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宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要のご案内

 謹啓 秋涼の候 皆様には慈光のもと、ご健勝にてご法悦の毎日をお過ごしのこととお慶び申し上げます。

 さて、拙寺「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要」を三年前より計画致し、準備を進めて参りました。御遠忌法要は、私達門徒にとっては、本願念仏の教えに出遇う機縁だと考えます。一人でも多くの方にご縁を結んで頂きたく御案内申し上げます。

合 掌

平成30年10月26日(金)

 逮 夜 午後2時~     「御伝抄絵解き法話」沙加戸 弘 師

 初 夜 午後7時30分~  「御伝抄絵解き法話」沙加戸 弘 師

平成30年10月27日(土)

 日 中 午前10時~  法話「宗祖としての親鸞聖人に出遇う」一楽 真 師

 大逮夜 午後2時~   法話「宗祖としての親鸞聖人に出遇う」一楽 真 師

 初 夜 午後7時30分~ 音楽法要(即得寺同朋合唱団)

             法話「宗祖としての親鸞聖人に出遇う」一楽 真 師

平成30年10月28日(日)

 晨 朝 午前8時15分~法話「宗祖としての親鸞聖人に出遇う」一楽 真 師

 庭 儀 午前10時~

 結願日中午前11時~

※駐車場を十分に用意しておりますので、ご利用下さい。

   高島市新旭町藁園1661                                                     

真宗大谷派 龍湖山 即得寺   住職 川那邉 章

総代 大江太喜博

平成30年9月のご挨拶

災 害

 「災害は忘れた頃にやってくる」ということわざがあります。しかし私がここ数年間で感じるのは、「忘れた頃にやってくる」どころか「忘れる間もなくやって来る」ということです。振り返ってみると今年の6月末から7月初旬にかけての西日本豪雨災害。8月23日から24日にかけて台風20号での被害。さらに9月4日には台風21号の被害。やっと台風が収まったと思うと9月6日に北海道で震度7の大地震が起こっております。被災された方々には心からお見舞いを申し上げます。

 さて、大きな自然災害が続く中で感じることは、私たちの生活基盤のもろさです。特に今回の北海道地震の場合は、全道の停電というかつてない出来事が起こりました。被災された方々はどんなに不安を感じられたでしょうか。停電の原因はいくつかの条件が重なり、結果として発電所の機能が低下したためです。この大規模停電で知らされたことは、私たちの生活は「豊かで便利」を求めていますが、電力がなくなれば、一瞬のうちにその生活が成り立たなくなるということです。

 今回の北海道地震の報道を通じて、「本当の豊かさとは何か」を改めて問われることです。そして私が、これだけは確かであると生活をしていますが、その「基盤は確かなことか」と問い返してくれているのでしょう。

 親鸞聖人 85才の時の和讃(正像末和讃)には

    「弥陀の本願信ずべし  本願信ずるひとはみな

       摂取不捨の利益にて  無上覚をばさとるなり」

 と阿弥陀様のおはたらきを詠んで下さっています。私たちがどんな状況であっても、阿弥陀仏は決して見捨てないぞとはたらき続けて下さっています。

 今回の台風や水害、地震で被災された方々が、一日も早く復旧、復興をされることを念じております。

お磨きをしました。

お磨き ご苦労様でした

8月7日に本堂とお茶所に分かれて、仏具のお磨きをしました。早朝より総代さん、女性総代さん、十四日講、光華法話会の皆さんに参加していただき実施しました。昨年の報恩講前のお磨き(11月末)以来ですから、見た目以上に仏具が汚れていました。一つ一つの仏具には、その時の寄進人の名前が彫り込まれております。その中に昭和20年代に寄進していただいた鶴亀(燭台)があります。戦争のために当時の鶴亀などは金属の供出を行い、しばらくはなかった時期があったのです。終戦を迎えると、まだ十分に物のない大変な生活状況の中で、御寄進いただいたものです。戦争での供出の事実とともに、大切な仏具を次の世代に引き継ぐ責任を感じます。

 本日のお磨きは、和やかな会となり皆さんのおしゃべりとともに、お磨きも進んだようです。講の皆さんが輪になって座るため、会話も弾み、作業も弾むのだと感じます。1時間半程度でピカピカになりました。お磨きの後は、皆さんと一緒に「正信偈」のお勤めと、住職の法話を聞き、茶話会をしました。アイスコ-ヒ-とシュ-クリ-ムが疲れを取ってくれました。

