今月のご挨拶」カテゴリーアーカイブ

平成29年12月のご挨拶

出遇い

今年のカレンダーも最後の1枚となりました。皆様はお風邪など召しておられませんか。我が家では住職が大風邪を引き、声も出にくいので、皆お互いにトーンを下げて会話をしております。そのため、テレビの音量も自ずと下げるようになり、これもまた、なかなかいいものです。日頃、いかに雑音に多くのものを奪われているか、ということに気づかされます。    

 さて、皆様はご本山の報恩講にはお参りされましたでしょうか。毎年 11月21日から28日までお勤まりになり、私どもも22日にお参りさせて頂きました。全国各地からのバスが並び、参拝の方々で境内まで埋め尽くされ、御影堂では、冷え込む中もお念仏の声が響き渡っておりました。親鸞聖人が11月28日にご生涯を閉じられてから、756年の歳月を経たわけですが、毎年、真宗寺院において勤まる報恩講は、聖人のみ教えに出遇い、私達の「出離生死」ということを明らかにする、一年で最も大切なものであることを、改めて実感させられます。私達真宗門徒が、お命日の月である「霜月」に「御」の字を付けて「お霜月」と呼んできたことからも、全国から京都のご本山へと多くの方々が足を運ばれた歴史がうかがえます。

 親鸞聖人は、「値遇」と呼ばれる法然上人とのお出遇いによってみ教えに出遇われましたが、私自身はどうなのかと、ふと思います。皆様はどうでしょうか。特別なお出遇いをどなたかとしておられるでしょうか。これまで私は、お二人のお出遇いは特別なので質が違うと思ってきましたが、もしかすると、もうとっくに出会っていたのではないか、せっかく出会っていたのに「出遇い」になるはずの数々の大切な場を上滑り(?)してきたのではないかと感じてしまいます。物心ついた頃から当たり前のように聖人のみ教えに触れ(ているつもりで)、熱心にお聴聞されるご門徒のお念仏を浴びてきました。それぞれの家庭のこと、仕事のこと、地域のことなど、気に掛かることが沢山ある中、お寺に足を運んでは「これこそが一大事」と、お聴聞にいそしんでこられた、その姿に出遇ってきてはいなかったのでしょうか。本堂や境内のお掃除、お磨き、お斎作り、聞法会のお世話係、と労を惜しまず尽くされた方々、お念仏を喜んでお浄土に還られた方々に出遇ってきたのではなかったか、と感じるのです。思い起こせば14年前に還浄した前住職の言葉が甦ります。「今年もありがたいことに報恩講に出遇わせてもろた」その重みを今、現住職とともにかみしめています。 

 ご案内しましたように即得寺では、12月8日から3日間、報恩講が勤まりますので、ご遠方の方も是非お出遇いください。 (坊守)

平成29年11月のご挨拶

時の速さ

11月を迎え、だんだんと秋の深まりを感じる季節となりました。朝晩の冷え込みにより体調など崩しておられませんか。これから日に日に広葉樹が色づく頃となります。お天気のよい日には外出して、季節の移り変わりを感じるのもよいと思います。

 さて、皆さんは時の経つ速さを感じられることはないでしょうか。日常的には、面白い時楽しい時は早く時間が過ぎ、苦しい時嫌な時はゆっくり過ぎると感じることがあります。しかしそれとは別に、過ぎ去った一年の速さに驚かされるということがあります。

 蓮如上人はお亡くなりになる一年前の84才の時に御文(四帖目第4通)に「さて、秋も去り春も去って年月を送り、昨日も過ぎ、今日も過ぎてゆきます。いつの間に老いの年を重ねたのでしょうか、何とも気づかずに暮らしてきました。それでもその間は花鳥風月を愛でて楽しんだこともあったでしょうし、また、病の苦痛に一喜一憂したこともあったでしょう。ですが、学んできたことも、経験したことも、みな夢のように過ぎてしまいました。」と述べておられます。

