お知らせ&即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

令和5年11月のご挨拶

享受する

  ようやく秋らしさを感じる日々となりました。四季の移り変わりの中にあって、皆さんはどの季節が好きでしょうか。以前この質問を受けたときに、「どの季節もそれぞれいいと思います」と答えたら、その中でいちばん好きな季節はと更に質問されたので、「秋でしょうかね」と答えました。更に理由を尋ねられたので、欲張りの私は「勿論、秋は 食欲の秋ですから」と答えました。皆さんはどんな秋を感じておられますか。秋は「芸術の秋、読書の秋、スポ-ツの秋、実りの秋」と何か豊かな心を感じさせてくれます。

 さて「秋を楽しむ」といいますが、木々が次第に色づき、自然の移り変わりの中で生活していることを感じずにはおれないのです。「享受」という言葉を辞書で調べれば、『精神的・物質的な利益を受けて、それを味わい楽しむこと』と示されています。紅葉を楽しんだり実りの秋を喜んだりすることは、文字通り「享受する」ことです。それは、秋という自然のサイクルによってもたらされる恩恵を私達は受けているのでしょう。最近ではこの四季の変化がある日本でも、気候変動の影響で徐々に春や秋が短くなってきたように感じられます。

 世界の情勢を見ると各地域での戦争のニュ-スが報道されています。毎日失われる「いのち」を考えると、一日も早い停戦と解決が望まれます。我が国は第二次大戦後は平和主義国として今日を迎えています。「平和を享受」しているのですが、それが当たり前になって、「平和ボケ」になっていないかが問われます。多くの人が今受けている苦しみにどれだけ共感できているかが問われていると思います。

 季節の移り変わりを享受することも、平和を享受することも、その利益がどのようにして私にまで運ばれてきたかを尋ねなければならないのでしょう。今日の平和は、戦争での多くの犠牲者の上に成り立っていることを忘れてはならないでしょうし、また、自然の恩恵を受けることは、私達の生活のあり方に対しての問いかけを伴うのではないでしょうか。

 「享受」することはただ単に楽しむということだけではなく、いただいていることの大きさに出遇うことではないでしょうか。

令和5年10月のご挨拶

ハイキング

  10月に入っても気温の高い日があり、異常気象を肌で感じていましたが、ようやく秋らしさを感じる季節となりました。寒暖の差が大きいこの時期に体調を崩される方がおられます。くれぐれも、朝夕の気温の変化にはご注意ください。

 さて、私は9月の下旬(平日)に近くの山へハイキングに出かけました。登った山は滋賀県と京都市の境に位置する音羽山(標高593m)です。当日は京阪大谷駅より登山道に入りました。この大谷駅からのル-トは階段が多く距離は短いのですが、そのぶん急登で足に負担がかかります。長い木製の丸太階段や石積みの階段を上りきると、頂上まで後わずかです。音羽山は電波塔や高圧電線の鉄塔が建設され、山科駅からもよく見える山です。また、新幹線が大津方面から京都駅へ向かう最後のトンネルがこの音羽山の下を通っています。この山の頂上からは、琵琶湖をよく見渡すことができ、同時に京都市内も一望できるのです。当日も晴れた日であったので、きれいな景色を見ることができました。

 下山ル-トはいろいろありますが、今回はJR膳所駅へ降りていくル-トを選び、軽やかに足を運んでいますと、同じル-トで歩いている方と御一緒することができました。地元の方でよく山のことをご存じで、教えられることばかりでした。

 その方との会話の中で、「山に咲いている花は大変美しく感じます。山の花は、誰にも世話をしてもらえず、肥料も水ももらえないが、一生懸命に咲いている姿が美しいと感じます。」とのことでした。また、山登りでの階段が苦手であることをお話しすると、「こんな山の中にまで階段を作って下さっている方がおられる。丸太階段や石積み階段をハイカ-が通りすぎるのは一瞬ですが、10m作るのにどれ程のご苦労があるかを考えると、感謝しかありません。」とお話しされました。ハイキングをとおして身体も心もリフレッシュでき、何か大きなはたらきに出遇うことができました。

