投稿者「龍湖山 即得寺」のアーカイブ

春の彼岸会ご案内

ご門徒の皆様には日々報恩感謝の生活を送っておられることでしょう。さて、彼岸会を例年通り左記のように勤めますのでお参り下さい。

 今年は三重県の藤本愛吉先生をお迎えして「いのちの願い」について御法話をいただきます。仏教では「いのち」をどのように捉えるのか、いのちに対してどんなことが願われているのかを先生のお話を通じて確かめる機会にして頂きたく存じます。

 今年も、彼岸会を仏法に出遇うご縁として頂きたいものです。

 

       記

日時 三月二十日(月)春分の日

午後二時より  午後七時三十分より

布教 藤本 愛吉 師(三重県)

講題 「いのちの願い」

場所 即得寺

平成29年2月のご挨拶

二月に入り、暦の上では四日に立春を迎えますが、まだまだ寒い日が続いております。今年は1月に2回、大寒波につつまれ、高島はすっぽり雪の中となりました。私は京都へ行く用事があり、1月23日の月曜日に車で出かけました。大雪の中ではありましたが、速度を落としつつ順調に走ることができました。京都の天候は午前中は晴れていて、高島の雪は想像もできほどでした。

 当日は夕方5時からのお参りがありましたので、午後2時に余裕を持って京都を出発しました。順調に午後3時には湖西道路の志賀インターまで帰ってきましたが、渋滞で車が動かなくなり、のろのろ運転を繰り返し、帰宅したのはなんと午前0時15分でした。雪の恐ろしさを知らされました。

 写真は1月24日に写したものです。境内もすっかり雪化粧です。本堂の屋根雪が多すぎて、正面の除雪はできません。なかなかこれだけの雪は珍しいです。

 雪を邪魔ものにして、この雪さえなければと愚痴をこぼしがちですが、親鸞聖人は「和讃」で次のように示して下さっています。

  罪障功徳(ざいしょうくどく)の体(たい)となる

   氷と水のごとくにて   氷おおきに水おおし

   障りおおきに徳おおし

『毎日の生活で、罪の意識や障りこそが覚りのもととなるのです。氷が多ければ、溶け出す水も多いように、障りが多ければ、覚りの徳も多いのです。』と示されたのです。人は、あらゆる生活の中で苦しみや悩みを抱えて生きています。その悩みや苦しみこそが阿弥陀様と出遇っていく縁であります。今回の雪も、毎日の生活での障害と思われることも「障りおおきに徳おおし」と頂きたいです。

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平成29年1月のご挨拶

あけまして おめでとうございます。皆様には昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 さて、昨年は皆様はどのような一年を過ごされたのでしょう。それぞれに、心に残る一年であったと存じます。私にとっての一年は父の死という悲しい出遇い、また孫の誕生という喜びの出遇いの年でした。父の死と孫の誕生を通して「生きる」とはどのようなことかを考える機会を得たと思います。特に父の介護を通して知らされたことは、人の一生には自分の思いを超えて「限定」が必ずあるということです。いつまでも生きてくれていると思い込んでいる私の思いに反して、人生は有限であるという事実を教えられたのです。人生における四つの限定を自覚しなさいということだと感じました。四つの限定とは、①人生は「一回限り」であり、やり直しがきかない。(やり直しはきかないが、見直しはできる) ②人生は「単独」であり、自分を引き受けることである。人に代わってもらえない。独立者として歩むことである。③人生は「有限」である。いくら平均寿命が延びたとしても、死を免れない。 ④人生は「無常」である。平均寿命がどれだけ延びても、自分の死はいつ来るか分からない。 「生きている」ということは、このような限定の上に成り立っているのですが、毎日の生活で「生きているという実感」がなかなか持てないのです。毎日の生活に追われて、ただ忙しいだけの毎日を送っているのではないだろうかと感じます。

 一方で孫の成長を目にすると、全身で「いのち」を表現してくれています。与えられた「いのち」を精一杯生きているのです。食事も着替えも全て家族の力にゆだねながら生活する赤ん坊の姿は、自分の思いどおりにしたいと悪戦苦闘している私に、「生かされる」という尊さを教えてくれているのです。