 今年のカレンダ-も残すところ2枚となりました。この一年を振り返ってみると、忙しいといって目の前のことに追われいるだけではなかったかという思いが残ります。本当はどう生きたいのか。どう生きたら自分の人生に満足し、頷くことができるのでしょうか。カレンダ-の法語には「人生はやり直しが利かないんだ。利かないけれど、見直しのチャンスなんだ。」とあります。自己の欲を満たすことが人生の満足ということではないのでしょう。楽を求め、苦から逃げている私自身に、「本当にそれでよいのか。」と問い続けて下さる声に出遇うことこそ大切だと感じます。自分に与えられた人生を、一生懸命に生きる(生かされる)ときに、大切なことに出遇えるのでしょう。

平成29年10月のご挨拶

掃除

9月は台風18号が上陸し、各地に被害をもたらしました。皆さんのお住まいの地域はどうでしたか。お寺は幸いなことに大きな被害を受けることはありませんでした。全国各地で豪雨による水害や強風による被害が伝えられています。被災

された方にお見舞いを申し上げます。

 さて今回の台風の影響で、9月17日(日)に予定していた大掃除を、一日繰り上げて16日(土)に実施しました。今回の台風は大雨をもたらしましたが、16日も朝からの雨の中、深溝の御門徒や総代さん方とともに掃除に汗を流しました。また、台風の後始末も兼ねて23日の御彼岸会の午前中に再び総代の皆さんと共に境内と庭の掃除を行いました。写真は、カッパを着用しての掃除の様子と彼岸会前のきれいになった境内の様子です。

 掃除をするときにいつも思い起こされるのは、お釈迦様の弟子の周利槃特(チュ-ラ・パンダカ)の話です。物覚えの悪い周利槃特は、修行をする力もなく、文章を覚えることもできず、仏道をあきらめていましたが、お釈迦様の御説法で悟りを開くことができたのです。お釈迦様は周利槃特に箒を一本わたし、「これからは、この箒で掃除をしながら『塵を払わん、垢を除かん』と唱えなさい」とおっしゃり、周利槃特は来る日も来る日も箒を持ち掃除に励んでおりました。やがて、周利槃特は『塵を払わん、垢を除かん』ということを「自分の心の塵、心の垢」と自覚し悟りを開かれたのです。

 掃除を進んで行うことはなかなかできませんが、掃除が仏事であるといただけると大事なご縁であると頷けるのです。「ここが一番いいところ ここが一番大事なところ」といただくと、清浄なる場(浄土)を求めずにはおれないのです。

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平成29年9月のご挨拶

友との再会

 

朝晩は少し涼しさを感じる頃となりました。今年はむしむしと湿度が高く、夏らしい空が晴れ渡るという日がないままに夏が終わろうとしています。皆様はお変わりありませんでしょうか。

 さて、皆さんは「同窓会」に参加されることはないでしょうか。7月のある日、我が家の郵便受けに一通の手紙が配達されました。差出人を見るとそこには懐かしい大学時代の友人の名前がありました。急いで開封すると、久しぶりに「同窓会」を開催するという案内だったのです。考えてみると15年ぐらい前に集まって以来の出会いです。(5年前に同窓会は開催されましたが私用のため欠席しました)当日の予定を確認すると、幸い予定が入っていません。早速返信用のはがきの出欠欄に〇印を記入し、返送いたしました。8月が終わり9月を迎えるといよいよ「同窓会」の日が近づいてきました。誰が参加するのか、何人参加するのかなどの不安な心は少しありましたが、JRの切符の手配をして小旅行に出かけました。会場では幹事のIさんが笑顔で迎えてくれ、その瞬間に大学生に戻った気分でした。ロビ-には早く着いた同窓生の友人たちが迎えてくれたのですが、卒業以来初めて出会う方もあり、懐かしさを感じました。ただ、参加者全員の顔が分かったわけではなかったのです。なんか見覚えのある顔だなぁと感じていたのですが、名前が出てこないのです。同窓生の中には、私の顔が分からない人もあり、お互い様でした。