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平成30年7月のご挨拶

ウォ-キング

 今年の4月からウォ-キングを始めました。無精な私の性格ですので、三日坊主(文字どおり坊主です)で終わらないために、人にはあまり言わないようにしていました。私は毎朝6時に大鐘を撞いてから、1時間余り(8000歩)を歩いています。先日北海道のお寺を訪問したときに、近くの御住職も毎朝約1時間30分(12000歩)を歩いているとお話しになっており、意気投合して盛り上がりました。その方は、万歩計(携帯電話)を身につけて歩くのだそうです。必ず毎日記録を付けて、自己記録を更新することが楽しみになっているとおっしゃっていました。お話を聞いていると、同じだなぁと感じました。私も今回歩き始めたときに、電池が切れていた万歩計に新しい電池を入れ、自分の年齢や体重、歩幅をセットし直して始めました。以前、歩き始めたときは続かなかったために、「今回も2週間ぐらい歩けばいいや」との思いで始めました。ただ、今回心掛けたのは、記録を付けることです。たしかに記録を付けると、歩いたかどうかがはっきりします。私は朝、血圧を測るように主治医に言われていますので、血圧手帳の備考欄に、歩いた日は歩数を記録し、歩かなかった日は言い訳を記入します。記録を付けるということは、当たり前のことですが新しい発見があります。何を発見するかというと、言い訳や数字を通じて毎日の自分の行動や思いがはっきりと表れるのです。最初は幸い晴れた日が続き、日に日に歩数が伸びていきました。約30分のウォ-キングが少しずつ距離を伸ばし、歩く時間も40分から50分と伸ばすことができるようになりました。しっかり歩けた日は、記録を付ける時に充実感を味わうこができ、できなかったときは、言い訳をしている自分に向き合えるのです。まさに血圧の記録手帳が陰の力となって、私の意欲を引き出してくれています。

 面白いもので、誰かにやらされていることであれば、いつかは止めてやろうと思うのですが、止めたいという気持ちが起こらないまま、今日まで続いています。同時に毎日の日課になったようで、大鐘を撞くと自然に足が風車村の方向に向いています。お陰で血圧も安定しています。

 私のウォ-キングは今回はいつまで続くのか分かりませんが、楽しんで歩きたいものです。最近では何人かのお仲間とも散歩コ-スですれ違うと、「おはようございます」と挨拶を交わす機会が増えています。今では、そろそろ向こうからあの人とすれ違う時間だなということも、楽しみの一つになっています。

平成30年6月のご挨拶

「育つ」

 先日、近くの養護学校の生徒さんたちが花の苗をリヤカ-に載せて、販売実習のためにお寺を訪問してくれました。3月から丹精を込めて育てられた苗がリヤカ-一杯に所狭しと並んでいました。近くのホ-ムセンタ-で購入した苗も追加して、プランタ-に植えました。なかなか花の名前は覚えられないのですが、今回植えた花は、ベゴニア、サルビア、インパチエンス、マリ-ゴ-ルドの四種類です。これから楽しみながら水やりを行い、育てたいと考えています。

 ところで「育てる」という言葉を考えていると、妙に恥ずかしい気持ちになります。その理由は、「俺が育ててやっている」という思いあがった心が見え隠れするからです。つい、花でも野菜でも、「俺が育てたんだ」という自意識がでてしまうのです。「育てる」というと、自分が世話をすることによって、思うように成長させることができるような錯覚に陥るのだと思います。しかし、花が育つには様々な条件がなければ育たないのは明白です。

 相田みつをさんの「自己顕示」という詩に

 「この花は おれが咲かせたんだ」 土の中の肥料は そんな自己顕示をし ない おれのような。

 と示されています。

 「育てる」ということは同時に「育つ」ということでしょう。親の年齢と子どもの年齢は同年齢ということがあります。そんなはずはないと私達は考えるのですが、親の年齢とは親になってからの年齢という意味であり、子どもの誕生と同時に親としての歩みも始まるということです。その意味では、子育ては「親育て」の道であるはずです。真宗の教えでは「お育てに遇う」ということが言われます。親鸞聖人は、私が人間として「育てられる」道は、お念仏を称え、仏の呼び声に出遇うことだと教えられました。

念仏を頂くと、互いに育ち合いの関係が生まれるのではないでしょうか。

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同朋大会が開催されました

 今年の近江第26組の同朋大会が、6月9日(土)に安曇川藤樹の里文芸会館で開催されました。オ-プニングでは同朋合唱団の仏教讃歌2曲と新たに今年度はよし笛の演奏を「ひつじ草」の皆さんに演奏していただきました。すてきな演奏での大会の幕開けとなりました。

 ご法話は、大分県からお越しいただいた大江憲成先生により「すでに道あり 師あり 友あり」というテ-マで、念仏をいただく意味を丁寧にお話しいただきました。

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大掃除を行いました。

本日、5月27日の朝、8時30分より大掃除を実施しました。今回は新庄、安北、森のご門徒に参加していただきました。大勢の方と一緒に掃除を行うと、広い境内や庭がきれいになり、心もさわやかになりました。