令和5年9月のご挨拶

夢が叶う

今年の夏は気温が高く、降水量も多くて全国的に大変な夏ではなかったかと思います。皆様はどのように過ごされたでしょうか。

8月24日から「高島秋講」がマキノ町野口の傳正寺様で開催されました。コロナ禍のために、3年間中止が続き、今回4年ぶりの開催となりました。即得寺では、8月24日の初日に20名のご門徒が参加され、バスで「団体参拝」を行いました。

講師の一楽先生から「真実の教えに遇う」というお話を頂き、「教えにあいながら素通りをしている私ではなかったか」「今、ここに、私に開かれている教えがある」という思いを新たにしました。

今回の高島秋講は、私と坊守にとっても特別なご法縁となったと思います。昨年の5月から300日以上の入院をしていた坊守は、高島秋講にお参りできることを夢のように思い描いていたとのことです。「夢」を見る。「夢」のような話。と言いますが、坊守は、お聴聞しながら「まさに今、夢が叶っている」と実感したそうです。また、「お参りしたくても叶わない方があることに胸が痛む」と言いました。私自身も、この度の坊守の病気がなければ、ご門徒の皆様や坊守、母、若院夫婦と共にお参りできる秋講にこのように感動を持って出遇わせて頂けたかと問い直されます。 前住職は高島秋講が近づくと「いよいよ始まる」と楽しみに待ち、終わると「秋講が終わって寂しいな」とお念仏申していました。

和讃講を始めました

7月21日より小学生は夏休みに入りました。これと同時に、毎年実施しています「和讃講」(即得寺子ども会)も始まりました。朝7時30分過ぎから、小学生が集まりだし、45分から「和讃講」の始まりです。

 本堂では、ご本尊に手を合わせ、「ちかいの言葉」をみんなで唱えます。真宗宗歌は坊守のピアノ伴奏で歌い、正信偈のお勤めをします。日に日に小学生の声が大きくなるのが分かります。

 ゲ-ムの時間は、負けるじゃんけんや指運動、新聞紙を使った文字探しなど、みんな夢中で参加しています。

 最後は夏休みの宿題をする「学習の時間」です。みんな集中して課題に取り組んでいます。「和讃講」は7月27日まで行います。

令和5年7月のご挨拶

無  明

 坊守が退院して4ヶ月を迎えようとしています。入院に際しましては、ご門徒の皆様にご心配をお掛けいたしました。通院の度に検査結果を気にしながら診察を受けておりますが、お陰さまで現時点では、順調に回復をしております。

 さて、最近では1年前のことがよく思い起こされるのです。坊守が入院したのが昨年の5月でしたので、この頃は、坊守の病気のことを考えるとただただ不安な思いだけでした。冷静に病気について考えることができず、かといって何かができるわけでもなく、不安な気持ちばかりが押し寄せていました。

 ちょうど1年前、お寺の境内が草だらけになり、若坊守と一緒に草取りをしたのを思いだしていました。皆さんはお分かりのように、昨年だけ特別に草が成長したわけではありません。毎年、草は生えるのですが、成長する前に除草できていたのです。私は昨年の境内の状況を目にするまで、こまめに除草がされていたことを知らなかったのです。いつ見ても、境内は清掃されていることが当たり前だと思っていたのです。しかし坊守が入院で不在となった時、境内の草が私に「今まで誰が清掃していたのか、分かっているのか」と問いかけるのです。以前はそんなことは分かっていると返答しているところですが、昨年の状況を目にしたとき、分かっていなかったと、ただ頭が下がる思いをしました。

 無明とは、ものごとを知らないことではありません。むしろ、私はよく知っているという思い込みが「無明」の原因ではないでしょうか。坊守の入院までは、「私は坊守のことはよく知っている」と考えていましたが、実際は分からないことだらけでした。いままで、家庭生活の中で坊守がどんな役割を果たしてくれていたのかも実際には知らなかったといえます。ゴミの出し方から、掃除、炊事など数えればきりがありません。

 私の目は物事をよく見ているように思っていましたが、実は自分という立場でしか見ていない目でありました。そのため、坊守の姿は見ていても、本当の「はたらき」が見えていなかったのです。声にしてもそうです。いつも話をしているから坊守の「声」は聞いていると思い込んでいますが、音声は聞いていても本当の声は聞こえていなかったと思います。

