今月のご挨拶」カテゴリーアーカイブ

平成31年3月のご挨拶

「幸せとは」

 三寒四温と申しますが、日ごとに春が近づいているのを感じるこの頃です。皆様にはお変わりありませんでしょうか。テレビの天気予報では、暖冬の影響で今年の桜の開花は例年よりも一週間程早くなるとのことです。今月末から来月にかけて各地で花便りが聞かれることでしょう。

 さて、私たち誰もが一番願っていることは「幸せになる」ということでしょう。どんな人でも、幸せを求め、幸せになるために努力を重ねているのではないでしょうか。しかし、不思議なことに、どうすれば幸せになるかが分からないのです。人間はいろいろな技術や知識を手にすることによって、生活を向上させてきました。もうすぐ平成という時代が終わりますが、私が生まれた昭和の20年代と比べれば、今は大変豊かな時代だといえるでしょう。皆さんの生活様式も50年前や平成が始まった30年前と比較すれば大きく変化していると思います。しかし、物は豊かになり、便利な社会になったが、本当に幸せになったかが問われるのです。豊かで便利になった分だけ、何か大切なものを失ったような気がします。

 ある雑誌によると、世界幸福度はブ-タン王国が世界178カ国中、第8位だそうです。日本は90位です。経済力を示すGDPで比較してみると、日本は第3位で、ブ-タン王国は167位です。私たちは何か物や条件が整えば幸せが実現できると思い込んでいますが、ブ-タンの例を見るとそうではないのでしょう。「幸せ」とは、豊かであるかどうかではなく、本当に満足する生活ができているかどうかではないでしょうか。

 相田みつをさんの詩に「しあわせは いつも じぶんのこころが きめる」とあります。

本当に満足するということは、十分いただいておりますということです。毎日の生活を通じて、いただいていることの大きさに出遇うことでしょう。本願念仏のはたらきに出遇うと、幸せとは決して自分の思い通りになることではなく、現にいただいていること(御恩)の大きさに気付くことだと知らされるのです。人と比較したり自分の生活に足りない物を探していても満足は得られません。念仏の呼び声とともに、遇うべき人、遇うべきことに出遇い続ける歩みの中にこそ、「喜び」がいただけることでしょう。

平成31年1月のご挨拶

「実りのある一年を」

 あけまして おめでとうございます。昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 さて、昨年は皆様はどのような一年を過ごされたでしょうか。私にとっては平成30年という年は生涯にわたって忘れられない年となりました。その理由は、昨年10月に宗祖親鸞聖人750回御遠忌を皆さまと共にお勤めさせて頂いたことです。また、5月に次女に第二子が、9月に長女に第二子が誕生し元気に育ってくれています。振り返れば、その一つ一つが皆さんに支えられ、多くの方々の協力によって成り立っていることを改めて感じます。

 さて新年を迎えると、「今年も良い年でありますように」と願わずにはおれませんが、「良い」とはどんなことでしょうか。自分の思いが実現することでしょうか。一般には自分の思いが実現し、いろいろなことが上手くいくことであると考えますが、本当に思い通りになることが「良いこと」であるかどうかは確かめる必要があると思います。現実の生活ではなかなか思い通りにはならず、将来のことを考えると不安はつきません。私たちは不安と迷いの中に生きています。しかしその不安や迷いを通してこそ、仏縁に出遇わせて頂くということがあると思います。親鸞聖人の『高僧和讃』には

罪障功徳の体となる  こおりとみずのごとくにて

   こおりおおきにみずおおし  さわりおおきに徳おおし

 と示されてあります。冷たい氷が多い分だけ、豊かな水があふれる。不安や迷いこそが自分自身のあり方を問い返してくれ、豊かさへと導いてくれる・・・・・。毎日の生活を通じて、常に「自分の思い通りにしたい」という自分と、「思い通りにならない現実」をどう受け止めるかが課題ですが、思い通りにならない現実から生まれてくるものを大切にできる一年でありたいと思います。