 親鸞聖人の「お念仏」の教えは、自分自身が「生み出される」教えです。なぜ自分は生まれたのか。なぜ自分に生まれたのか。このことを「お念仏」を通じて確かめたいです。

 東本願寺の高塀には、親鸞聖人七百回御遠忌テーマが掲げられています。

 「生まれた意義と生きる喜びをみつけよう」

 新しい年を迎え、新たなご縁の出遇いを通じて、「生きる」ということを確かめたいと考えます。

平成28年12月のご挨拶

12月に入り、お寺では報恩講の準備が始まっています。3日(土)には同朋会の皆さんで大掃除をして頂きました。5日(月)には十四日講・光華法話会の皆さんにお磨きをして頂きました。両日とも天候に恵まれ多くの方が参加下さり、境内や本堂、そして仏具に至るまでピカピカにして下さいました。いよいよ今週の9日(金)から報恩講が始まります。皆さんとともに報恩講をお迎え致したいと思います。

 さて、報恩講前の大掃除やお磨きを行っていると、如来様の「清浄光」を仰ぐとはどんなことだろうと思えてきます。「清」も「浄」もきよらかという意味です。どんな場所もどんな時も「清浄なる光」が私たちの世界に働き続けて下さっています。私たちの生活の場は、戦争があり差別があり強者弱者があり、その他様々な問題を抱えています。その根本は汚れであると考えます。この汚れを経典「阿弥陀経」には「五濁」(ごじょく)と示されています。「五濁」というのは、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは「劫濁こうじょく」「見濁けんじょく」「煩悩濁ぼんのうじょく」「衆生濁しゅじょうじょく」「命濁みょうじょく」の五つです。

 まず、「劫濁」は「時代の汚れ」という意味です。疫病や飢饉、動乱や戦争など、時代そのものが汚れる状態なのです。「見濁」とは、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。「命濁」は、命の汚れということですが、それは自他の生命が軽んじられる状態と考えられます。これらの汚れは実は、私たち人間が作り出しているという事実があります。

 如来の「清浄光」は私自身の汚れを照らす働きなのです。自分だけは汚れていないと思っていますが、汚れに気づいていないだけなのです。それが証拠に、大掃除やお磨きをすると、汚れていたことがはっきりと知らされるのです。私たちは今年も「報恩講」を通じて阿弥陀様の光明に出遇い、心の溝掃除をしたいものです。

真宗本廟両堂等御修復完了奉告法要に参拝しました

11月21日(月)に近江第26組北部会の住職・坊守さんとともに団体参拝しました。バスで和やかに話が弾むなかで、御本山前に到着しましたが、なんと、御本山前にはバス、バス、バスの行列ができており、なかなか降りることができません。やっと降りると、人、人、人の行列です。ちょうど10時からの音楽法要に間に合い、御影堂に入ろうとしましたが、廊下まで人でいっぱいで、入ることはできませんでした。

 音楽法要は、エレクトーンの伴奏とともに、コーラスの歌声が御影堂の隅々まで響き渡り、ただただ感動いたしました。御影堂の縁には、報恩講の冊子と音楽法要の冊子が置いてあり、その冊子には曲目や歌詞が掲載されていました。その中に、「三帰依文」の和訳歌詞や「回向」の和訳歌詞をコーラスの歌声とともに目で追っていると、その言葉の深さに改めて出遇いました。

 回向の和訳歌詞を紹介します。

願わくは 一切世界の人々と この出会いの喜びを

みな平等に分かち合い ともに仏になる心 発(おこ)して

阿弥陀みほとけの 安楽国に生(あ)れ 生きてはたらく身とならん

 丸山公園で昼食を取り、午後からは東山の将軍塚にある青龍殿を訪れました。山頂から京都市内が一望でき、木々の紅葉と重なり、秋を満喫しました。心も胃袋も充実した一日でした。

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平成28年11月のご挨拶

今年も残すところ2ヶ月となりました。郵便局では年賀状の売り出しが始まったとのニュースを聞くと、気ぜわしく感じます。皆様はいかがお過ごしですか。

 11月は私たち真宗門徒にとっては特に大切な月です。それは親鸞聖人の御命日(11月28日)でもあり、また御命日をご縁として「報恩講」をお勤めする月だからです。御本山では11月21日~28日まで法座が勤まります。私自身も御本山の報恩講にお参りしたいと考えています。

