お知らせ&即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

総代様の紹介

平成二十八年度の総代様は次のとおりです。色々とお世話になりますが、よろしくお願いします。

(敬称略)

総代(任期:平成28年1月~30年1月) 

藁園新町   大江 太喜博

  旭町   大江 信行

  旭町   清水 良夫

  光町   本庄 勝

  栄町   中村 惠一

深溝     饗庭 長司

他所・森   清水 源三郎

女性総代(任期:平成28年1月~30年1月)

藁園     桂田 松枝

藁園     澤辺 満恵

藁園     本庄 廣子

藁園     木下 八重子

平成28年1月のご挨拶

あけましておめでとうございます。昨年は皆様には何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 昨年は皆様にとってどのような一年であったのでしょう。私にとっては、平成二十七年という年は生涯忘れられない年になりました。三月には若院を迎え、入寺法要を勤めることができました。また八月には高島秋講の会所として、五日間の法要を勤めさせていただきました。たまたまご縁があってこれらの出来事に出遇うことができたのですが、それらの出来事をどのように受け取るかが問われていると感じます。偶然と受け取るか、必然として頷くかは、私の「生き方」において根本的な違いがあるのです。皆様にとっては、様々な出来事にお遇いになった一年であったと思われます。良い事もあり、大変な事もあり、楽しい事もあり、苦しい事もありの一年であったのでしょう。その全ての出来事が実は必然の出遇いであったのです。必然であると頷いたときに、出来事に対しての私の「生き方」が定まるとおもいます。

 さて、「蓮如上人御一代記聞書」という書物があり、その第一条には弟子の道徳(73歳)に蓮如上人(79歳)がお正月の挨拶をする様子が記されています。明応二年(1493年)の正月に京都の勧修寺村の道徳が、山科本願寺へ年頭の御礼に参詣をしました。老体の道徳を前にして、蓮如上人は唐突に歳を尋ねて無常を思い知らせ、念仏を申しているかを尋ねられたのです。年齢を重ねるということは、若いときには感じられなかった事実に気づき、自分の人生の上で本当に尊い事「本尊」に出遇う事であるのです。弟子の道徳は、毎日念仏の生活をされていたのですが、73歳という年を迎えるにあたり改めて「念仏を申す身となっているか」を問われたのです。南無阿弥陀仏と称えるという事は、偶然の日暮らしが、必然の日暮らしに転換され、損得を超えて「本当に尊いこと」に出遇うことです。

 写真は即得寺の本堂です。遠方の方は足をお運びいただくことは出来ないかもしれませんが、「お内仏」で手を合わせ念仏の声とともに新年をお迎え下さい。新年を迎えるということは修正会の案内にありますように、人生の方向を定め、軌道修正をすることが問われているのです。

 今年一年、皆様に取りまして仏法との出遇いの年になることを念願しております。

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 平成28年度の年回表は元日に本堂に掲示いたします。今年度の年忌法要については次の通りです。

  1周忌・・・平成27年没   3回忌・・・平成26年没

  7回忌・・・平成22年没   13回忌・・・平成16年没

  17回忌・・・平成12年没  25回忌・・・平成4年没

  33回忌・・・昭和59年没  50回忌・・・昭和42年没

  100回忌・・・大正6年没

 遠方の方で、亡き方の年忌についてご確認されたい方は、お命日と法名を伝えていただければ、お調べできます。また、年忌法要を勤められる場合は、御希望の期日を早めにお知らせ下されば日程を調整することが出来ます。

平成27年12月のご挨拶

12月に入り、報恩講をお迎えする時期となり、私は時間に追われる生活をしておりました。今年度の報恩講は、5日に始まり7日の御満座をもって無事にお勤めすることが出来ました。総代さんはじめ御門徒の皆様のご協力に、改めて感謝を申し上げます。

 「報恩講」とは、日頃の私自身のあり方を見直す機会です。本堂に身を置き、如来様の前に座らせてもらうと、自分自身が映し出されるのです。どこまでも自己を中心とし、つまらないことにこだわり(しかしこだわっている時はつまらないことだとは分からない)自分の我欲を振り回しているのです。なんと「お粗末な自分であるか」が知らされるのです。私たちは、自分の思い通りになって「当たり前」と考えて生活をしています。そのため、「思い通り」にならないことが起こると、そのことを受け入れることができず、不安になったり、怒りをぶちまけたりするのです。

