お知らせ&即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

報恩講が近づいてまいりました

この写真は輪灯と燭台(鶴亀)の写真です。

 今年度の報恩講をお迎えするために、11月30日に即得寺で「お磨き」を行いました。朝8時30分より光華法話会と十四日講の会員の皆さんにお集まりいただきました。皆さんのご協力により、全ての仏具をピカピカに磨いていただきました。

 「お磨き」は年間2回実施しております。8月のお盆前に行って以来4ヶ月ぶりの「お磨き」です。薬品を付けて磨きますと、布が真っ黒になります。普段あまり汚れが分かりませんが、4ヶ月の間に知らず知らず仏具が汚れていたのです。「お磨き」に参加して下さった方が「本当にきれいになりました。仏具がきれいになると気持ちが良くなります」と話されていました。

 「お磨き」は仏具の汚れを取り除く作業ですが、実は「お磨き」をとおして私自身の心の汚れに気づかせていただくことが大切ではないかと感じています。仏具は薬品で磨けますが、私の心の汚れは仏様の心に触れ、念仏をいただくことにより知ることが出来るのです。どうぞ報恩講にお参りして、心の「お磨き」をして下さい。

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平成27年11月のご挨拶

立冬を迎えましたが暖かい日が続いています。皆様におかれましては、御法悦の毎日をお過ごしのことと存じます。

 皆さんの所に同朋新聞等を毎月送付させて頂き、この送付文を書いていると、季節の移り変わりを実感できるようになりました。この文はワープロで書いているため、先回の文に上書きして作成しています。そのため、先回の文章を読みながら、今の季節への移り変わりを実感しています。一ヶ月という時間が経過し、その時間だけ確実に季節が進んでいるんだなぁと感じるのです。また、その時間を自分自身がどのように過ごしたかが改めて問われるのです。私の場合は、「本当に何もしないうちに、また一ヶ月が過ぎてしまった」と感じています。その反面「お陰さまで、この一ヶ月を過ごさせて頂いた」ことに気づかせて頂いているのです。私たちは物事に追われ、その結果「あれも出来ていない。これも出来ていない」という毎日を送ることになります。しかし、この一月何もしなかったのかと問われると、ずいぶんいろいろなことが出来ているものです。仏法に出遇うと、出来ていないことを歎くよりは、出来たことを喜ぶべきなのです。振り返ってみると、一ヶ月前には出来ていなかったことが、時の経過ととも願いにつつまれ、いろいろと成し遂げられているのです。何よりも、この私自身が、まったく新しい一ヶ月を生かさせて頂けたという事実に気づくのです。

 先日、ホームセンターに買い物に行くと店頭にきれいな花が並んでいました。私は花の名前をよく知らないのですが、「プリムラ・ポリアンサ」と書いてあり、六株購入しプランターに植えました。これから花の少ない季節に向かうのでちょうど良いと思って、玄関に飾りました。

 阿弥陀経には「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉があります。どの花も精一杯自分の色を咲かせているように、私たちも、年齢や性別、顔かたちは異なりますが、自分の色を精一杯咲かせたいものです。他と比較せず、自分という色を精一杯咲かせたときが、自分自身の一番輝くときだと感じました。

 先月は、この「プリムラ・ポリアンサ」に出会え、植え付けを行えたことが喜びです。このお花とともに私自身も育ちたいものです。

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仏教は自分を映す鏡である

今年度の高島秋講で、皆さんは織田先生の御法話を聴聞されたことでしょう。先生は御法話の中で『仏教とはどのような教えか』について分かりやすくお話をしてくださいました。当日の法話で話されたことは、仏教の教えは「鏡を見る」ようなことである。私たちは毎日何度も「鏡」を見ている。「鏡」を見るといっても、「鏡の品質や製品としての鏡」を見ているのではない。私たちが「鏡」を見る場合は、「自分の姿」を映すために見るのである。しかし、映し出された「自分の姿」はどこまでも、自分の外側である。大切なのは、自分の内面を映し出す「鏡」である。「鏡」がなければ自分の姿が見えないのと同じように、「仏教の教え」がなければ、自分の内面を映し出すことができないのである、とお話してくださいました。

 織田先生のお話のとおりだと考えます。私たちは、「鏡」の前では、少しすまし顔になり、自分という眼をとおして、自分の気に入った自分を見るのです。決して、自分のいやな顔や嫌いな表情は作らないと思います。泣き顔や怒ったときに「鏡」を見る人は少ないと思います。

 では内面はどうでしょうか。毎日の生活を通じて、様々な悩みが湧き起こっています。その悩み一つ一つをとってみれば、その根本に「自分の思い通りにしたい」という心があるのです。この心に気づけない限り、どれだけ悩んでも、本当の解決にはならないのです。

 宮城顗(みやぎしずか) 先生は次のように仰っています。

無明とはいったい何かと申しますと、因縁の道理に暗いことであり、したがって、我執を意味しているわけであります。因縁の道理というものに眼を開かずに、我という思いに立って、我という思いに執着している。・・・・(略)