 さて、私たちは「報恩講」という言葉はよく知っていますが、どんな意味があるのでしょう。報恩講とは、覚如上人によって始められ、蓮如上人によって広く行われた法座です。真宗門徒として「如来のみ教えを私たちに身をもって明らかにしてくだされた、宗祖親鸞聖人」の恩徳を讃えるとともに、そのみ教えを聴聞する行事です。「報恩」の「報」という漢字にはいくつかの意味があります。漢和辞典を引いてみますと、①「報」むくいる。返す。用例としては「報恩」・・恩に報いる。恩返し。 「報酬」・・労力や尽力に対する謝礼の金品。とあります。二つめの意味としては②しらせる。告げる。用例としては「報告」・・告げ知らせること。「報知」・・告げ知らせる(火災報知器)。「報道」社会の出来事を知らせる。とあります。

 私は「報」という漢字の持つ大切な意味が、「知らせる。告げる。」という点にあると気づきました。私は「恩」に報いると言われても、どれだけ恩を受けているか知らないのです。もっと正確に言えば、「恩」を受けていることさえ気づいていないのです。大切なことに気づいてこそ、私の人生は空しく過ぎることはないのでしょう。

 「報恩」ということは、私の生活で本当に大切なことは何かを問うてくれます。「今、頂いていること」の大きさに気づき、「本当に大切なこと」を知らされるときに、感謝できるのでしょう。

 歎異抄の第14章には「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」と示されています。報恩講にお参りして改めて念仏を頂きたく思います。

 即得寺の報恩講は、⒓月9日(金)~11日(日)、狐野秀存先生をお迎えして勤まります。どうか皆様お参り下さい。

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平成28年10月のご挨拶

うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ (良寛)

10月に入り、朝夕に涼しさを感じる季節となりました。皆様には慈光のもと、御健勝にて仏恩報謝の日々をお過ごしのこととお慶び申し上げます。冒頭の句は良寛和尚の句です。先日、親戚寺院の十三回忌法要に参勤しました折に、そのお寺の御住職の御挨拶でこの句が紹介され、心に残りましたので今回の御挨拶に紹介いたします。

 皆さんの地域の紅葉はどうですか。即得寺の庭の木々はまだ青々としており、紅葉までには、あと一ヶ月以上先のことと思えます。庭に出て、写真を撮りましたが、鮮やかな緑の葉を広げており、若々しさを感じます。

「うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ」

 この句は良寛和尚の「辞世の句」であるそうです。70歳を超えた良寛和尚は、老いの身の中で「死」を実感されたのだと思います。生涯にわたって寺を持たず、貧しいながらも清らかな生き方を通されました。そうした中で、多くの詩や歌を詠み、また、子供達と遊んだ時等の逸話から慈愛に満ちたお人柄が伝えられています。良寛の命が終焉に近づいた頃、良寛自身が詠んだ俳句であります。「うらをみせおもてを見せ」るとは、自分の本当は人に見せたくない部分も全て自分なのだということではないでしょうか。私は、自分の嫌な面や隠したい面を外に出すことはできません。しかし良寛和尚は、自分の裏も表も全てさらし出さなければ自らの人生を全うできないと示されているようです。あるがままに老い、あるがままに生きるということを教えられます。

 親鸞聖人は「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。」と教えてくださっています。

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同朋会一日研修会に行ってきました

例年恒例になっております一日研修会を会員の皆さまの参加を得て実施いたしました。当日は、河内会長様や役員の方々にお世話になり30名の皆さまと共に有意義な研修をさせて頂きました。

 今回は教如上人の御旧跡である安八郡の光顕寺様と大垣の西圓寺様を訪問し、参拝いたしました。どちらの寺院でも御住職様の分かりやすい説明と教如上人への思いを語って頂き、岐阜の地で改めて教如上人のご苦労に出遇わせて頂きました。大切な寺宝、宝物を私たちのためにお出し頂き、準備をして待っていて下さったことに、ただただ感謝するばかりです。教如上人の御生涯は、常に戦と隣り合わせであったと感じますが、その教如上人を支える多くの念仏者がおられたことも事実であると感じました。特に土手組(どろてぐみ)の活躍や、身代わりとなり、自らの命をなげうって上人を護られた西園寺の当時の御住職にただ頭が下がるばかりです。今日、東本願寺を御本山とする真宗大谷派は教如上人によって開かれていますが、今回の研修でのお話を伺いますと、大変なご苦労と信念の上に大谷派が開かれたことを感じました。

