今月のご挨拶」カテゴリーアーカイブ

平成29年1月のご挨拶

あけまして おめでとうございます。皆様には昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 さて、昨年は皆様はどのような一年を過ごされたのでしょう。それぞれに、心に残る一年であったと存じます。私にとっての一年は父の死という悲しい出遇い、また孫の誕生という喜びの出遇いの年でした。父の死と孫の誕生を通して「生きる」とはどのようなことかを考える機会を得たと思います。特に父の介護を通して知らされたことは、人の一生には自分の思いを超えて「限定」が必ずあるということです。いつまでも生きてくれていると思い込んでいる私の思いに反して、人生は有限であるという事実を教えられたのです。人生における四つの限定を自覚しなさいということだと感じました。四つの限定とは、①人生は「一回限り」であり、やり直しがきかない。(やり直しはきかないが、見直しはできる) ②人生は「単独」であり、自分を引き受けることである。人に代わってもらえない。独立者として歩むことである。③人生は「有限」である。いくら平均寿命が延びたとしても、死を免れない。 ④人生は「無常」である。平均寿命がどれだけ延びても、自分の死はいつ来るか分からない。 「生きている」ということは、このような限定の上に成り立っているのですが、毎日の生活で「生きているという実感」がなかなか持てないのです。毎日の生活に追われて、ただ忙しいだけの毎日を送っているのではないだろうかと感じます。

 一方で孫の成長を目にすると、全身で「いのち」を表現してくれています。与えられた「いのち」を精一杯生きているのです。食事も着替えも全て家族の力にゆだねながら生活する赤ん坊の姿は、自分の思いどおりにしたいと悪戦苦闘している私に、「生かされる」という尊さを教えてくれているのです。

 親鸞聖人の「お念仏」の教えは、自分自身が「生み出される」教えです。なぜ自分は生まれたのか。なぜ自分に生まれたのか。このことを「お念仏」を通じて確かめたいです。

 東本願寺の高塀には、親鸞聖人七百回御遠忌テーマが掲げられています。

 「生まれた意義と生きる喜びをみつけよう」

 新しい年を迎え、新たなご縁の出遇いを通じて、「生きる」ということを確かめたいと考えます。

平成28年12月のご挨拶

12月に入り、お寺では報恩講の準備が始まっています。3日(土)には同朋会の皆さんで大掃除をして頂きました。5日(月)には十四日講・光華法話会の皆さんにお磨きをして頂きました。両日とも天候に恵まれ多くの方が参加下さり、境内や本堂、そして仏具に至るまでピカピカにして下さいました。いよいよ今週の9日(金)から報恩講が始まります。皆さんとともに報恩講をお迎え致したいと思います。

 さて、報恩講前の大掃除やお磨きを行っていると、如来様の「清浄光」を仰ぐとはどんなことだろうと思えてきます。「清」も「浄」もきよらかという意味です。どんな場所もどんな時も「清浄なる光」が私たちの世界に働き続けて下さっています。私たちの生活の場は、戦争があり差別があり強者弱者があり、その他様々な問題を抱えています。その根本は汚れであると考えます。この汚れを経典「阿弥陀経」には「五濁」(ごじょく)と示されています。「五濁」というのは、人間が直面しなければならない五種類の濁り、汚れた状態を言います。それは「劫濁こうじょく」「見濁けんじょく」「煩悩濁ぼんのうじょく」「衆生濁しゅじょうじょく」「命濁みょうじょく」の五つです。

 まず、「劫濁」は「時代の汚れ」という意味です。疫病や飢饉、動乱や戦争など、時代そのものが汚れる状態なのです。「見濁」とは、邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態です。「煩悩濁」は、煩悩による汚れということで、欲望や憎しみなど、煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態です。「衆生濁」は、衆生の汚れということで、人びとのあり方そのものが汚れることです。「命濁」は、命の汚れということですが、それは自他の生命が軽んじられる状態と考えられます。これらの汚れは実は、私たち人間が作り出しているという事実があります。

 如来の「清浄光」は私自身の汚れを照らす働きなのです。自分だけは汚れていないと思っていますが、汚れに気づいていないだけなのです。それが証拠に、大掃除やお磨きをすると、汚れていたことがはっきりと知らされるのです。私たちは今年も「報恩講」を通じて阿弥陀様の光明に出遇い、心の溝掃除をしたいものです。

