投稿者「即得寺」のアーカイブ

平成30年5月のご挨拶

ありのままの「いのち」

 先日、一冊の本を手にする機会がありました。「お誕生日おめでとう、生まれてくれてありがとう」という題の本(真城義麿著)です。その中で、『私が人間に、そして「私」に生まれた意味はどこにあるのでしょうか。』という問いが投げかけられていました。私たちは、人間に生まれたことには違いありませんが、さらに重要なことは「自分」に生まれたということにあると思います。

 今から二千五百年前にインドの北部(現在のインドとネパールの国境付近)で、釈迦という人が生まれ、仏教を説かれました。釈迦に関する説話は数多く残っておりますが、特に誕生に関して印象に残る説話があります。釈迦は誕生の際、七歩あるいた後に、「天上天下唯我独尊」と声を発したと伝えられています。誕生直後の赤ちゃんが、歩き、言葉を発することは現実ではあり得ないことでしょう。しかし、この説話が私たちに伝えている意味は何であるかを考えるべきです。 「天上」とは、自分を取り巻く状況が、比較的自分に都合良く、思い通りに進んでいる状況のことを指します。逆に「天下」とは、なぜ自分だけがこんな辛い目に遭うのだろうかと思ってしまう、つまり思い通りに進まない状態を言います。「天上・天下」とは「どんな状況であっても、どんな境遇になっても」ということを指しています。

 「唯我」とは、存在しているどの一人も、かけがえのない人であることを表しています。誰とも代わることのできない存在なのです。私たち一人ひとりが、他の人と代わることのできない、代わりがきかない人間なのです。

 「独尊」の「独」は、何も加えなくとも「それ自身で」という意味です。成績や所得や地位が高いかどうかではなく、その人がその人として生きていることが尊いということです。身につけた技能や能力が尊いというのではありません。

 私たちは、自分のありのままの「いのち」の尊さに改めて目覚めるとともに、支え合い、尊び合う、互いの「いのち」に「ありがとう」と感謝し合いたいものです。

平成30年4月のご挨拶

「思い違い」

 境内のしだれ桜が盛りを過ぎ、こぼれるようにおじぎをしています。皆様の地域の桜はどうでしょうか。ニュ-スを聞いていますと、今年は全国的にずいぶんと早く桜の開花が始まったようです。

 さて、先日私が出かけようと勝手口に向かうと、孫2人が走って来て、靴を履こうとしているのです。4歳の外孫は自分で靴を履いて待っていますし、1歳11ヶ月の内孫は靴を持って自分の足を出して、「ブ-ブ-」と自動車に乗りたいと意思表示をするのです。たぶん孫たちは「お爺ちゃんが出かけそうだ」「一緒に連れて行ってもらえる!」と思い違いをしているのです。しかし私の外出目的は御門徒のお宅へのお参りです。残念ながら孫の思いを叶えることはできませんでした。こんなことは皆さんも経験されたことがあると思います。

 幼い子どもの期待や思い込みはかわいいものですが、私たち大人が思い込みをするとかなり厄介なことになります。「こうなるはずだ」「こうしてもらえるはずだ」と考えているにもかかわらず、自分が予想した結果と異なったときは、まず相手に非があるように感じてしまいます。「きっと感謝されるだろう」という私の思いで声を掛けた時に、相手の困った顔や迷惑そうな様子に出遇うと、自分の「思い違い」を思い知らされます。その時に問われているのは、「本当に相手のことを思っていたのかどうか」なのです。相手のことを分かったつもりになって、自分の都合を押しつけていたのではなかったか。その「思い違い」が結果となって、現れたのでしょう。法語カレンダ-には、『自分が偉いものと思うと 世の中が暗くなる』(曽我量深師)とあります。「思い違い」は常に私の「つもり」や「はず」が作り出すものです。「知っているつもり」「分かっているはず」の時こそ、頭を持ち上げることなく、しだれ桜のようにしなやかにありたいものです。

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春(彼岸会前)の大掃除をしました

3月18日 午前8時30分から午前11時まで大掃除を行いました。当日は総代さん、女性総代さん、他所の世話方さんにご協力いただき、境内、庭、本堂の大掃除を行いました。冬の期間、植木を守っていた雪吊りも、お役を終えて片付けていただきました。当日は、天候に恵まれ、春らしい暖かな日差しの中での作業となりました、参加していただきました皆さん、お疲れ様でした。おかげで大変きれいになりました。11時に参加者の皆さんと「恩徳讃」を唱和して大掃除を終わりました。

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平成30年3月のご挨拶

「時間」

 ようやく春の日差しを感じる季節となりました。皆様はいかがお過ごしでしょうか。まだまだ寒い日がありますのでご自愛下さい。

 さて、皆さんは時の流れをどのように感じておられますか。「歳を取るとだんだん時間の経つのが速くなる」という言葉を聞いたことがありますが皆さんはどうでしょうか。私は一週間が三日くらいに感じられる時があります。先日もテレビで、毎週日曜日の夜11時から放送されている「美の壺」(NHKの番組)を見て、「あれっ、もう一週間が過ぎたのかなぁ?」と首をひねってしまいました。振り返ってみると、私の手帳には毎日の予定が書き込まれており、その予定に追われて生活している有り様です。