 芭蕉の「奥の細道むすびの地記念館」にも立ち寄り、俳諧の世界にも触れました。秋のさわやかな気候の中で、思い出に残る一日となりました。

 今回の研修を終わって一句詠みます。

  「上人の 願いに出遇う 美濃の秋」

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秋の彼岸会をお勤めしました

今年度の秋彼岸会法要は9月22日(木)にお勤めをいたしました。前日から天候を心配していましたが、天気予報のとおりに午後からは雨となりました。しかし、沢山の御門徒が雨の中をお参り下さいました。今回は若院も出仕させて頂き、皆さんとともに「正信偈」のお勤めをいたしました。本堂いっぱいに正信偈、お念仏の声が広がり、皆さんと同じ時間を生かされていることを実感いたしました。ひとりの念仏の声が、ふたりの声になり、三人の声になり、気がついてみると念仏の声に包まれていたのでした。

 午後の住職からの法話の後には、社会福祉法人 虹の会「ドリーム・あんです」から手作りお菓子の販売をして頂きました。雨降りのため境内での販売ができないため、本堂の縁側で販売をして頂きました。恒例となった「ドリームさん」のお菓子は大変人気で、沢山の方が購入されました。当日「ドリームさん」が作って下さったチラシを掲載いたします。来年の秋のお彼岸にも販売を計画いたします。

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平成28年9月のご挨拶

仲秋の候 皆様には慈光のもと、御健勝にて仏恩報謝の日々をお過ごしのこととお慶び申し上げます。先日の台風の影響で、東北・北海道地方には大きな被害が引き起こされました。皆様のお住まいの地域では被害がなかったかと案じております。被災された皆様に心からお見舞いを申し上げます。

 さて、今年度の秋講が8月25日から29日まで、安曇川町横江浜の真光寺様で五日間に渡って開講されました。三木先生・真城先生をお迎えし、御同行とと聴聞させて頂きました。振り返ってみますと、昨年は即得寺で5日間にわたって会所を引き受けさせていただき、御門徒の皆様をはじめ、多くの方々のお世話になり無事に勤めさせていただいたのが昨日のごとく蘇ってきます。本当に時の過ぎるのは早いものです。今回の秋講には先回の会所当番寺院として、即得寺は大きな役割をいただいておりました。それは、この秋講に本山から下付されている19代門主の乘如上人の御絵像と闡如上人の御消息を一年間お預かりし、この度真光寺様へお届けするということでした。8月27日(土)は朝から雨が降っており、濡れないように準備も行いましたが、引き継ぎの儀式を行う午前11時過ぎには雨もやみ予定通りに御絵像・御消息をお届けできました。写真は即得寺総代さんに唐櫃を担いで頂いているところです。無事に御絵像をお届けすることができ、これで秋講の会所としての責任を果たすことができたと、ほっとしております。

 高島秋講は二五〇年以上の歴史があり、その時の関係者がこの行事を伝えてきて下さったという事実があります。この行事を通じて伝えられてきたものは、「念仏相続」に他なりません。そのことを頂くと、「はい、確かに受け取りました」と声を出して申し上げなければなりません。皆さんはどうでしょうか。本当に大切なもの、大切なことを先人から受け取っておられるはずですが、しかし、受け取ったのか、受け取っていないのかがはっきりしないのではありませんか。

 私たちは、両親や先祖から何を受け取り、自分の子や孫に何を引き継ぐべきか。このことを一度考えてみたいものです。お金や物を引き継いだだけではあまりにも寂しいことです。

  ・本当に受け取らなければならないことは何か。

  ・自分の子や孫に何を伝えるべきか。

 お念仏の生活をしてこられた先人からは、損得・勝ち負けではなく、人として大切なことに気づいてほしいという願いがかけられていると思います。「念仏」を伝えたい。「親鸞聖人の教え」を伝えたいという願いが、高島秋講や彼岸会・報恩講など様々な形をとって、私にまで届けられているのです。今回の高島秋講に出遇い、改めて「念仏相続」こそが最も大切なことだと感じました。

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