平成28年11月のご挨拶

今年も残すところ2ヶ月となりました。郵便局では年賀状の売り出しが始まったとのニュースを聞くと、気ぜわしく感じます。皆様はいかがお過ごしですか。

 11月は私たち真宗門徒にとっては特に大切な月です。それは親鸞聖人の御命日(11月28日)でもあり、また御命日をご縁として「報恩講」をお勤めする月だからです。御本山では11月21日~28日まで法座が勤まります。私自身も御本山の報恩講にお参りしたいと考えています。

 さて、私たちは「報恩講」という言葉はよく知っていますが、どんな意味があるのでしょう。報恩講とは、覚如上人によって始められ、蓮如上人によって広く行われた法座です。真宗門徒として「如来のみ教えを私たちに身をもって明らかにしてくだされた、宗祖親鸞聖人」の恩徳を讃えるとともに、そのみ教えを聴聞する行事です。「報恩」の「報」という漢字にはいくつかの意味があります。漢和辞典を引いてみますと、①「報」むくいる。返す。用例としては「報恩」・・恩に報いる。恩返し。 「報酬」・・労力や尽力に対する謝礼の金品。とあります。二つめの意味としては②しらせる。告げる。用例としては「報告」・・告げ知らせること。「報知」・・告げ知らせる(火災報知器)。「報道」社会の出来事を知らせる。とあります。

 私は「報」という漢字の持つ大切な意味が、「知らせる。告げる。」という点にあると気づきました。私は「恩」に報いると言われても、どれだけ恩を受けているか知らないのです。もっと正確に言えば、「恩」を受けていることさえ気づいていないのです。大切なことに気づいてこそ、私の人生は空しく過ぎることはないのでしょう。

 「報恩」ということは、私の生活で本当に大切なことは何かを問うてくれます。「今、頂いていること」の大きさに気づき、「本当に大切なこと」を知らされるときに、感謝できるのでしょう。

 歎異抄の第14章には「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」と示されています。報恩講にお参りして改めて念仏を頂きたく思います。

 即得寺の報恩講は、⒓月9日(金)~11日(日)、狐野秀存先生をお迎えして勤まります。どうか皆様お参り下さい。

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平成28年9月のご挨拶

仲秋の候 皆様には慈光のもと、御健勝にて仏恩報謝の日々をお過ごしのこととお慶び申し上げます。先日の台風の影響で、東北・北海道地方には大きな被害が引き起こされました。皆様のお住まいの地域では被害がなかったかと案じております。被災された皆様に心からお見舞いを申し上げます。

 さて、今年度の秋講が8月25日から29日まで、安曇川町横江浜の真光寺様で五日間に渡って開講されました。三木先生・真城先生をお迎えし、御同行とと聴聞させて頂きました。振り返ってみますと、昨年は即得寺で5日間にわたって会所を引き受けさせていただき、御門徒の皆様をはじめ、多くの方々のお世話になり無事に勤めさせていただいたのが昨日のごとく蘇ってきます。本当に時の過ぎるのは早いものです。今回の秋講には先回の会所当番寺院として、即得寺は大きな役割をいただいておりました。それは、この秋講に本山から下付されている19代門主の乘如上人の御絵像と闡如上人の御消息を一年間お預かりし、この度真光寺様へお届けするということでした。8月27日(土)は朝から雨が降っており、濡れないように準備も行いましたが、引き継ぎの儀式を行う午前11時過ぎには雨もやみ予定通りに御絵像・御消息をお届けできました。写真は即得寺総代さんに唐櫃を担いで頂いているところです。無事に御絵像をお届けすることができ、これで秋講の会所としての責任を果たすことができたと、ほっとしております。

 高島秋講は二五〇年以上の歴史があり、その時の関係者がこの行事を伝えてきて下さったという事実があります。この行事を通じて伝えられてきたものは、「念仏相続」に他なりません。そのことを頂くと、「はい、確かに受け取りました」と声を出して申し上げなければなりません。皆さんはどうでしょうか。本当に大切なもの、大切なことを先人から受け取っておられるはずですが、しかし、受け取ったのか、受け取っていないのかがはっきりしないのではありませんか。

 私たちは、両親や先祖から何を受け取り、自分の子や孫に何を引き継ぐべきか。このことを一度考えてみたいものです。お金や物を引き継いだだけではあまりにも寂しいことです。

  ・本当に受け取らなければならないことは何か。

  ・自分の子や孫に何を伝えるべきか。

 お念仏の生活をしてこられた先人からは、損得・勝ち負けではなく、人として大切なことに気づいてほしいという願いがかけられていると思います。「念仏」を伝えたい。「親鸞聖人の教え」を伝えたいという願いが、高島秋講や彼岸会・報恩講など様々な形をとって、私にまで届けられているのです。今回の高島秋講に出遇い、改めて「念仏相続」こそが最も大切なことだと感じました。

