令和6年2月のご挨拶

「罪福信」

 元日に起こった能登半島地震は私達の生活に大きな衝撃を与えました。被災された方々へ心からお見舞い申し上げます。この度の地震は家屋の倒壊、火災、道路や水道、電気など生活の根幹に関わるものが損傷し、一ヶ月たった今も被災地の皆さんの生活に大きな制限を与えています。一日も早い復旧、復興を願うばかりです。

 さて、親鸞聖人のお書きになられたご和讃の中に、「疑惑和讃」と名づけられた和讃があります。「疑惑」といえば、普通私達が抱く「疑い」に違いありませんが、仏教では仏様の心と凡夫の心との間に生じる壁だと考えます。一般には疑惑を抱くといえば、猜疑心だと思いがちですが、宗教上の疑惑は自分でも気がつかない疑いです。それは、非常に深い我執に基づく疑いです。

    不了仏智のしるしには  如来の諸智を疑惑して  
     罪福信じ善本を  たのめば辺地にとまるなり                                        
                     正像末和讃(疑惑和讃第一首)  
         

 仏様の仏智を覚っていないしるしには、仏様の様々な智慧の徳を疑っている。そのため罪福を信じ、自分が善を積めば自分の思うようになると思うのは、浄土の辺地にしか生まれない。

 という意味です。

 罪福心というのはどんなことでしょうか。NHK出版、『親鸞和讃』 (板東性純著)には、「『罪福信じ』とは、この世の因果の道理を信ずることです。悪いことをすれば苦しい結果を得る。よいことをすれば楽しい結果を得る。(略)つまり自分自身の意志で悪いものを避け、よいものを選び取ることができると信じている。自己過信といいますか、自分で何でも自分の運命は左右できる、自分がいちばんの主体だという考えです。」と記されています  私達は新しい年を迎えると、「いい年になりますように」と手を合わせ、時には「いい学校に」「いい会社に」「いい人に」と思いを重ねています。しかし、その「いい○○」とはどのようなことを言うのでしょうか。自分の都合を基準にしている願いではないかと、問い返されるのです。罪福信を求めている間は、仏様の願いが届かないのです。