即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

当寺からのお便りです

法語こそ、仏との出遇いである

皆さんのお宅の「日めくり法語カレンダー」は活躍?しているでしょうか。たかが「日めくり」と思っていても、一ヶ月毎日忘れずにめくることがなかなか大変です。時間が無いとは言わせません。カレンダーをめくる手間は五秒とかかりません。しかし、どんな簡単なことでも、毎日続けることができない私であることがこのカレンダーを通じて知らされるのです。我が家のカレンダーは、気がついてみると二日ほど経過し、慌ててめくっています。

 法語の素晴らしさは、仏法の教えを、短い言葉として伝えられているところです。このカレンダーを繰っていると、はっとさせられる言葉に出会い、また法語に頷いている自分に出遇うのです。私たちは他の動物と異なり、言葉を持っています。人間の優れているところは言葉を用いて、物事を相手に伝えることができるということです。しかし、現実には言葉があるために、相手に上手く伝えることができないということが起こっています。

 国と国の問題であっても、会社と会社の関係であっても、隣近所の関係であっても、原点は人と人との関係であるはずです。国の問題や会社の問題、我々の生活の課題を解決する方法は様々ですが、課題の原因を相手に求めていることが多いのではないでしょうか。真実に立てば、どんな課題も自分と無関係なことはなく、解決の糸口は自分の内にあるということが知らされます。

  法語カレンダーには次の言葉があります。

 

  道は近きにあり

  迷える人は

  これを遠きに求む

 

 仏法は、言葉となって私のあり方を問うているのです。

 そして、「南無阿弥陀仏」という言葉を頂くと、損得や勝ち負けを振り回している私に、「本当に解決すべき問題はあなた自身ではありませんか」という呼び声となって届くのです。一日一日が法語との出会いであり、自分との出遇いであるのです。

仏教は自分を映す鏡である

今年度の高島秋講で、皆さんは織田先生の御法話を聴聞されたことでしょう。先生は御法話の中で『仏教とはどのような教えか』について分かりやすくお話をしてくださいました。当日の法話で話されたことは、仏教の教えは「鏡を見る」ようなことである。私たちは毎日何度も「鏡」を見ている。「鏡」を見るといっても、「鏡の品質や製品としての鏡」を見ているのではない。私たちが「鏡」を見る場合は、「自分の姿」を映すために見るのである。しかし、映し出された「自分の姿」はどこまでも、自分の外側である。大切なのは、自分の内面を映し出す「鏡」である。「鏡」がなければ自分の姿が見えないのと同じように、「仏教の教え」がなければ、自分の内面を映し出すことができないのである、とお話してくださいました。

 織田先生のお話のとおりだと考えます。私たちは、「鏡」の前では、少しすまし顔になり、自分という眼をとおして、自分の気に入った自分を見るのです。決して、自分のいやな顔や嫌いな表情は作らないと思います。泣き顔や怒ったときに「鏡」を見る人は少ないと思います。

 では内面はどうでしょうか。毎日の生活を通じて、様々な悩みが湧き起こっています。その悩み一つ一つをとってみれば、その根本に「自分の思い通りにしたい」という心があるのです。この心に気づけない限り、どれだけ悩んでも、本当の解決にはならないのです。

 宮城顗(みやぎしずか) 先生は次のように仰っています。

無明とはいったい何かと申しますと、因縁の道理に暗いことであり、したがって、我執を意味しているわけであります。因縁の道理というものに眼を開かずに、我という思いに立って、我という思いに執着している。・・・・(略)

 私たちの生き方は、本来のことが見えていない、本来のあり方を知らないということが出発点になっています。道理に生かされながら、そのことに「無知」である。「無知・無明」のため、何でも自分でできると勘違いし、ある時は有頂天になる。また、自分の都合の悪いことが起こると、その現実が受け入れられず、愚痴をこぼしたり、腹を立てたりするのです。

 仏教を学ぶということは、自分のあり方を問うことであり、問われることです。私たちは、「よく生きたい」という願いをもっています。しかし、どのようにすれば、「よく生きる」ことができるのかが分からないのです。そのため、ひとときの楽しさを求めてみたり、物欲を満たそうとするのです。

 「仏法」は、毎日の生活が事実となって、私に本当のあり方を問うて下さっているのです。「よく生きる」ということは、「満足」するということでしょう。決して「楽」をすることではありません。自分の人生に「生きる意味」を頂き、自分に与えられた課題を果たすことが「よく生きること」であると考えます。