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平成28年8月のご挨拶

今年の暑さは格別で、例年に比べ一段と暑く感じられます。皆さまにはお変わりなくお過ごしのことと存じます。

 さて、先日境内を掃除していました時、毎日見ている当たり前の風景の中に、ふと新しい発見をいたしました。即得寺の鐘楼の土台は石垣で積み上げられていますが、この石垣はよく見ると自然石が使われており、石の大きさも大小様々です。これらを見ていると様々なことが頭に浮かんできます。

  その一つは熊本城の石垣が崩落したことです。どんなに堅牢で、絶対に壊れないと思っていても、「絶対」ということはこの世にはあり得ないのです。よく「絶対に儲かります」「絶対安全です」「絶対事故は起こりません」といいますが、本当にそうでしょうか。熊本城の石垣が私たちに教えてくれていることを大切にしたいものです。

 もう一つは、この石垣は社会の様子だなぁと感じるのです。写真をご覧下さい。大きい石、小さい石、それぞれ形や大きさが異なりますが、みんなで肩寄せ合って、石垣を作っているのです。大きな顔をしてデーンと威張っている石も、側には自分を支えている石があるのです。

 なんか人間社会のようで、じっと見ているとクスッと笑えてしまいます。そのうち、「私はこの石垣のどの石かなぁ」なんて考えてみると面白いものです。不思議なことに、一つも要らない石はありません。すべての石がそれぞれを支え合って成り立っているのです。

 最近、「本当は人間としてどのように生活をしたいのか」を考えることがあります。時には、自分のことだけをするのが精一杯で、人のことなど考える余裕のないこともあります。しかし本当は「ともに生きたい」と願っているのでしょう。

それでは「ともに生きたい」という願いを実現するにはどんなことが大切でしょうか。

① 「分け合う」楽しいこと、おいしいものを分け合いたいものです。

② 「助け合う」一人でできないことも、助け合えば半分の力でできます。

③ 「支え合う」小さな子ども、高齢者の方の力も生かし、支え合いの生活をしたいです。

④ 「励まし合う」どんなことでも認め合い、励まし合えば力が湧いてきます。

⑤ 「声を掛け合う」おはよう、ありがとう、おかげさま、のあいさつができる。

これらの「合う」に出遇うと、損得を超えた大きな喜びに出遇えるのではないでしょうか。皆さんはどんな「合う」が大切だと感じられますか。

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平成28年7月のご挨拶

7月に入り暑い日々が続きます。庭の植木も伸び盛りとなり、緑の鮮やかな季節を感じています。一雨ごとに木々が成長し、一雨ごとに夏に向かっていると感じます。

 さて、皆さんはここ数年間の気象状況をご覧になると、昭和の30年代~50年代にはこんな暑い状況はなかったと思っておられるはずです。年々日本や地球が暑くなっているようです。真夏日や猛暑日という気象単語も以前にはなかったように思いますが、今では日中の暑さが基準を超えると、テレビ画面が小さくなり熱中症注意を喚起する内容が放送されています。真夏日とは日最高気温が30℃を超えたときであり、その上の猛暑日は日最高気温が35℃を上回ったときです。さて皆さんは日本の最高気温は何度かをご存じですか。気象庁のHPによりますと次の通りです。

  第1位 高知県江川崎(41.0℃、2013年8月12日)

  第2位 埼玉県熊谷 (40.9℃、2007年8月16日)

  第3位 岐阜県多治見(40.9℃、2007年8月16日)

  第4位 山形県山形 (40.8℃、1933年7月25日)

  第5位 山梨県甲府 (40.7℃、2013年8月10日)

私はまだ、40℃以上の気温を経験したことがないので、どんな状況であるかは分かりませんが、たぶん汗は流れるし、立っているだけでクラクラ目眩がしそうです。皆様方は、十分に暑さ対策をされ、夏を乗り切って頂きたいと思います。お寺では、昨年本堂に冷房設備をしていただき、快適にお参りをして頂けるようになりました。