平成30年9月のご挨拶

災 害

 「災害は忘れた頃にやってくる」ということわざがあります。しかし私がここ数年間で感じるのは、「忘れた頃にやってくる」どころか「忘れる間もなくやって来る」ということです。振り返ってみると今年の6月末から7月初旬にかけての西日本豪雨災害。8月23日から24日にかけて台風20号での被害。さらに9月4日には台風21号の被害。やっと台風が収まったと思うと9月6日に北海道で震度7の大地震が起こっております。被災された方々には心からお見舞いを申し上げます。

 さて、大きな自然災害が続く中で感じることは、私たちの生活基盤のもろさです。特に今回の北海道地震の場合は、全道の停電というかつてない出来事が起こりました。被災された方々はどんなに不安を感じられたでしょうか。停電の原因はいくつかの条件が重なり、結果として発電所の機能が低下したためです。この大規模停電で知らされたことは、私たちの生活は「豊かで便利」を求めていますが、電力がなくなれば、一瞬のうちにその生活が成り立たなくなるということです。

 今回の北海道地震の報道を通じて、「本当の豊かさとは何か」を改めて問われることです。そして私が、これだけは確かであると生活をしていますが、その「基盤は確かなことか」と問い返してくれているのでしょう。

 親鸞聖人 85才の時の和讃(正像末和讃)には

    「弥陀の本願信ずべし  本願信ずるひとはみな

       摂取不捨の利益にて  無上覚をばさとるなり」

 と阿弥陀様のおはたらきを詠んで下さっています。私たちがどんな状況であっても、阿弥陀仏は決して見捨てないぞとはたらき続けて下さっています。

 今回の台風や水害、地震で被災された方々が、一日も早く復旧、復興をされることを念じております。

平成30年7月のご挨拶

ウォ-キング

 今年の4月からウォ-キングを始めました。無精な私の性格ですので、三日坊主(文字どおり坊主です)で終わらないために、人にはあまり言わないようにしていました。私は毎朝6時に大鐘を撞いてから、1時間余り(8000歩)を歩いています。先日北海道のお寺を訪問したときに、近くの御住職も毎朝約1時間30分(12000歩)を歩いているとお話しになっており、意気投合して盛り上がりました。その方は、万歩計(携帯電話)を身につけて歩くのだそうです。必ず毎日記録を付けて、自己記録を更新することが楽しみになっているとおっしゃっていました。お話を聞いていると、同じだなぁと感じました。私も今回歩き始めたときに、電池が切れていた万歩計に新しい電池を入れ、自分の年齢や体重、歩幅をセットし直して始めました。以前、歩き始めたときは続かなかったために、「今回も2週間ぐらい歩けばいいや」との思いで始めました。ただ、今回心掛けたのは、記録を付けることです。たしかに記録を付けると、歩いたかどうかがはっきりします。私は朝、血圧を測るように主治医に言われていますので、血圧手帳の備考欄に、歩いた日は歩数を記録し、歩かなかった日は言い訳を記入します。記録を付けるということは、当たり前のことですが新しい発見があります。何を発見するかというと、言い訳や数字を通じて毎日の自分の行動や思いがはっきりと表れるのです。最初は幸い晴れた日が続き、日に日に歩数が伸びていきました。約30分のウォ-キングが少しずつ距離を伸ばし、歩く時間も40分から50分と伸ばすことができるようになりました。しっかり歩けた日は、記録を付ける時に充実感を味わうこができ、できなかったときは、言い訳をしている自分に向き合えるのです。まさに血圧の記録手帳が陰の力となって、私の意欲を引き出してくれています。

 面白いもので、誰かにやらされていることであれば、いつかは止めてやろうと思うのですが、止めたいという気持ちが起こらないまま、今日まで続いています。同時に毎日の日課になったようで、大鐘を撞くと自然に足が風車村の方向に向いています。お陰で血圧も安定しています。

 私のウォ-キングは今回はいつまで続くのか分かりませんが、楽しんで歩きたいものです。最近では何人かのお仲間とも散歩コ-スですれ違うと、「おはようございます」と挨拶を交わす機会が増えています。今では、そろそろ向こうからあの人とすれ違う時間だなということも、楽しみの一つになっています。

平成30年5月のご挨拶

ありのままの「いのち」

 先日、一冊の本を手にする機会がありました。「お誕生日おめでとう、生まれてくれてありがとう」という題の本(真城義麿著)です。その中で、『私が人間に、そして「私」に生まれた意味はどこにあるのでしょうか。』という問いが投げかけられていました。私たちは、人間に生まれたことには違いありませんが、さらに重要なことは「自分」に生まれたということにあると思います。