南無阿弥陀仏の主になるなり

蓮如上人御一代記聞書には

弥陀をたのめば、南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主に成るというは、信心をうることなりと云々。また、当流の真実の宝と云うは、南無阿弥陀仏、これ、一念の信心なりと云々

と書かれています。

 蓮如上人は、誰でも阿弥陀如来の心を頂くことができれば、人生の主人公として生きることが出来ますと述べたものです。

 さて、「自分の人生の主人公は誰でしょうか。」という問いを持つと、そんなことは分かりきっている。「自分」だと答えるでしょう。しかし、「主人公」ということは、演劇や映画のヒーローのように、活躍し注目を浴びると言うことではないのです。主人公というと、すぐに世間から注目されたいとか、目立ちたいと考える人が多いかもしれません。蓮如上人の示される、「人生の主人公」とはどんなことでしょうか。

 よく言われることは、私たちは「誰にも変わってもらうことができない人生を生きている」ということです。私の代わりに「食事をする」「トイレに行く」「病院へ行く」など、根本的には、他の人に変わってもらうことが出来ないのです。どんなに都合が悪いときでも、自分に与えられた「課題」は自分が引き受けなければならないのです。

 私たち一人ひとりに、『この人生を、「主体的」に生きてほしい。』と願って下さっているのが、阿弥陀如来様なのです。この人生こそ自分に与えられた人生であると頷いたとき、自分の人生を歩む人となれるのです。

 法語には、「人生はやり直すことが出来ないが、見直すことが出来る」とあります。毎日の生活に振り回されていて、本当の人生の意味に出遇うことがなければ、悲しいことだと思います。

 家庭生活や職場、地域社会を通じて自分に降りかかる「課題」を解決することにかかり果てているのが、私たちの生活です。一方で、この人生では思わぬことに遭遇します。事故や災害に出遇うこともあるでしょう。生きておれば、楽しいことや嬉しいことにも出遇います。また、悲しいことや苦しいことにも出遇います。そして毎日の様々な「課題」に埋没していると、出来るだけ苦労を避け、楽な方を求めてしまうのです。しかし人生の目的は「楽を手に入れる」ことではないのでしょう。むしろ苦労を通して、本当の生き方や関わり方を学ぶのだと考えます。

 お念仏を忘れているあいだは、「課題」にいくら向き合っていても、自分の思い通りにしたいとばかり思い、なかなか上手くできないのです。

 お念仏を称えると、大切なことが見えてきます。「課題」を通じて自分の心が見えてくるのです。うわべだけの「解決」に奔走し、本当の「課題」に向き合っていないのが私です。一つひとつの「課題」は如来から頂いた呼びかけです。この「課題」に出遇わなかったら、大切なことが分からなかった。この「課題」に出遇ったからこそ、今日の私がいるのである。といただきたいものです。

(即得寺だより No.53)

記念事業のご報告

本堂の様子

即得寺での「高島秋講記念事業」について、ご報告いたします。本堂の内陣の内装工事は、七月十五日に完成を致しました。
今回の修復により、壁面には、蓮池図を描いていただきました。正面の軸は、先代住職の法名です。今回の御修復を先代住職も、御門徒の皆様とともに喜んでいて下さっていると思っています。昭和初期の即得寺の本堂には、蓮池図が描かれていたそうです。今回の修復で復元できたことを喜んでおります。

手水舎(ちょうずしゃ)

手水舎(ちょうずしゃ)は大工さんの仕事を受けて、七月中旬より八月初旬まで、瓦屋さんが熱心に仕事をして下さいました。瓦を葺いていただくと、日本建築の良さが引き立ちます。手水鉢は、以前のものを石材屋さんにクリーニングしていただきました。『安政六巳未年 藤本太兵衞 寄進』と刻まれており、歴史を感じております。

(即得寺だより No.50)

記念事業の進捗状況について報告します

平成二十七年の「高島秋講」まで、あと一年となりました。
お寺では、四月末日から毎日のように職人の方々が出入りされ、工事が行われております。 まず、本堂については、旭電気設備さんにより、本堂の空調設備を設置していただきました。 本堂内陣については、京都小堀仏具店の職人さんにより、漆塗りや金箔の張り付けを行って頂いております。
境内では六月中旬から中村石材店さんにより敷石の工事や、河内左官さん、田中ブロックさん、旭瓦さん、松井塗装さんにより高塀の補修を行って頂いております。七月二日からは川上産業さんの大工さんにより手水舎の建築を行って頂いております。八月の盂蘭盆会には、皆さんに見ていただけると思います。是非盂蘭盆会にお参り下さい。

(即得時だより No.49)