 人との出会いとはどのようなことでしょうか。「顔は見ているが、出会えていない」という言葉があります。どこまでも自分の都合で人を判断し、便利に利用はするが、その人を分かろうとしているでしょうか。妻のこと、夫のこと、子どものこと、親のことが分かっていない私であったとうなずけたときに、新しい関係が始まるのではないでしょうか。

令和5年6月のご挨拶

スク-ルガ-ド

 今年度4月から、小学校のスク-ルガ-ドをお引き受けしました。私は列の最後から子どもたちと一緒に、小学校までの片道1.3㎞を歩いています。子ども達の歩調に合わせ、約25分かけて歩きます。この登校班には小学校1年生も3人いて大変可愛く、登校班のそれぞれの子どもさんの成長される姿を応援しています。登校班の小学生が少ないため、すぐに名前を覚え、毎日「おはようございます」の挨拶とともに登校しています。約2ヶ月が過ぎましたが、全員が元気よく登校していることが喜びです。

 小学生と一緒に歩き始めて色々なことを知ることができました。まず第一に地域の小学生に対して多くの方々が関わり、見守って下さっていることです。登校時・下校時の横断歩道での見守り、交差点での見守り、PTAの方による交通安全週間の立ち番など、安全な登下校が地域の方々によって支えられています。

 第二に、小学生にとっては登校の時間は子ども同士がふれあう時間なのです。私も仲間に入れてもらい、「クイズ」を出し合ったり、「しりとりあそび」をしたり、「たしざん」をするなど楽しい時間です。子どもさんと歩いているのが楽しくなり、元気をもらっています。

 第3に、小学生の人数が大きく減少していることです。日本全体が少子化の問題を抱えていますが、南小学校でも同じ問題があります。人数だけが問題ではありませんが、一人ひとりがのびのびと大きく育ってほしいと感じます。  毎日、小学校まで歩くことによってよかったことは沢山ありますが、そのひとつは私自身の体重が減ったことです。ご門徒の方に出会うと、「少し痩せられましたか?」と尋ねられることが多くなりました。また、毎日ですから、規則正しい生活をするようになりました。朝は時計を見ながら、集合場所に遅れないようにと、少し緊張感を持って過ごしています。この一年間は「スク-ルガ-ド」として子どもさんとともに歩みを進めたいです。なにより「ご院さん」と呼ばれるより、「○○ちゃんのおじいちゃん」という新しい呼び名で子どもさんが呼んでくれることがうれしいです。

「花まつり」をおこないました。

   4月29日朝9時より 本堂において花まつりを行いました。当日は天候にも恵まれ、沢山の小学生の参加の下、住職のいのちのお話や若院によるゲ-ムで楽しい時間を持つことができました。写真は境内での宝探しの様子です。みんな夢中で、汗をかきました。

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春彼岸会法要をお勤めしました。

   3月21日(火)に、逮夜は午後2時より、初夜は午後7時30分よりお勤めいたしました。コロナ感染が比較的落ち着いている状況であり、多くのご門徒の皆さんにお参りいただきました。

今回の御法話は岡崎別院輪番の福田 大先生が「亡き人を案ずる私が、亡き人から案じられている」と題してお話下さいました。私たちは人を問うことによって生活しているが、実は如来から問われている存在である。また、日常生活の中で真宗の教えに出遇うとはどのようなことかをわかりやすく教えて頂きました。印象に残った先生の言葉は「悟るといふても/迷ふていることを/悟るのである(安田理深)」です。今頂いているご縁に、しっかりと向き合いたいです。

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わかきとき、仏法はたしなめ

『蓮如上人御一代記聞書』(第63通)には、『仏法者、もうされ候う。

 「わかきとき、仏法はたしなめ」と、候う。「としよれば、行歩(ぎょうぶ)もかなわず、ねむたくもあるなり。ただ、わかきとき、たしなめ」と、候う。』と記されています。 蓮如上人は、当時の門徒方に、若いときにこそ、仏法を聞きなさい」と教えられたのです。その理由は、年齢を重ねると足腰が弱り、すぐに眠たくなってしまうから」と仰っています。