 私たちの生き方は、本来のことが見えていない、本来のあり方を知らないということが出発点になっています。道理に生かされながら、そのことに「無知」である。「無知・無明」のため、何でも自分でできると勘違いし、ある時は有頂天になる。また、自分の都合の悪いことが起こると、その現実が受け入れられず、愚痴をこぼしたり、腹を立てたりするのです。

 仏教を学ぶということは、自分のあり方を問うことであり、問われることです。私たちは、「よく生きたい」という願いをもっています。しかし、どのようにすれば、「よく生きる」ことができるのかが分からないのです。そのため、ひとときの楽しさを求めてみたり、物欲を満たそうとするのです。

 「仏法」は、毎日の生活が事実となって、私に本当のあり方を問うて下さっているのです。「よく生きる」ということは、「満足」するということでしょう。決して「楽」をすることではありません。自分の人生に「生きる意味」を頂き、自分に与えられた課題を果たすことが「よく生きること」であると考えます。

平成27年10月のご挨拶

朝夕、随分と気温が下がり、秋の深まりを日一日と感じる季節となりました。皆様におかれましては、御法悦の毎日をお過ごしのことと存じます。私は高島秋講の余韻を味わいながら、改めてお念仏の喜びをかみしめています。秋講から早一ヶ月が過ぎました。あの暑さはいったいどこへ行ってしまったのかと思い、秋風を感じています。

 秋といえば、文化の秋、行楽の秋、スポーツの秋など様々な秋がありますが、皆さんはどんな秋を楽しんでおられますか。私は読書の秋を楽しみたいです。先日、同朋新聞で紹介されていた「地獄と極楽」(宮城顗 著・東本願寺出版)の記事が目にとまり、本山へ行く用事がありましたので購入しました。

 地獄・極楽という言葉は、源信僧都(942年~1017年)が「往生要集」を著されることにより、世間一般の言葉となったということです。源氏物語などにも地獄・極楽という考えが出てくるのは、「往生要集」の影響だそうです。

 この本は、地獄を突き詰めると「自己のあり方」が見えてくる、と示して下さっています。私たちは罪を作っていても罪の自覚を持たず、自分だけは「善人」であると考えています。地獄には「八大地獄」があり、その一番最初の地獄が「等活地獄」といい、殺生をした者が堕ちる地獄であると示されています。私たちは「殺生」など無関係であると思い込んでいますが、どんな人も毎日の食事を通じて「殺生」を繰り返しているのです。しかし、自分は殺生という「罪」を作り続けているという自覚がないのです。等活地獄では、地獄の鬼(獄卒ごくそつ)が罪人を頭から順に切り刻み、また生き返らせて切り刻むことを繰り返し、終わることがないと説明されています。この本には「私たちが生活の中で奪い続けてきたものが、まったくかけがいのない生命であったことを思い知らす相が、等活ということである」と示されています。

 親鸞聖人は、常に自己の「罪悪」と向き合い、「地獄」を自覚されていたと感じます。歎異抄には親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」というお言葉として私たちに伝えてくださっています。自分のどうしようもない「罪悪」を自覚すると、そんな私を支え続けている「阿弥陀様」の働きを感じずにはおれないのです。

 法語には

  『仏は人間の苦を救うのではない。苦悩の人間を救うのである。』

とあります。今、この法語に頷くばかりです。

同朋会一日研修会に行ってきました

 9月27日(日)の秋晴れのもと、同朋会一日研修会を実施いたしました。毎年この時期にバスを使っての研修を行っています。一昨年は福井の真宗出雲路派本山・毫摂寺、昨年は京都の西本願寺へ参拝をしました。今回は三重県にある真宗高田派の本山・専修寺へ行きました。行程は下記のとおりです。

  8:00出発 琵琶湖大橋 9:20栗東IC 10:30芸能IC

  10:45~12:15高田派本山専修寺 12:40~13:40昼食(関町) 14:20長島IC

  14:30~16:00輪中の郷 16:10長島IC 17:40栗東IC 19:00藁園着

まず驚いたのは境内の広さです。三万坪の境内という説明がありましたが、広々としており、御影堂、如来堂ともに重要文化財に指定されている立派なお堂でした。

 高田派の原点は、親鸞聖人が関東での布教活動を行うなかで、門弟の真仏を中心として形成された栃木県下野地方の高田門徒が始まりです。現在では下野高田の専修寺は、本寺専修寺・高田派本寺として位置づけられています。今回訪問した専修寺には、特に親鸞聖人のお手紙や真筆の和讃本などが存在し、真宗門徒としては親鸞聖人を身近に感じることができました。残念ながら宝物館で展示してある書物等は、全てがレプリカでありましたが、正確に複製されたものであり、親鸞聖人の筆跡を感じることができました。写真の和讃本には、親鸞聖人自ら左仮名を加えられ、和讃の意味をお示しになっています。