 今から二千五百年前にインドの北部(現在のインドとネパールの国境付近)で、釈迦という人が生まれ、仏教を説かれました。釈迦に関する説話は数多く残っておりますが、特に誕生に関して印象に残る説話があります。釈迦は誕生の際、七歩あるいた後に、「天上天下唯我独尊」と声を発したと伝えられています。誕生直後の赤ちゃんが、歩き、言葉を発することは現実ではあり得ないことでしょう。しかし、この説話が私たちに伝えている意味は何であるかを考えるべきです。 「天上」とは、自分を取り巻く状況が、比較的自分に都合良く、思い通りに進んでいる状況のことを指します。逆に「天下」とは、なぜ自分だけがこんな辛い目に遭うのだろうかと思ってしまう、つまり思い通りに進まない状態を言います。「天上・天下」とは「どんな状況であっても、どんな境遇になっても」ということを指しています。

 「唯我」とは、存在しているどの一人も、かけがえのない人であることを表しています。誰とも代わることのできない存在なのです。私たち一人ひとりが、他の人と代わることのできない、代わりがきかない人間なのです。

 「独尊」の「独」は、何も加えなくとも「それ自身で」という意味です。成績や所得や地位が高いかどうかではなく、その人がその人として生きていることが尊いということです。身につけた技能や能力が尊いというのではありません。

 私たちは、自分のありのままの「いのち」の尊さに改めて目覚めるとともに、支え合い、尊び合う、互いの「いのち」に「ありがとう」と感謝し合いたいものです。

平成30年4月のご挨拶

「思い違い」

 境内のしだれ桜が盛りを過ぎ、こぼれるようにおじぎをしています。皆様の地域の桜はどうでしょうか。ニュ-スを聞いていますと、今年は全国的にずいぶんと早く桜の開花が始まったようです。

 さて、先日私が出かけようと勝手口に向かうと、孫2人が走って来て、靴を履こうとしているのです。4歳の外孫は自分で靴を履いて待っていますし、1歳11ヶ月の内孫は靴を持って自分の足を出して、「ブ-ブ-」と自動車に乗りたいと意思表示をするのです。たぶん孫たちは「お爺ちゃんが出かけそうだ」「一緒に連れて行ってもらえる!」と思い違いをしているのです。しかし私の外出目的は御門徒のお宅へのお参りです。残念ながら孫の思いを叶えることはできませんでした。こんなことは皆さんも経験されたことがあると思います。

 幼い子どもの期待や思い込みはかわいいものですが、私たち大人が思い込みをするとかなり厄介なことになります。「こうなるはずだ」「こうしてもらえるはずだ」と考えているにもかかわらず、自分が予想した結果と異なったときは、まず相手に非があるように感じてしまいます。「きっと感謝されるだろう」という私の思いで声を掛けた時に、相手の困った顔や迷惑そうな様子に出遇うと、自分の「思い違い」を思い知らされます。その時に問われているのは、「本当に相手のことを思っていたのかどうか」なのです。相手のことを分かったつもりになって、自分の都合を押しつけていたのではなかったか。その「思い違い」が結果となって、現れたのでしょう。法語カレンダ-には、『自分が偉いものと思うと 世の中が暗くなる』(曽我量深師)とあります。「思い違い」は常に私の「つもり」や「はず」が作り出すものです。「知っているつもり」「分かっているはず」の時こそ、頭を持ち上げることなく、しだれ桜のようにしなやかにありたいものです。

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平成30年3月のご挨拶

「時間」

 ようやく春の日差しを感じる季節となりました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。まだまだ寒い日がありますのでご自愛下さい。

 さて、皆さんは時の流れをどのように感じておられますか。「歳を取るとだんだん時間の経つのが速くなる」という言葉を聞いたことがありますが皆さんはどうでしょうか。私は一週間が三日くらいに感じられる時があります。先日もテレビで、毎週日曜日の夜11時から放送されている「美の壺」(NHKの番組)を見て、「あれっ、もう一週間が過ぎたのかなぁ?」と首をひねってしまいました。振り返ってみると、私の手帳には毎日の予定が書き込まれており、その予定に追われて生活している有り様です。