 私事ですが11月末から風邪を引き喉の調子が悪く、11月29日には声が出なくなってしまいました。ある方の「お通夜」のお勤めに行きましたが、「正信偈」を読もうとしますが「声」が出ません。本当に辛い思いをしました。ありがたかったのは、通夜に参列された方々が一生懸命に「正信偈」を読んで下さり、声の出ない私を助けて下さったことです。その後、声も徐々に出るようになり、報恩講を勤めることができました。今回の「報恩講」を通じて感じたことは、「当たり前」と感じていることが、実は「当たり前」ではなかったということです。特に私は、「声」が出て「当たり前」と考えていました。しかし今回、声が出ないという事態に見舞われ、辛い思いをしたと同時に、声が出ることの有り難さを身をもって教えられました。年に一度の「報恩講」は、「当たり前でなかった」事実に気づかせていただく機縁なのです。気づいたときに、私自身が初めて「感謝」という心を頂けるようなるに思うのです。

 お寺では毎日(土日以外)朝6時30分に大鐘を撞いています。最近では東の空が少し明るくなっています。しーんと冷えた空気の中に、大鐘の音が「ゴーン」と鳴り響いています。この大鐘の音を耳を澄まして聞いて下さい。「ゴーン」「ご~ん」「ごぉ~ん」「ごおーん」「御~恩」「御恩」と響いているのですね。

 大鐘は、「御恩」に気づけない私に大鐘の響きとなって問いかけてくれています。

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お斎

今年の報恩講を無事に終えることができました。

昨日、今日と、布教師の佐々木先生やご門徒の皆様とともにお斎のしょいめしとかぶら汁を美味しくいただきました。

皆さまとご縁を結べたことに感謝いたします。(若院)

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報恩講が近づいてまいりました

この写真は輪灯と燭台(鶴亀)の写真です。

 今年度の報恩講をお迎えするために、11月30日に即得寺で「お磨き」を行いました。朝8時30分より光華法話会と十四日講の会員の皆さんにお集まりいただきました。皆さんのご協力により、全ての仏具をピカピカに磨いていただきました。

 「お磨き」は年間2回実施しております。8月のお盆前に行って以来4ヶ月ぶりの「お磨き」です。薬品を付けて磨きますと、布が真っ黒になります。普段あまり汚れが分かりませんが、4ヶ月の間に知らず知らず仏具が汚れていたのです。「お磨き」に参加して下さった方が「本当にきれいになりました。仏具がきれいになると気持ちが良くなります」と話されていました。

 「お磨き」は仏具の汚れを取り除く作業ですが、実は「お磨き」をとおして私自身の心の汚れに気づかせていただくことが大切ではないかと感じています。仏具は薬品で磨けますが、私の心の汚れは仏様の心に触れ、念仏をいただくことにより知ることが出来るのです。どうぞ報恩講にお参りして、心の「お磨き」をして下さい。

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平成27年11月のご挨拶

立冬を迎えましたが暖かい日が続いています。皆様におかれましては、御法悦の毎日をお過ごしのことと存じます。

 皆さんの所に同朋新聞等を毎月送付させて頂き、この送付文を書いていると、季節の移り変わりを実感できるようになりました。この文はワープロで書いているため、先回の文に上書きして作成しています。そのため、先回の文章を読みながら、今の季節への移り変わりを実感しています。一ヶ月という時間が経過し、その時間だけ確実に季節が進んでいるんだなぁと感じるのです。また、その時間を自分自身がどのように過ごしたかが改めて問われるのです。私の場合は、「本当に何もしないうちに、また一ヶ月が過ぎてしまった」と感じています。その反面「お陰さまで、この一ヶ月を過ごさせて頂いた」ことに気づかせて頂いているのです。私たちは物事に追われ、その結果「あれも出来ていない。これも出来ていない」という毎日を送ることになります。しかし、この一月何もしなかったのかと問われると、ずいぶんいろいろなことが出来ているものです。仏法に出遇うと、出来ていないことを歎くよりは、出来たことを喜ぶべきなのです。振り返ってみると、一ヶ月前には出来ていなかったことが、時の経過ととも願いにつつまれ、いろいろと成し遂げられているのです。何よりも、この私自身が、まったく新しい一ヶ月を生かさせて頂けたという事実に気づくのです。

 先日、ホームセンターに買い物に行くと店頭にきれいな花が並んでいました。私は花の名前をよく知らないのですが、「プリムラ・ポリアンサ」と書いてあり、六株購入しプランターに植えました。これから花の少ない季節に向かうのでちょうど良いと思って、玄関に飾りました。

 阿弥陀経には「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉があります。どの花も精一杯自分の色を咲かせているように、私たちも、年齢や性別、顔かたちは異なりますが、自分の色を精一杯咲かせたいものです。他と比較せず、自分という色を精一杯咲かせたときが、自分自身の一番輝くときだと感じました。

