令和3年5月のご挨拶

「畜生」

 一年以上経過しても新型コロナの感染は衰えるどころか、変異株が新たな感染を引き起こしています。皆様はいかがお過ごしですか。

 さて、浅田正作さんの「畜生」という詩があります。

交差点に差しかかったら  信号が黄色にかわった

ブレ-キを踏みながら  「チクショウ」と言った

あさましや  畜生は

仏法聴聞にゆく  車のなかにいた

 仏法では、「地獄・餓鬼・畜生」を三悪趣として苦しみの重さが説かれています。仏法に出遇うことによって明らかになる人間の姿が示されていると思います。その中で「畜生」とは、インドの(チィルヤンチュ)という言葉がもとで、繋がれて自由のない苦しみを表しています。宮城顗先生の本(「地獄と極楽」東本願寺出版)には畜生について「いつも他人にくっついて生きている。他人にもたれかかって生きているという在り方が畜生ということです。そのことから申しますと、畜生のもとにありますのは、人生に対する甘えでございます。人生に対して甘え、自分に対して甘えるという。そういうものが、また他人に対して一番に腹を立てている。甘えて育てられた子ほど、わがままな道理です。畜生というと、そこに争うということが出てくるのですけれども、その争いのもとにあるものは、実は甘えであります。・・・略・・・一口で言えば甘えるということですが、それは自分の要求をするばかりで、そこに本当に人に聞き、人のことを思うという、そういう心の配慮を持っていない在り方を表すものといえます。・・・略・・・ある人が〈人間の教養とは、常に相手のことを心の中に入れて考え、行為していける力をいうのである。どれだけ知識を身につけようとも、自分の周りの人のことを心の中に入れられないのは、教養がないのだ〉とおっしゃっていました。」と記されています。

 仏教に出遇うということは、私自身の「畜生」の在り方を止めるということではないのでしょう。今まで無自覚に行っていた生き方全体が、実は「畜生」と示されているそのものであったと気付かされることです。コロナ感染の中で、ウイルスを敵と見なし、ウイルスを人間の力で封じ込めることができると考えているところに実は人間の傲慢性が見えてくるのではないでしょうか。コロナは、私の差別心と懺悔心、いのちの問題、感謝の心など様々なことを問うてくれています。人間としての「教養」を失ったときに、私は「畜生」となっているのではないでしょか。