「新元号」
4月1日の午前11時30分過ぎに新元号が発表されました。当日のテレビは朝から新元号の報道一色で、私も今か今かと発表を待ちました。テレビで発表を聞いたときは、ピンときませんでしたが、「令和」(れいわ)の文字を何回も目にすると慣れてきて、発表から三日目にして違和感がなくなりました。そういえば、「平成」に変わった時も、今まで呼び慣れていた「昭和」でなくなったことへの違和感を覚えたものでした。
さて、元号が新しくなることで、何か新しい変化が起こることを誰もが期待します。でも実際には、元号が変わったからといって世の中が変わるわけではありません。新しい元号が決まり、それを口にしたときに、新鮮な感じを持つ自分がいるのでしょう。それは丁度、大晦日が終わり元旦を迎えたときと似ていると感じます。新しい年を迎えたといっても、昨日と大きな変化はないのですが、時間の経過の中に非日常を感じるのでしょう。その意味では、30年ぶりの元号改正は時代の流れを感じさせる出来事であり、同時に私たちが心機一転のチャンスを得る出来事かも知れません。
即得寺では、毎月一日は「おついたち」と呼んで、早朝より本堂にお参りされる習慣があります。毎月お参りされる方は昔ほど多くはありませんが、毎月の一日は、住職として緊張し、本堂の灯明を点灯しています。この「おついたち参り」も新しい月を迎えられたことへの感謝と、心新たに過ごしたいという思いからお参りされていると感じます。
東井義雄先生の詩を紹介します。
「目がさめてみたら」
目がさめてみたら 生きていた 死なずに 生きていた
生きるための一切の努力をなげすてて 眠りこけていたわたしであったのに
目がさめてみたら 生きていた 劫初以来 一度もなかった
まっさらな朝のどまんなかに 生きていた
東井義雄先生の詩を読んでいると、新しい一日、新しい月、新しい時代を賜るということは、感動することだと教えられます。