 先月は、この「プリムラ・ポリアンサ」に出会え、植え付けを行えたことが喜びです。このお花とともに私自身も育ちたいものです。

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仏教は自分を映す鏡である

今年度の高島秋講で、皆さんは織田先生の御法話を聴聞されたことでしょう。先生は御法話の中で『仏教とはどのような教えか』について分かりやすくお話をしてくださいました。当日の法話で話されたことは、仏教の教えは「鏡を見る」ようなことである。私たちは毎日何度も「鏡」を見ている。「鏡」を見るといっても、「鏡の品質や製品としての鏡」を見ているのではない。私たちが「鏡」を見る場合は、「自分の姿」を映すために見るのである。しかし、映し出された「自分の姿」はどこまでも、自分の外側である。大切なのは、自分の内面を映し出す「鏡」である。「鏡」がなければ自分の姿が見えないのと同じように、「仏教の教え」がなければ、自分の内面を映し出すことができないのである、とお話してくださいました。

 織田先生のお話のとおりだと考えます。私たちは、「鏡」の前では、少しすまし顔になり、自分という眼をとおして、自分の気に入った自分を見るのです。決して、自分のいやな顔や嫌いな表情は作らないと思います。泣き顔や怒ったときに「鏡」を見る人は少ないと思います。

 では内面はどうでしょうか。毎日の生活を通じて、様々な悩みが湧き起こっています。その悩み一つ一つをとってみれば、その根本に「自分の思い通りにしたい」という心があるのです。この心に気づけない限り、どれだけ悩んでも、本当の解決にはならないのです。

 宮城顗(みやぎしずか) 先生は次のように仰っています。

無明とはいったい何かと申しますと、因縁の道理に暗いことであり、したがって、我執を意味しているわけであります。因縁の道理というものに眼を開かずに、我という思いに立って、我という思いに執着している。・・・・(略)

 私たちの生き方は、本来のことが見えていない、本来のあり方を知らないということが出発点になっています。道理に生かされながら、そのことに「無知」である。「無知・無明」のため、何でも自分でできると勘違いし、ある時は有頂天になる。また、自分の都合の悪いことが起こると、その現実が受け入れられず、愚痴をこぼしたり、腹を立てたりするのです。

 仏教を学ぶということは、自分のあり方を問うことであり、問われることです。私たちは、「よく生きたい」という願いをもっています。しかし、どのようにすれば、「よく生きる」ことができるのかが分からないのです。そのため、ひとときの楽しさを求めてみたり、物欲を満たそうとするのです。

 「仏法」は、毎日の生活が事実となって、私に本当のあり方を問うて下さっているのです。「よく生きる」ということは、「満足」するということでしょう。決して「楽」をすることではありません。自分の人生に「生きる意味」を頂き、自分に与えられた課題を果たすことが「よく生きること」であると考えます。

平成27年10月のご挨拶

朝夕、随分と気温が下がり、秋の深まりを日一日と感じる季節となりました。皆様におかれましては、御法悦の毎日をお過ごしのことと存じます。私は高島秋講の余韻を味わいながら、改めてお念仏の喜びをかみしめています。秋講から早一ヶ月が過ぎました。あの暑さはいったいどこへ行ってしまったのかと思い、秋風を感じています。

 秋といえば、文化の秋、行楽の秋、スポーツの秋など様々な秋がありますが、皆さんはどんな秋を楽しんでおられますか。私は読書の秋を楽しみたいです。先日、同朋新聞で紹介されていた「地獄と極楽」(宮城顗 著・東本願寺出版)の記事が目にとまり、本山へ行く用事がありましたので購入しました。

 地獄・極楽という言葉は、源信僧都(942年~1017年)が「往生要集」を著されることにより、世間一般の言葉となったということです。源氏物語などにも地獄・極楽という考えが出てくるのは、「往生要集」の影響だそうです。

 この本は、地獄を突き詰めると「自己のあり方」が見えてくる、と示して下さっています。私たちは罪を作っていても罪の自覚を持たず、自分だけは「善人」であると考えています。地獄には「八大地獄」があり、その一番最初の地獄が「等活地獄」といい、殺生をした者が堕ちる地獄であると示されています。私たちは「殺生」など無関係であると思い込んでいますが、どんな人も毎日の食事を通じて「殺生」を繰り返しているのです。しかし、自分は殺生という「罪」を作り続けているという自覚がないのです。等活地獄では、地獄の鬼(獄卒ごくそつ)が罪人を頭から順に切り刻み、また生き返らせて切り刻むことを繰り返し、終わることがないと説明されています。この本には「私たちが生活の中で奪い続けてきたものが、まったくかけがいのない生命であったことを思い知らす相が、等活ということである」と示されています。