     蓮如上人の御一代記聞書には「仏法には、世間のひまを闕(か)きてきくべし。世間のひまをあけて、法を聞くべきように思う事、あさましきことなり。仏法には、明日と云う事はあるまじき由の仰せに候う。」と示されています。このお言葉を前にすると、「時間というものは作るものである。時間を割いてでも仏法を聴聞せよ」という蓮如上人の声が聞こえてきます。

    毎日生活していると、時間が持っている意味がぼやけてきますが、間違いがないことは、私たちは限られた時間を過ごしているということです。生きる時間を(時間限定で)いただいているということです。「聞法」ということも時間を拵(こしら)えなかったら実現することはありません。本当に大事なことを、ついつい後回しにしがちなのが私ですが、かけがえのない時間を過ごしているのです。忙しいから、明日があるからといって、本当に大事なことを後回しにしている暇はないのでしょう。人と出遇い、仏法と出遇って、与えられた時間をもっと丁寧に生きたいものです。

平成30年2月のご挨拶

失敗

皆さんは失敗をされた経験はおありでしょうか。テレビの人気番組の「ドクターX」では米倉涼子さんが演じる「大門未知子」が颯爽と登場し、誰もが無理と考えている手術を引き受け、解決します。その時の名セリフが「私、失敗しないので。」なのです。いつも自信に満ちており、失敗を恐れず、正確な手術を行う姿が、視聴者を釘づけにするのだと思います。

 さて、「ドクターX」はどこまでもテレビのお話であり、現実はどうでしょうか。今日まで一度も失敗したことがない人なんておられないでしょうね。また、これからも、人生を重ねていく中で、自分の思いとは異なる結果を引き起こすことがあるのではないでしょうか。失敗とはどのようなことなのでしょう。辞書には『やりそこなうこと。目的を果たせないこと。予期した効果をあげられないこと。しくじり。 ↔ 成功 「試験に-する」 「 -の原因」 「 -談」 「彼を行かせたのは-だった」』と示されてあります。

 私の経験から明らかなことは、「失敗しようと思って、失敗する人はいない」ということです。一生懸命に努力して、よい結果を出したいと行動した結果、上手くいかなかったのが「失敗した」ということでしょう。失敗を重ねてきた私だからこそ分かることは、「成功」は喜びを与えてくれますが、「失敗」は自分を育ててくれるということです。確かに「こうなるはずだ」「上手くいくはずだ」と思いを巡らして行動し、突然「失敗」という事実を突きつけられると、うろたえ失敗の原因を探します。しかし失敗の原因は外にあるのでなく、都合のよいことばかりを求めて「上手く行くはずだ」と思っている自分に原因があったと気づかされるのです。法語カレンダーに『失敗はむしろ 自分を知るための 必要な材料である』と書かれています。「失敗」を通じて何を明らかにし、そこから何を学ぶかが大切だと思います。

 「成功」はときに人を傲慢にさせますが、逆に「失敗」は人を謙虚にするのではないでしょうか。何回失敗を繰り返しても「失敗」を認めようとしない私、必死で言い訳を考え責任転嫁している自分があぶり出されますが、「私、失敗しないので。」と言うより、「私、失敗してごめんなさい」と言える私になりたいものです

本堂も真っ白に雪化粧です。

 1月25日・26日の寒波で高島地方も大雪になりました。26日は早朝より総代さん5名の方が雪かきに出て下さり、本堂前の参道と駐車場を除雪して下さいました。しかし今回の雪は日中でも降り続いているため、せっかく開けて頂いた参道も雪で埋まっています。写真は雪化粧した本堂です。今回の寒波では日本全国を雪ですっぽり包んでしまったようです。皆さんの地域ではどうですか。雪で転倒などされないようにお気を付け下さい。

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1月のご挨拶

あけまして おめでとうございます

 皆様には昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。今年は10月に親鸞聖人750回御遠忌法要を勤めさせて頂きます。皆様には何かとお世話になりますが、どうぞよろしくお願い致します。今年一年、皆様にとりまして仏法との出遇いの年になることを念願しております。

   さて、私には有難いことに、二人の孫がおります。外孫は4歳になる男の子で、内孫は1歳7ヶ月の女の子です。日頃は1歳7ヶ月の孫と接する時間があり、大変楽しい時間を頂いております。孫の生活を見ておりますと、本当に毎日が楽しくて仕方がないというように感じられます。部屋にあるものは何でも興味を持ち、孫の手にかかればなんでも「おもちゃに変身」してしまいます。テレビが始まれば、一緒に歌い、踊り出します。まるでテレビの中に入ったように、番組と一体になっているのです。時間になれば食事をしますが、にこにこしながら、一口食べては「おいちーい」を連発し、みんなを和ませてくれています。水を飲んでも、お茶を飲んでも、「おいちーい」と言う声を聞くと、本当に新鮮だなぁと感じます。 1歳7ヶ月の孫はいろいろなことを64歳の私に教えてくれています。一番教えられることは、「一日一日を精一杯楽しんで生きる」ということでしょう。そして、「どんなささやかなことにも感動して生きる」ということでしょう。何を食べても、何を経験してもだんだん感動が乏しくなっている私が、にこにこ楽しみながら食事し、生活をすることの大切さを知らされるのです。一日一日の孫との時間を大切にしながら、私自身の乏しくなった心をリフレッシュする機会にしたいと思います。