 40数年という時間は、私にとっては決して短い時間ではありません。その間、就職して働き始め、結婚し、子供を育て、その子供が結婚し、また親を亡くし・・・と今振り返ってみると本当に様々なことがあった40数年です。しかし同窓会とは不思議なもので時間の長さがなくなり、昨日まで一緒にいた様な身近さを感じるのです。文字通り「タイムスリップ」をしているのでしょう。同窓生の一人ひとりの精一杯生きている姿に接し、私自身も元気をもらったように感じました。参加した方とはもちろんのこと、今回都合で参加できなかった方や亡くなった方とも友人との会話を通じてお出会いできたと感じました。

 仲間とは出遇い続けるから「仲間」であると思うのです。そして20歳の時に見えなかったことが、40年という時を経て新しい出遇い生みだしてくれたのです。次回は3年後に再会することを約束して、同窓会の地を後にしました。

平成29年7月のご挨拶

7月を迎え皆様はいかがお過ごしですか。例年この時期になると全国各地で集中豪雨のニュ-スが飛び込んできます。身近なところで災害が発生しています。十分な備えも必要ですが、被害を最小にするためには正確な情報の入手と早めの対応が大切であると考えます。どうぞお気を付けて下さい。

 さて、私は学校を4年前に退職してからは、少しばかり時間的余裕ができたため、ほんの真似事ではありますが畑での野菜作りに挑戦しています。なかなか上手くいかないのですが、御門徒の先輩に尋ねたり、本で調べたりしながら栽培しています。タマネギ栽培にも挑戦していますが、昨年は玉が大きくならず、失敗しました。理由は追肥が不十分であったためです。今年度こそはと、寒い12月や2月に肥料を施し、成長を見守りました。お陰様で病気にもならず、5月末に立派なタマネギを収穫することができました。

 収穫をすると、料理をしたくなるもので、ネットでタマネギのレシピを検索し、数あるためタマネギ料理の中から「オニオンス-プ」ならできそうだと考え、早速料理に取りかかりました。タマネギを切る時の目に感じる刺激も楽しみながら、フライパンで飴色になるまで炒め、コンソメス-プでコトコトと煮ればできあがりです。何ともいえない新タマネギの甘みがあり、とろみが口一杯にひろがりました。

 家族からの評価も上々で、「お野菜を植えて育てる苦労から始まったオニオンス-プだもん、感動やね」の一言にうれしくなりました。考えてみれば、先祖から頂いた土地に、タマネギを栽培し、収穫し、料理をして、一緒に食べてくれる家族がいるなんてこれ以上の贅沢はありません。

 宮城先生の本には「幸せとは因を知ることである。我々はすぐに果を求めるが、どれだけものをもらっても、当たり前という思いしか起こらないところには、幸せはないのでしょう。つまり、ほんとうに心から感謝せずにおれない、そういう事実に会ったとき、人間はいちばん幸せを感じるということなのです。」と示されています。

 今回、ささやかなオニオンス-プを通じて、大きな幸せ出遇うことができました。いつでも南無阿弥陀仏と称えて、食事を頂きたいです。

平成29年6月のご挨拶

昨年の12月にテレビの園芸番組で、バラの育て方について詳しく説明をしていました。その時は「バラの花はきれいだなぁ。」ぐらいに思っていたのですが、だんだん興味が湧いてきて、自分でも育てられるかも知れないと思い始めました。そこでインタ-ネットで「バラの苗木」という言葉を打ち込んで検索すると、沢山の販売店のHPが見つかり、いろいろな苗木が販売されていることが分かりました。

 早速、苗木を注文し取り寄せました。2月の終わりに届いたのですが、外は大雪のため、室内で管理することにしました。ワクワク感と同時に「こんなに放っておいてよいのかなぁ」という不安がおこり、今度はインタ-ネットで「バラの栽培の本」を注文しました。その本を頼りに、冬の剪定や水、肥料の管理について理解し、一回り大きい鉢への植え替えを行い、3月からは日の当たる外で育てました。家族中から「この忙しさの中で、本当にお世話ができるの?」という冷ややかな声援を受けていましたが、お陰で下の写真のように、沢山の花が咲きました。