 しかし、蓮如上人の本意は「若いときにたしなめ」という受け止めにあるのでしょう。それは、自分の年齢をどのように感じているかという問題もあると思います。私は、今年二月の誕生日で、満70歳を迎えることができ、家族が古希のお祝いをしてくれました。一昔前であれば、古希は長寿を祝う行事だったと思いますが、私は「まだまだ若い」と思っています。この「私はまだまだ若い、私はまだまだ元気だ」という気持ちが、「仏法はまだ早い」ということに繋がっているのではないでしょうか。

「仏法を聞く、聞法する」とはどのようなことでしょうか。法語のカレンダーには「日常生活の全体が大きな問いかけをもっている」とあります。自分の都合のよいことだけを求め、都合の悪いことから逃げているのが私たちではないでしょうか。 年齢を問わず、毎日の生活を通じて、本当に大切なことに出遇うということが願われているのでしょう。

 日常生活から何が問われているのかを確かめて下さい。私たちが「当たり前」と思っていることが、「本当に当たり前なのか」という問いかけが聞こえるはずです。その問いかけに出遇ったとき、当たり前と思っていた日常生活から大きな喜びを感じることができるのでしょう。

 池田勇諦先生は、「人間は生きている限り暇はありません。時間をこしらえなかったら、このような聞法会の場には来られません。家で寝転がっていては、ご縁には出遇えません。」と仰っています。

          (住職)

令和5年3月のご挨拶

「今」を安心して 生き生きと

 春。出会いに季節。年々「新しい出会い」も少なくなり、新鮮な感覚も失いがちなのですが、皆様はいかがでしょうか。しかし、これまでに得ることができた「あたり前のようなお出会い」がまた、どれ程尊いものであったかを改めて知らされ、深まりをもってくる日々でもあります。

 さて、私(坊守)は305日間の入院生活を 経て、3月2日に退院させて頂くことができました。「自宅養生・通院」という形で、しばらくは家でも入院同様の生活ではありますが、家族の元に帰ることができた喜びを実感しています。皆様からあたたかい励ましのお言葉やお心をかけて頂きました事に、感謝の手を合わせております。ありがとうございました。「人の心のあたたかさ」に、人はどれ程支えられて生きていることでしょうか。

 入院中は移植前の感染予防のために、健康な歯を10本も抜いてもらったり、様々な症状で苦しい時期がありました。ある時はうまく呼吸ができなくなり、「いち・・にい・・さん・・・」と数えながら息を吐いて寝ようとするのですが、続かない。そんな時、ひとつ置きにお念仏が出てきました。「いち・・南無阿弥陀仏・・・にい・・南無阿弥陀仏・・・145・・南無阿弥陀仏・・」あたりまで覚えているということは、その辺りで眠れたということでしょうか。阿弥陀様が私の苦しみを、ともに背負って、私の息となってくださったと思います。

 「吐く息、吸う息、有難く、一息一息がお念仏」という心を忘れぬようにしたいと思いました。

 また、この間、何人かの患者さんとのお出会いもあり、皆愛すべき存在となりました。同時に、これまでの事が反省されたり、恥ずかしくなったり、感謝の手が合わさったり・・・。またまた、それどころではなくなったり・・・。 人として、また動物(ただただ生き物)として生かされる時間を賜りました。どの時間も私にとって大切であったと思えます。

 主治医の先生から「退院」という言葉が発せられた時、夢のように感じられました。そして家族一人一人が大変喜んでくれました。しばらくは家族にもいろいろ迷惑をかけるばかりなのに。考えてみれば、以前はあたり前と思いながら家族と生活し、その中で様々な問題に日々あくせくしていたのに、戻れるというだけで、全てがOKという思いになっているのは不思議でありました。

 「退院が約束された身になった」その事そのものが、それほど救いの思いと感謝一杯になるのですね。

 「現生正定聚」ということは、「仏となることが約束されている身」だと知ることで救われ、「今」を安心して生き生きと生きられる すばらしい世界であります。しかも親鸞聖人は「御同朋・御同行」という「人との関わり」を教えて下さり、そこに「浄土」という世界観を開いていてくださる。このような「お念仏の眼差し」に出遇い続けることは本当に幸せです。ご縁あるお仲間とともに聞法生活の喜びを感じていきたいと思います。

即得寺坊守 川那邉睦美