 親鸞聖人は、常に自己の「罪悪」と向き合い、「地獄」を自覚されていたと感じます。歎異抄には親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」というお言葉として私たちに伝えてくださっています。自分のどうしようもない「罪悪」を自覚すると、そんな私を支え続けている「阿弥陀様」の働きを感じずにはおれないのです。

 法語には

  『仏は人間の苦を救うのではない。苦悩の人間を救うのである。』

とあります。今、この法語に頷くばかりです。

同朋会一日研修会に行ってきました

 9月27日(日)の秋晴れのもと、同朋会一日研修会を実施いたしました。毎年この時期にバスを使っての研修を行っています。一昨年は福井の真宗出雲路派本山・毫摂寺、昨年は京都の西本願寺へ参拝をしました。今回は三重県にある真宗高田派の本山・専修寺へ行きました。行程は下記のとおりです。

  8:00出発 琵琶湖大橋 9:20栗東IC 10:30芸能IC

  10:45~12:15高田派本山専修寺 12:40~13:40昼食(関町) 14:20長島IC

  14:30~16:00輪中の郷 16:10長島IC 17:40栗東IC 19:00藁園着

まず驚いたのは境内の広さです。三万坪の境内という説明がありましたが、広々としており、御影堂、如来堂ともに重要文化財に指定されている立派なお堂でした。

 高田派の原点は、親鸞聖人が関東での布教活動を行うなかで、門弟の真仏を中心として形成された栃木県下野地方の高田門徒が始まりです。現在では下野高田の専修寺は、本寺専修寺・高田派本寺として位置づけられています。今回訪問した専修寺には、特に親鸞聖人のお手紙や真筆の和讃本などが存在し、真宗門徒としては親鸞聖人を身近に感じることができました。残念ながら宝物館で展示してある書物等は、全てがレプリカでありましたが、正確に複製されたものであり、親鸞聖人の筆跡を感じることができました。写真の和讃本には、親鸞聖人自ら左仮名を加えられ、和讃の意味をお示しになっています。

 午後からは「輪中の里」で、長島一向一揆について学びました。輪中での生活の苦労と信仰の篤さを感じました。また、「伊勢湾台風での水害」特別展が行われており、写真パネルを見るたびに、茨城県での鬼怒川氾濫の水害を思い起こし、被災された方々へのお見舞いの気持ちでいっぱいでした。

 来年も、同朋会の研修を計画したく考えています。御門徒の参加をお待ちしております。

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平成27年9月のご挨拶

高島秋講は8月27日に開筵し、31日に満講を迎え無事に終了することができました。期間中には多くの方々に参詣を賜り感謝とともに、大きな感動をいただきました。また、当寺の総代さんをはじめ役員の方々には、準備から後片付けに至るまで献身的に働いて下さり、ただただ頭が下がるばかりです。改めて役員の皆様方に感謝を申し上げます。

 いま、高島秋講を終えて、会所住職として責任を果たすことができた安堵感と、得がたいご縁に遇わせていただけた喜びと、深い感動をいただいております。延べ約2300人がお参り下さり、本堂いっぱいのお参りに圧倒され驚いておりました。たくさんの僧侶・門徒・寺族の方々が足を運んで下さったのです。それは、御門徒さん同士のつながり、住職さん同士のつながり、お寺と門徒さんとのつながりが、今回の高島秋講にご縁を結んでいただいたと感じています。高島秋講を受け継いで下さった先人の願いや、その願いを受け止め足を運んで下さった参詣者の皆様に頭が下がるのです。毎日の生活で損得ばかりを振り回して生きている私が、損得を超えて仏法聴聞される参詣者のお姿に触れると、ただ「仏法不思議」といただく以外にないのです。参詣された一人ひとりを動かす「はたらき」、役員さんを始め一人ひとりがお役をいただく「はたらき」を考えると、「仏法不思議」と思うのです。そして、期間中の暑い日、大雨の日がありましたが、その中を参詣して下さったことに、ただただ頭が下がるのです。「尊い」ということがはじめて分かったのです。法語には次のことばがあります。

  拝まれる人は尊いが、拝む人はなお尊い

 写真は境内のサルスベリの花です。秋講の期間中、きれいな花を咲かせてくれました。長期間花をつけるために「百日紅」とも呼ばれています。毎年このサルスベリが花をつける頃、高島市内のお寺で高島秋講が開催されています。来年のサルスベリの花を楽しみに待つと同時に、高島秋講のご縁をいただき、御門徒の方々と共に、仏法聴聞の花を咲かせたいものです。
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