 新しい 年を迎えました。今年度の年回表は元日に本堂に掲示いたします。今年度の年忌法要については次の通りです。

 1周忌・・・平成29年没   3回忌・・・平成28年没

 7回忌・・・平成24年没  13回忌・・・平成18年没

17回忌・・・平成14年没  25回忌・・・平成 6年没

33回忌・・・昭和61年没  50回忌・・・昭和44年没

100回忌・・・大正 8年没

 遠方の方で、亡き方の年忌についてご確認されたい方は、お命日と法名を伝えていただければ、お調べできます。また、年忌法要を勤められる場合は、御希望の期日を早めにお知らせ下されば日程を調整することが出来ます。今年は10月に御遠忌法要が勤まります関係で、あらかじめ行事が入っておりますのでご理解下さい。

報恩講が勤まりました

今年もご門徒の皆様のおかげにより、報恩講が感動のうちに勤まりました。ご講師の譲 西賢先生をお迎えし、「これからが これまでを決める」のテ-マで三日間お話を頂きました。ご法話で、無慚無愧の身が、如来様の本願によって、この身のままで許されて生かされる世界があることが知らされました。参詣の方の「幸せなことやなぁ、お参りできてよかったなぁ」という言葉が印象的でした。お斎の数々のごちそうも心がこもっていて、格別においしく皆さんの笑顔がいっぱいでした。音楽法要ではコ-ラスの皆さんの熱気ある歌声により、感動の一時となりました。


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報恩講の準備ができました

今年の報恩講は12月8日からお勤め致します。報恩講の準備のために、3日(日)には同朋会の会員さんにご参加いただき大掃除を行いました。4日(月)には光華法話会・十四日講の皆さんにより「おみがき」を実施して頂きました。

7日(木)の午後からは総代さんにより、幕を張り華束(けそく)を積んでいただきました。写真は準備の様子です。皆さんのおかげで今年も報恩講を迎えることができます。ありがとうございます。二日目の、コーラスのみなさんによる音楽法要の準備も整いました。

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平成29年12月のご挨拶

出遇い

今年のカレンダーも最後の1枚となりました。皆様はお風邪など召しておられませんか。我が家では住職が大風邪を引き、声も出にくいので、皆お互いにトーンを下げて会話をしております。そのため、テレビの音量も自ずと下げるようになり、これもまた、なかなかいいものです。日頃、いかに雑音に多くのものを奪われているか、ということに気づかされます。    

 さて、皆様はご本山の報恩講にはお参りされましたでしょうか。毎年 11月21日から28日までお勤まりになり、私どもも22日にお参りさせて頂きました。全国各地からのバスが並び、参拝の方々で境内まで埋め尽くされ、御影堂では、冷え込む中もお念仏の声が響き渡っておりました。親鸞聖人が11月28日にご生涯を閉じられてから、756年の歳月を経たわけですが、毎年、真宗寺院において勤まる報恩講は、聖人のみ教えに出遇い、私達の「出離生死」ということを明らかにする、一年で最も大切なものであることを、改めて実感させられます。私達真宗門徒が、お命日の月である「霜月」に「御」の字を付けて「お霜月」と呼んできたことからも、全国から京都のご本山へと多くの方々が足を運ばれた歴史がうかがえます。

 親鸞聖人は、「値遇」と呼ばれる法然上人とのお出遇いによってみ教えに出遇われましたが、私自身はどうなのかと、ふと思います。皆様はどうでしょうか。特別なお出遇いをどなたかとしておられるでしょうか。これまで私は、お二人のお出遇いは特別なので質が違うと思ってきましたが、もしかすると、もうとっくに出会っていたのではないか、せっかく出会っていたのに「出遇い」になるはずの数々の大切な場を上滑り(?)してきたのではないかと感じてしまいます。物心ついた頃から当たり前のように聖人のみ教えに触れ(ているつもりで)、熱心にお聴聞されるご門徒のお念仏を浴びてきました。それぞれの家庭のこと、仕事のこと、地域のことなど、気に掛かることが沢山ある中、お寺に足を運んでは「これこそが一大事」と、お聴聞にいそしんでこられた、その姿に出遇ってきてはいなかったのでしょうか。本堂や境内のお掃除、お磨き、お斎作り、聞法会のお世話係、と労を惜しまず尽くされた方々、お念仏を喜んでお浄土に還られた方々に出遇ってきたのではなかったか、と感じるのです。思い起こせば14年前に還浄した前住職の言葉が甦ります。「今年もありがたいことに報恩講に出遇わせてもろた」その重みを今、現住職とともにかみしめています。 

 ご案内しましたように即得寺では、12月8日から3日間、報恩講が勤まりますので、ご遠方の方も是非お出遇いください。 (坊守)