     蓮如上人の御一代記聞書には「仏法には、世間のひまを闕(か)きてきくべし。世間のひまをあけて、法を聞くべきように思う事、あさましきことなり。仏法には、明日と云う事はあるまじき由の仰せに候う。」と示されています。このお言葉を前にすると、「時間というものは作るものである。時間を割いてでも仏法を聴聞せよ」という蓮如上人の声が聞こえてきます。

    毎日生活していると、時間が持っている意味がぼやけてきますが、間違いがないことは、私たちは限られた時間を過ごしているということです。生きる時間を(時間限定で)いただいているということです。「聞法」ということも時間を拵(こしら)えなかったら実現することはありません。本当に大事なことを、ついつい後回しにしがちなのが私ですが、かけがえのない時間を過ごしているのです。忙しいから、明日があるからといって、本当に大事なことを後回しにしている暇はないのでしょう。人と出遇い、仏法と出遇って、与えられた時間をもっと丁寧に生きたいものです。

平成30年2月のご挨拶

失敗

皆さんは失敗をされた経験はおありでしょうか。テレビの人気番組の「ドクターX」では米倉涼子さんが演じる「大門未知子」が颯爽と登場し、誰もが無理と考えている手術を引き受け、解決します。その時の名セリフが「私、失敗しないので。」なのです。いつも自信に満ちており、失敗を恐れず、正確な手術を行う姿が、視聴者を釘づけにするのだと思います。

 さて、「ドクターX」はどこまでもテレビのお話であり、現実はどうでしょうか。今日まで一度も失敗したことがない人なんておられないでしょうね。また、これからも、人生を重ねていく中で、自分の思いとは異なる結果を引き起こすことがあるのではないでしょうか。失敗とはどのようなことなのでしょう。辞書には『やりそこなうこと。目的を果たせないこと。予期した効果をあげられないこと。しくじり。 ↔ 成功 「試験に-する」 「 -の原因」 「 -談」 「彼を行かせたのは-だった」』と示されてあります。

 私の経験から明らかなことは、「失敗しようと思って、失敗する人はいない」ということです。一生懸命に努力して、よい結果を出したいと行動した結果、上手くいかなかったのが「失敗した」ということでしょう。失敗を重ねてきた私だからこそ分かることは、「成功」は喜びを与えてくれますが、「失敗」は自分を育ててくれるということです。確かに「こうなるはずだ」「上手くいくはずだ」と思いを巡らして行動し、突然「失敗」という事実を突きつけられると、うろたえ失敗の原因を探します。しかし失敗の原因は外にあるのでなく、都合のよいことばかりを求めて「上手く行くはずだ」と思っている自分に原因があったと気づかされるのです。法語カレンダーに『失敗はむしろ 自分を知るための 必要な材料である』と書かれています。「失敗」を通じて何を明らかにし、そこから何を学ぶかが大切だと思います。

 「成功」はときに人を傲慢にさせますが、逆に「失敗」は人を謙虚にするのではないでしょうか。何回失敗を繰り返しても「失敗」を認めようとしない私、必死で言い訳を考え責任転嫁している自分があぶり出されますが、「私、失敗しないので。」と言うより、「私、失敗してごめんなさい」と言える私になりたいものです

1月のご挨拶

あけまして おめでとうございます

 皆様には昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。今年は10月に親鸞聖人750回御遠忌法要を勤めさせて頂きます。皆様には何かとお世話になりますが、どうぞよろしくお願い致します。今年一年、皆様にとりまして仏法との出遇いの年になることを念願しております。