掃除をしていて感じたことは、草の生命力の強さです。あんな小さな草にも「いのち」があり、「生きよう、伸びよう」としていることがわかります。草木一本一本に私と同じ「いのち」が宿っていることに気づかされるのです。また、掃除をすると汚れている箇所がはっきりするのです。毎日境内を見ているときは気づかないのですが、掃除をすることによって「汚れ」が明らかになるのです。私たちも「清浄」なる世界に照らされると、私自身が「汚れていた」ことに気づかされるのです。今回の大掃除は天候にも恵まれ、いい汗を流すことができました。掃除の最後には、「恩徳讃」を唱和して記念写真を「パチリ」!。皆さんいい顔をされています。ご苦労様でしたIMG_0262

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平成30年5月のご挨拶

ありのままの「いのち」

 先日、一冊の本を手にする機会がありました。「お誕生日おめでとう、生まれてくれてありがとう」という題の本(真城義麿著)です。その中で、『私が人間に、そして「私」に生まれた意味はどこにあるのでしょうか。』という問いが投げかけられていました。私たちは、人間に生まれたことには違いありませんが、さらに重要なことは「自分」に生まれたということにあると思います。

 今から二千五百年前にインドの北部(現在のインドとネパールの国境付近)で、釈迦という人が生まれ、仏教を説かれました。釈迦に関する説話は数多く残っておりますが、特に誕生に関して印象に残る説話があります。釈迦は誕生の際、七歩あるいた後に、「天上天下唯我独尊」と声を発したと伝えられています。誕生直後の赤ちゃんが、歩き、言葉を発することは現実ではあり得ないことでしょう。しかし、この説話が私たちに伝えている意味は何であるかを考えるべきです。 「天上」とは、自分を取り巻く状況が、比較的自分に都合良く、思い通りに進んでいる状況のことを指します。逆に「天下」とは、なぜ自分だけがこんな辛い目に遭うのだろうかと思ってしまう、つまり思い通りに進まない状態を言います。「天上・天下」とは「どんな状況であっても、どんな境遇になっても」ということを指しています。

 「唯我」とは、存在しているどの一人も、かけがえのない人であることを表しています。誰とも代わることのできない存在なのです。私たち一人ひとりが、他の人と代わることのできない、代わりがきかない人間なのです。

 「独尊」の「独」は、何も加えなくとも「それ自身で」という意味です。成績や所得や地位が高いかどうかではなく、その人がその人として生きていることが尊いということです。身につけた技能や能力が尊いというのではありません。

 私たちは、自分のありのままの「いのち」の尊さに改めて目覚めるとともに、支え合い、尊び合う、互いの「いのち」に「ありがとう」と感謝し合いたいものです。

平成30年4月のご挨拶

「思い違い」

 境内のしだれ桜が盛りを過ぎ、こぼれるようにおじぎをしています。皆様の地域の桜はどうでしょうか。ニュ-スを聞いていますと、今年は全国的にずいぶんと早く桜の開花が始まったようです。

 さて、先日私が出かけようと勝手口に向かうと、孫2人が走って来て、靴を履こうとしているのです。4歳の外孫は自分で靴を履いて待っていますし、1歳11ヶ月の内孫は靴を持って自分の足を出して、「ブ-ブ-」と自動車に乗りたいと意思表示をするのです。たぶん孫たちは「お爺ちゃんが出かけそうだ」「一緒に連れて行ってもらえる!」と思い違いをしているのです。しかし私の外出目的は御門徒のお宅へのお参りです。残念ながら孫の思いを叶えることはできませんでした。こんなことは皆さんも経験されたことがあると思います。

 幼い子どもの期待や思い込みはかわいいものですが、私たち大人が思い込みをするとかなり厄介なことになります。「こうなるはずだ」「こうしてもらえるはずだ」と考えているにもかかわらず、自分が予想した結果と異なったときは、まず相手に非があるように感じてしまいます。「きっと感謝されるだろう」という私の思いで声を掛けた時に、相手の困った顔や迷惑そうな様子に出遇うと、自分の「思い違い」を思い知らされます。その時に問われているのは、「本当に相手のことを思っていたのかどうか」なのです。相手のことを分かったつもりになって、自分の都合を押しつけていたのではなかったか。その「思い違い」が結果となって、現れたのでしょう。法語カレンダ-には、『自分が偉いものと思うと 世の中が暗くなる』(曽我量深師)とあります。「思い違い」は常に私の「つもり」や「はず」が作り出すものです。「知っているつもり」「分かっているはず」の時こそ、頭を持ち上げることなく、しだれ桜のようにしなやかにありたいものです。

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