 午後からは「輪中の里」で、長島一向一揆について学びました。輪中での生活の苦労と信仰の篤さを感じました。また、「伊勢湾台風での水害」特別展が行われており、写真パネルを見るたびに、茨城県での鬼怒川氾濫の水害を思い起こし、被災された方々へのお見舞いの気持ちでいっぱいでした。

 来年も、同朋会の研修を計画したく考えています。御門徒の参加をお待ちしております。

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平成27年9月のご挨拶

高島秋講は8月27日に開筵し、31日に満講を迎え無事に終了することができました。期間中には多くの方々に参詣を賜り感謝とともに、大きな感動をいただきました。また、当寺の総代さんをはじめ役員の方々には、準備から後片付けに至るまで献身的に働いて下さり、ただただ頭が下がるばかりです。改めて役員の皆様方に感謝を申し上げます。

 いま、高島秋講を終えて、会所住職として責任を果たすことができた安堵感と、得がたいご縁に遇わせていただけた喜びと、深い感動をいただいております。延べ約2300人がお参り下さり、本堂いっぱいのお参りに圧倒され驚いておりました。たくさんの僧侶・門徒・寺族の方々が足を運んで下さったのです。それは、御門徒さん同士のつながり、住職さん同士のつながり、お寺と門徒さんとのつながりが、今回の高島秋講にご縁を結んでいただいたと感じています。高島秋講を受け継いで下さった先人の願いや、その願いを受け止め足を運んで下さった参詣者の皆様に頭が下がるのです。毎日の生活で損得ばかりを振り回して生きている私が、損得を超えて仏法聴聞される参詣者のお姿に触れると、ただ「仏法不思議」といただく以外にないのです。参詣された一人ひとりを動かす「はたらき」、役員さんを始め一人ひとりがお役をいただく「はたらき」を考えると、「仏法不思議」と思うのです。そして、期間中の暑い日、大雨の日がありましたが、その中を参詣して下さったことに、ただただ頭が下がるのです。「尊い」ということがはじめて分かったのです。法語には次のことばがあります。

  拝まれる人は尊いが、拝む人はなお尊い

 写真は境内のサルスベリの花です。秋講の期間中、きれいな花を咲かせてくれました。長期間花をつけるために「百日紅」とも呼ばれています。毎年このサルスベリが花をつける頃、高島市内のお寺で高島秋講が開催されています。来年のサルスベリの花を楽しみに待つと同時に、高島秋講のご縁をいただき、御門徒の方々と共に、仏法聴聞の花を咲かせたいものです。
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秋講最終日

先ほど午後9時15分に今年度の高島秋講は終了しました。

講義と法話をなさった織田先生の「自分のいのちは自分ひとりのものではなく、みんなに支えられているものだ」というお言葉、閉講式における当寺住職の「秋講はわたしひとりの働きでは成り立たず、皆様に支えられていることを実感しました」という挨拶が強く印象に残りました。

多くの方々の献身的なお勤めにより、何事もなく盛況のうちに秋講を終えることができました。皆様に厚く御礼申し上げます。(若院)

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秋講3日目・4日目

高島秋講は4日目に突入しています。

昨日(3日目)は、東本願寺第19代法主・乘如上人の御影を当寺にお迎えし、上人の御祥月法要を催しました。この法要は、第20代法主・達如上人が先代の御影を秋講へ下付されたことを契機として始まったもので、秋講のハイライトの一つになっています。約40名の御院さんが一同に集って無量寿経を唱え、本堂は厳粛な空気に包まれました。

また、昨日と今日は休日ということもあり、大変多くの方にお参りいただいております。本堂内に椅子200脚・座布団50枚ほどを用意したのですが、すぐに満席になってしまいました。暑いなかテントの下で聴聞された方には、深くお詫び申し上げます。

明日、秋講は最終日を迎えます。皆様と御縁を結べることを楽しみにしております。

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秋講2日目

高島秋講2日目を迎えました。

前日に引き続き、午前の講義では「浄土真宗の大乗性」について、午後の法話では「親鸞聖人の学び方」について、織田顕祐先生が明快なお話をしてくださいました。また、法話では120名を優に超える方々にお参り頂き、本堂に人が入りきれないほどでした。冷房設備があるとはいえ、お参りの際には暑さ対策を十分になさっていただきく存じます。

明日は、講義や法話とともに御祥月法要が開かれます。

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高島秋講がはじまりました

ご門徒の皆様、お寺の関係者の皆様、そして周辺地域の方々のご尽力のもと、本日朝9時半より高島秋講がはじまりました。

気温がぐんぐんと上がるなか、午前中だけで100名近くの方にご参集いただき、本堂は熱気に包まれました(ただし本堂にはクーラーが完備されています)。開講の挨拶の後、同朋合唱団の合唱を導きとして真宗宗歌を歌いました。また、10時からは大谷大学教授・織田顕祐先生をお招きし、「大乗仏教としての浄土真宗―如来回向と衆生の信―」と題した講義を行っていただきました。午後と夜間におきましては、織田先生が法話をなされる予定です。

秋講は今日から全5日間の日程で開催されます。どなた様も自由にお参り頂けます。皆様のご来訪を心からお待ちしています。

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