令和3年10月のご挨拶

「悲しみ」

 日に日に秋を感じる季節となりました。皆様にはお元気でお過ごしのことと存じます。コロナの感染防止に追われている間に、今年もあと3ヶ月足らずとなりました。時の流れの速さに驚いています。

 さて人生の中で、いろいろな喜びに出遇う一方で、深い悲しみにも出遇います。喜びも大切ですが「悲しみ」は人生を深め、人生のあり方を問うてくれるものではないでしょうか。

 広辞苑で「悲」という字を調べますと、「非」と「心」から成り立っている字で、-胸が張り裂ける痛みを伴う悲しみ-と示されています。

 悲しみを感じるのは、一番人間的な感情ではないかと私は考えています。そして悲しみを通じて、気づくことがあると思います。一番身近な悲しみは、大切な人を亡くした時でしょう。その悲しみについて、宮城顗先生は「悲しみの大きさは、その人から頂いたことの大きさに比例する」とおっしゃっています。また、喪失感から起こる悲しみもあるでしょう。その悲しみを通じて、はじめてその人の存在の大きさに気付いたと言うことがあると思います。

 また、浅田正作さんの《回心えしん》という詩があります。 

 『自分が可愛い ただそれだけのことで 生きていた

  それが 深い悲しみとなったとき ちがった世界が 

  ひらけてきた』

 このように同じ「悲しみ」でも、自分のあり方を「悲しむ」ということがあると思います。その悲しみは、人間としてのあり方を問われたときではないかと感じます。どこまでも

自己中心の私自身に対して、如来は「大悲」の心をもって「南無阿弥陀仏」を名告り、「本当に自分は正しいか」と常に問い続けて下さっているのです。clip_image002