 バラの栽培を通じて教えられたことは、一日一日の成長の中に「いのち」があるということです。そして、それぞれの苗木が精一杯に花を咲かせようとするということです。また同じバラでも一本一本それぞれ異なり、同じでは無いのですね。(バラバラでいっしょ。) 今振り返って考えると、バラを育てていた私が、バラから多くのことを教えられ、楽しさをもらったという感じです。

 是非皆さんも何かを育ててみてはいかがでしょうか。きっと新しい発見があるはずです。

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平成29年5月のご挨拶

ありのままの「いのち」

先日、一冊の本を手にする機会がありました。「お誕生日おめでとう、生まれてくれてありがとう」という題の本(真城義麿著)です。その中で、『私が人間に、そして「私」に生まれた意味はどこにあるのでしょうか。』という問いが投げかけられていました。私たちは、人間に生まれたことには違いありませんが、さらに重要なことは「自分」に生まれたということにあると思います。

 今から二千五百年前にインドの北部(現在のインドとネパールの国境付近)で、お釈迦様が生まれられ、仏教を説かれました。お釈迦様に関する説話は数多く残っておりますが、特に誕生に関して印象に残る説話があります。お釈迦様は誕生の際、七歩あるいた後に、「天上天下唯我独尊」と声を発したと伝えられています。誕生直後の赤ちゃんが、歩き、言葉を発することは現実ではあり得ないことでしょう。しかし、この説話が私たちに伝えている意味は何であるかを考えるべきです。

 「天上」とは、自分を取り巻く状況が、比較的自分に都合良く、思い通りに進んでいる状況のことを指します。逆に「天下」とは、なぜ自分だけがこんな辛い目に遭うのだろうかと思ってしまう、つまり思い通りに進まない状態を言います。「天上・天下」とは「どんな状況であっても、どんな境遇になっても」ということを指しています。

 「唯我」とは、存在しているどの一人も、かけがえのない人であることを表しています。誰とも代わることのできない存在なのです。私たち一人ひとりが、他の人と代わることのできない、代わりがきかない人間なのです。

 「独尊」の「独」は、何も加えなくとも「それ自身で」という意味です。成績や所得や地位が高いかどうかではなく、その人がその人として生きていることが尊いということです。身につけた技能や能力が尊いというのではありません。

 私たちは、自分のありのままの「いのち」の尊さに改めて目覚めるとともに、支え合い、尊び合う、互いの「いのち」に「ありがとう」と感謝し合いたいものです。

平成29年4月のご挨拶

人身受け難し、今すでに受く

朝晩は少し肌寒さを感じますが、ようやく新旭町にも春がやってきました。例年より少し遅れているようですが各地から桜の花便りが聞かれる季節となりました。皆様はお変わりありませんでしょうか。

 さて、皆さんは御法話を聴聞する時に、講師の先生とともに「三帰依文」を唱和されると思います。この「三帰依文」の最初の文が「人身受け難し今すでに受く」という言葉です。「三帰依文」の最初に、まずいのちを頂いていることと、法に出遇っていることの感動があらわれていると思います。しかし、唱えている自分自身は本当に「人身受け難し、今すでに受く」という感動を持っているかということが問われてきます。「人身」を受けるということは、「人」としてのいのちを頂くということでしょう。

