑問に思っていましたが、唯円坊も同じ心だったのですね」とおっしゃったのです。

 「喜ぶ」ということを考えますと、どんな時に喜んだかを思い出すのです。受験や就職、結婚など人生の節目での「喜び」は必ずあると思います。しかし時間が経つとその「喜び」も色あせてしまい、却って愚痴の種になってはいないでしょうか。私の場合は、自分の希望が実現できたときや、自分の思うように事が運んだときは喜べるのですが、逆に自分の思いが実現されず努力が報われなかったときは「喜べない」のです。

 念仏を申して喜ぶということはどのようなことでしょうか。自分の思い通りになっても、ならなくても念仏申すことを喜ぶということでしょう。親鸞聖人は歎異抄で唯円坊に対して「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり」と述べておられます。

 この歎異抄の言葉に出会いますと、私自身が「何を喜びとするか」が問われていると考えます。自分の思いを通すためには、他の人の思いを犠牲にしているということがあります。また、自分が今、いのちを頂き生きていることについて「喜べているか」ということがあります。新しい年を迎えて、「本当に喜ぶべきこと」とは何かを念仏を申しながら尋ねたいと思います。