 遠方の方で、この8月に新旭町への帰郷を予定されておられる方は、是非お寺にもお参り下さい。お出会い出来る日を楽しみに、お待ちしております。

平成28年6月のご挨拶

6月に入り天候が安定せず、日中かなり暑い日があったと思うと、朝夕は肌寒さを感じる日さえあります。天気予報を聞いていると、各地で梅雨入りとなっています。

 即得寺では、6月4日に前住職の13回忌法要を勤めさせて頂きました。平成16年6月16日がお命日で、忘れることのできない日であります。あれから12年が経過したとは思えないぐらい、つい最近のことと感じるのです。そして、住職の還浄は同時に私にとって住職就任ということと、どのようにお寺や門徒の方と向き合うかということのスタートでもあったのです。その意味でも今回の法事は、格別の思いをもってお勤めさせていただきました。12年前(平成16年)、私は高島高校の教頭として勤務しており、毎日が追われるような日々を送っておりました。会議や出張、書類の作成など校務に専念していたわけですが、それは父(前住職)がいてくれたお陰であったのです。父が亡くなると、すぐに本山での住職修習研修を当時の総代長の霜降さんと共に受講し、本山より正式に住職を任命されました。その後、平成25年3月に教職を定年退職するまでの日々を振り返り、「自分自身よくやってこられたなぁ」と感じると同時に、「その時々の総代の皆様、ご門徒の皆様のご理解と家族の協力がなければ今日の日を迎えることはできなかったなぁ」と感じています。

 私にとっては前住職が目標であり、前住職のように法話やお勤めができるようになりたいと考え歩んできました。12年が経過し、今回の13回忌法要にはようやく自分自身を振り返る機会をいただいたと感じています。前住職にはまだまだ及びませんが、少しずつ住職ということがわかり始めたと感じています。

 昨年の「高島秋講」の時にも感じたのですが、「この法要を前住職と一緒に迎えられたら、どんなに喜んでくれただろうか」と考えてしまいます。「高島秋講」をはじめとする聞法のご縁を心から喜ぶ人であったからです。しかし前住職が健在であれば、きっと私は父にすべてを任せてしまい、現在のようにお寺には関わっていなかったのではないかと思えます。その意味では父は、浄土に還ることにより私の役割を作ってくれたということに頷くばかりです。

 法事ということは、亡き方に出遇う場であります。亡き方がどんな生き方をされたのかを訪ねることが大切です。同時に亡き方から私自身が問われる場でもあります。自分自身をしっかりと生きているかどうかが問われるのです。時は確実に経過し、その時間だけ変化します。しかし変化しないものもあります。それは、亡き人への思いと、亡き人からの願いです。即得寺では前住職の7回忌の時から時間が経過し、その間に若夫婦が誕生し、その夫婦に長女が誕生するという出遇いをいただきました。13回忌が終点ではなく、17回忌への出発点となるような歩みを始めたく考えます。

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平成28年5月のご挨拶

ゴールデンウィークを迎え、皆さまはいかがお過ごしですか。日頃出来なかったことをされたり、行楽地に出かけられたり、と様々な過ごし方があると思います。お仕事によってはお休みとならず出勤している方もおられるでしょう。お寺では、団体でご参拝のお客様をお迎えしたり、こどもの日に「花まつり」を行ったりしています。

 最近、「蓮」を育て始めました。娘が小学校の時、大事にし、自由研究までしていた蓮が絶えたのを残念に思っていたので、今回は自分の手で植え付けるところから始めました。まず、土を入れ、田んぼの粘土を入れ、水とよく混ぜ合わせる作業をしました。子どもの時のどろんこ遊びと同じです。土をこね回しているうちに、だんだん土が軟らかくなり、手になじんでくるのが分かりました。バケツ2杯分の土をこね合わせれば準備は完了し、後は蓮根を植え付けるだけです。思ったより簡単に出来ました。植えたのは、写真の真ん中の鉢です。少し芽が出てきましたが、今は周りの花ばかりが目立ちます。この夏には花が咲くことを楽しみに育てたいです。

 蓮の花について、仏教では「泥中の蓮華(でいちゅうのれんげ)」として教えが示されています。蓮の花は、決して清らかな水槽では育ちません。決して美しい環境とはいえない泥の中に育ち、泥とともに生きています。この泥は、娑婆世界に譬えられ、私たちの「煩悩」に譬えられています。私たちは、自分の抱えている貪欲や怒りや愚痴という「煩悩」にまみれた娑婆世界に生きる存在です。その煩悩の中にあって、仏法に出遇うことにより、真実に出遇える存在です。ですから、「煩悩」はただの煩悩ではないのです。私を育てる「栄養」であり、仏法に出遇える「ご縁」なのです。