 先日、百回忌の法事を依頼され、本堂でのお勤めをさせていただきました。百年前に亡くなった方とは、一緒に暮らしたことも、話をしたことも無いのですが、亡き人のご縁をいただいて念仏が口から出て下さるのです。間違いなく百年前の方のおはたらきに出会っていると感じました。「私のいのち」は過去幾千万の人たちから運ばれたいのちであり、現在地球上のあらゆる人々との繋がりの中で支えられているいのちなのです。本当に「人身を受ける」ということはただ自分が生まれ、生活していることだけにとどまるものではないのでしょう。「人身を受ける」ということは、実は「自分になる」「自分を賜る」ということを抜きにすることはできないはずです。それは、「人身受け難し、今すでに受く」と示されていますが、私たちは「自分に生まれた」「自分としての身を頂いた」ということを喜びとしているか、また「自分を賜った」ことに対する責任を果たしているかということが問題になります。「人間は一生かかって誰かになるのではない。自分が自分になるのである。」という言葉がありますが、自分になることへの道と、本当に自分に満足する道は、仏法に出遇わなければ求めることができないと感じます。日々の生活の中で仏法を聞き、念仏を称えることが「自分になる」ことだと頂いています。

平成29年3月のご挨拶

法語日めくりカレンダ-の4日のペ-ジには「人生には無駄なことは何一つありません」という言葉が載っています。私はこの言葉を見たとき、本当だろうかと考えてしまうのです。その理由は、私の生活では沢山の無駄があるように感じるからです。例えば時間を大切に使っているかといえば、なんとなく一日が過ぎたという日があり、時間を無駄にしてしまったと感じることがあります。皆さんはどうでしょうか。

 「無駄」という言葉を辞書で調べますと、「役に立たないこと。効果・効力が無いこと」と示されています。またその後には実に多くの慣用句が載っています。例を挙げますと、「無駄骨を折る。無駄口をたたく。無駄足を踏む。無駄話をする。無駄飯を食う」などです。

 沢山の無駄に関する言葉がある理由は、それだけ人が生活をするためには、無駄との関係が深いということでしょう。しかし、よく考えてみると、どんな人も始めから無駄をつくろうと考えて行動する人はいないはずです。行動した結果が、無駄になったと感じるのです。若い頃に少し困難なことに出会うと、どうせやっても無駄だと決めつけて、物事から逃げていたこともありました。

 仏法に出遇うと、無駄なことは何一つ無いんだと教えられます。逆に、無駄を作り、無駄と決めつけている自分が映し出されるのです。行動する前から「無駄になるとか、無駄にならない」ということにこだわりますが、大切なことは無駄になってもいいから、一生懸命に取り組むことだと教えられるのです。

 無駄を省くことも大切ですが、無駄を楽しむこともまた大切ではないでしょうか。

平成29年2月のご挨拶

二月に入り、暦の上では四日に立春を迎えますが、まだまだ寒い日が続いております。今年は1月に2回、大寒波につつまれ、高島はすっぽり雪の中となりました。私は京都へ行く用事があり、1月23日の月曜日に車で出かけました。大雪の中ではありましたが、速度を落としつつ順調に走ることができました。京都の天候は午前中は晴れていて、高島の雪は想像もできほどでした。

 当日は夕方5時からのお参りがありましたので、午後2時に余裕を持って京都を出発しました。順調に午後3時には湖西道路の志賀インターまで帰ってきましたが、渋滞で車が動かなくなり、のろのろ運転を繰り返し、帰宅したのはなんと午前0時15分でした。雪の恐ろしさを知らされました。

 写真は1月24日に写したものです。境内もすっかり雪化粧です。本堂の屋根雪が多すぎて、正面の除雪はできません。なかなかこれだけの雪は珍しいです。

 雪を邪魔ものにして、この雪さえなければと愚痴をこぼしがちですが、親鸞聖人は「和讃」で次のように示して下さっています。

  罪障功徳(ざいしょうくどく)の体(たい)となる

   氷と水のごとくにて   氷おおきに水おおし

   障りおおきに徳おおし

『毎日の生活で、罪の意識や障りこそが覚りのもととなるのです。氷が多ければ、溶け出す水も多いように、障りが多ければ、覚りの徳も多いのです。』と示されたのです。人は、あらゆる生活の中で苦しみや悩みを抱えて生きています。その悩みや苦しみこそが阿弥陀様と出遇っていく縁であります。今回の雪も、毎日の生活での障害と思われることも「障りおおきに徳おおし」と頂きたいです。

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