   さて、私には有難いことに、二人の孫がおります。外孫は4歳になる男の子で、内孫は1歳7ヶ月の女の子です。日頃は1歳7ヶ月の孫と接する時間があり、大変楽しい時間を頂いております。孫の生活を見ておりますと、本当に毎日が楽しくて仕方がないというように感じられます。部屋にあるものは何でも興味を持ち、孫の手にかかればなんでも「おもちゃに変身」してしまいます。テレビが始まれば、一緒に歌い、踊り出します。まるでテレビの中に入ったように、番組と一体になっているのです。時間になれば食事をしますが、にこにこしながら、一口食べては「おいちーい」を連発し、みんなを和ませてくれています。水を飲んでも、お茶を飲んでも、「おいちーい」と言う声を聞くと、本当に新鮮だなぁと感じます。 1歳7ヶ月の孫はいろいろなことを64歳の私に教えてくれています。一番教えられることは、「一日一日を精一杯楽しんで生きる」ということでしょう。そして、「どんなささやかなことにも感動して生きる」ということでしょう。何を食べても、何を経験してもだんだん感動が乏しくなっている私が、にこにこ楽しみながら食事し、生活をすることの大切さを知らされるのです。一日一日の孫との時間を大切にしながら、私自身の乏しくなった心をリフレッシュする機会にしたいと思います。

 新しい 年を迎えました。今年度の年回表は元日に本堂に掲示いたします。今年度の年忌法要については次の通りです。

 1周忌・・・平成29年没   3回忌・・・平成28年没

 7回忌・・・平成24年没  13回忌・・・平成18年没

17回忌・・・平成14年没  25回忌・・・平成 6年没

33回忌・・・昭和61年没  50回忌・・・昭和44年没

100回忌・・・大正 8年没

 遠方の方で、亡き方の年忌についてご確認されたい方は、お命日と法名を伝えていただければ、お調べできます。また、年忌法要を勤められる場合は、御希望の期日を早めにお知らせ下されば日程を調整することが出来ます。今年は10月に御遠忌法要が勤まります関係で、あらかじめ行事が入っておりますのでご理解下さい。

平成29年12月のご挨拶

出遇い

今年のカレンダーも最後の1枚となりました。皆様はお風邪など召しておられませんか。我が家では住職が大風邪を引き、声も出にくいので、皆お互いにトーンを下げて会話をしております。そのため、テレビの音量も自ずと下げるようになり、これもまた、なかなかいいものです。日頃、いかに雑音に多くのものを奪われているか、ということに気づかされます。    

 さて、皆様はご本山の報恩講にはお参りされましたでしょうか。毎年 11月21日から28日までお勤まりになり、私どもも22日にお参りさせて頂きました。全国各地からのバスが並び、参拝の方々で境内まで埋め尽くされ、御影堂では、冷え込む中もお念仏の声が響き渡っておりました。親鸞聖人が11月28日にご生涯を閉じられてから、756年の歳月を経たわけですが、毎年、真宗寺院において勤まる報恩講は、聖人のみ教えに出遇い、私達の「出離生死」ということを明らかにする、一年で最も大切なものであることを、改めて実感させられます。私達真宗門徒が、お命日の月である「霜月」に「御」の字を付けて「お霜月」と呼んできたことからも、全国から京都のご本山へと多くの方々が足を運ばれた歴史がうかがえます。

 親鸞聖人は、「値遇」と呼ばれる法然上人とのお出遇いによってみ教えに出遇われましたが、私自身はどうなのかと、ふと思います。皆様はどうでしょうか。特別なお出遇いをどなたかとしておられるでしょうか。これまで私は、お二人のお出遇いは特別なので質が違うと思ってきましたが、もしかすると、もうとっくに出会っていたのではないか、せっかく出会っていたのに「出遇い」になるはずの数々の大切な場を上滑り(?)してきたのではないかと感じてしまいます。物心ついた頃から当たり前のように聖人のみ教えに触れ(ているつもりで)、熱心にお聴聞されるご門徒のお念仏を浴びてきました。それぞれの家庭のこと、仕事のこと、地域のことなど、気に掛かることが沢山ある中、お寺に足を運んでは「これこそが一大事」と、お聴聞にいそしんでこられた、その姿に出遇ってきてはいなかったのでしょうか。本堂や境内のお掃除、お磨き、お斎作り、聞法会のお世話係、と労を惜しまず尽くされた方々、お念仏を喜んでお浄土に還られた方々に出遇ってきたのではなかったか、と感じるのです。思い起こせば14年前に還浄した前住職の言葉が甦ります。「今年もありがたいことに報恩講に出遇わせてもろた」その重みを今、現住職とともにかみしめています。 

 ご案内しましたように即得寺では、12月8日から3日間、報恩講が勤まりますので、ご遠方の方も是非お出遇いください。 (坊守)