 正信偈には「是人名分陀利華」という言葉があります。分陀利華は、白い蓮の華のことで最も高貴な華とされ、仏さまや真実のみ教えの象徴として、念仏の教えに目覚めて生きる「妙好人」に譬えられます。念仏者を「分陀利華」と呼ばれたのは、泥の中にこそ美しい花を咲かせる蓮華のように、煩悩とともに生きる中にこそ、南無阿弥陀仏のおはたらきをいただく生き方を讃えられたからです。

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平成28年4月のご挨拶

御本山では春の法要が勤まる頃となりました。今年は二月・三月が比較的温暖であったために、桜便りが例年より早く聞かれます。皆さんの地域でも、ぼちぼち咲き出している頃でしょうか。もう満開の花を楽しんでおられる方もおいでかと思います。桜は古来より日本の花とされて、人々に親しまれ様々なエピソードも伝えられてきました。「桜」と聞くと、いつも親鸞聖人のお得度(出家)ということに思いを馳せてしまうのは私だけでしょうか。

 親鸞聖人は幼少の頃は松若丸と名乗られ、幼くして父上母上とお別れになり、伯父様である日野若狭守範綱卿に育てられました。範綱卿は松若丸の得度(出家)について当代随一の名僧である慈鎭和尚に申し出られたのです。その時、慈鎭和尚は「規則で十五歳までは僧侶となることが出来ません。十五歳になられたら青蓮院で得度(出家)なさるがよろしいでしょう。」とお答えになりました。何度お願いしても慈鎭和尚の答えは変わらなかったのです。そこで松若丸は「あなた方お坊様は、出る息入る息を待たずとか、明日の命は知れぬ、とか仰せられますがあれは嘘ですか。私が十五歳まで生きられると誰が保証できますか。十歳で死んだらなんとなさいますか。地獄にも極楽にも行けず、ただ迷うばかりです。どうぞこの得度(出家)の願いを聞き届けて下さい」とお話になったのです。この言葉に慈鎭和尚は心を動かされ、得度式を約束され、「今日はもう夜も更けて遅いので、明日の朝に得度式をしましょう」とおっしゃったときに、松若丸は口を開かれ、「明日ありと思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」と一首歌を詠まれたと伝えられています。親鸞聖人の得度(出家)に対しての強い決意が感じられるとともに、仏法を頂くということは、「今のご縁」に出遇うことであることを教えられます。またこの歌は、今日すべきことを一日延ばしにしている私のあり方を問いただして下さるものです。

 松若丸の和歌に対して慈鎭和尚は、「この山の 法の灯(ともしび)かかぐべし 末頼もしき 稚児の心根」と一首詠んで、松若丸の得度を喜ばれたということです。

 写真は境内のしだれ桜で、ソメイヨシノより一足早く咲き始めました。

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平成28年3月のご挨拶

3月1日には多くの高校で「卒業式」が挙行されました。全国的に荒れた天候となり、高島市でも雪となりました。卒業生や保護者の方々は大変寒い中での卒業式を迎えられたことでしょう。この3月は幼稚園、保育園から大学にいたるまで「卒業式」が行われます。皆さんは「卒業」といえば、どんな思い出がおありでしょうか。それぞれの世代に応じて卒業の思い出は異なると思いますが、私自身にとっては、何かほろ苦いような感覚が残っています。卒業後の期待感と不安とが入り交じりながら、なにか時間だけが過ぎ去り、十分な成長が出来ないままに「卒業」をすることへの後悔の念が常につきまとっていました。

 また、三年前までは教員という立場で多くの生徒を送り出してきた私ですが、全力で生徒の指導に当たってはいましたが、三年間という限られた時間の中で、もっと良い関わりができたのではないだろうか・・・と思いを巡らせることもあります。

 いつの時代でも卒業生は、多くの人から「おめでとう」と祝福されますが、祝福の意味は何なのでしょうか。目に涙を光らせる生徒もいますが、きっとこの日を迎えるまでの日々、様々な喜びや苦しみを越え、切磋琢磨し、一生懸命に物事に取り組んできた証なのではないでしょうか。「祝福」には、そうしたことへの共感と、激励と、願いが込められているのでしょう。そう考えると卒業は終点ではなく、応援し支えている人とともに新たな一歩を踏み出すスタートであるはずです。若者に思いを馳せつつ、春の到来を新たなスタートとして、歩みを進めたいものです。

 本堂の西側の庭の「こぶしの枝」には、いつの間にか、沢山のつぼみが膨らんでいました。寒い冬の時期に準備をし、四月には白い大きな花を咲かせようとしているのです。私たちはどんな花を咲かせようとしているのでしょうか。今、頂いている課題に向き合い、精一杯取り組めば自分だけの花を咲かせることが出来ると思います。

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