今月のご挨拶」カテゴリーアーカイブ

平成28年2月のご挨拶

天気予報では今年の冬は暖冬という予想でしたが、先日1月末に寒波が到来し日本列島に大雪をもたらしました。皆さんのお住まいの地域はどうでしたか。北海道や北陸では雪は珍しくありませんが、今回は観測史上初となる沖縄本島でもみぞれが降ったということです。テレビに映し出された沖縄の方が、雪に感激し喜んでいる様子が映し出されていました。私は今年は雪が降らないのかと思っていましたが、ついに降るべきものが降ったという気持ちです。早速、25日の朝に新しく就任いただいた総代さんがスコップ持参で雪開けをして下さいました。一人ではなかなかはかどらない雪開けも、総代さんのお陰で10分足らずできれいに除雪していただきました。写真は今回の境内の様子です。現在は溶けて雪はありません。

 今回の寒波については、早くから天気予報で大雪注意報や大雪警報が出され、心の準備は十分でした。そのため、あれだけテレビで放送されていた割には、たいしたことなかったと感じるのです。実際に朝起きてみて境内を眺めると20㎝程度の雪が積もっていたのですが、少なく感じまる自分がいるのです。

 また雪と聞くと、ついつい邪魔もの扱いをしてしまいます。ニュースでも各地で雪のために混乱している様子が報道されています。厄介ものの雪というイメージが強いのですが、自然のサイクルが成り立つためには雪は欠かせないものだと思います。

 雪だけでなく様々なものを、私たちは自分の都合で厄介もの扱いをしているのではないでしょうか。厄介ものとは自分の考えに合わず、手数のかかること、面倒なこと、迷惑なことを言います。しかし、雪国では雪を厄介ものにせず、雪と共存し雪を利用する生活があります。厄介のものだと思っている雪から、私たちは様々な恩恵を受けていることを知ることも大切なことではないでしょうか。

 私たちにどこまでも寄り添う如来の本願は、「選ばず、嫌わず、見捨てず」という心です。一方、私たちは、何でも自分に都合の良いように「選び、嫌い、見捨てて」生きていこうとしているのです。親鸞聖人の教えは、如来の本願に出遇って、そんな自分のあり様が問われる教えです。「選び、嫌い、見捨てている」生き方では、せっかくの雪を楽しめず、冬を感じることができないのでしょう。私の本音は、「もうこれぐらいで雪は十分」という思いがありますが、雪は私の思いとは関係が無く、自然の法則に従って降っていることを知らされます。

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平成28年1月のご挨拶

あけましておめでとうございます。昨年は皆様には何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 昨年は皆様にとってどのような一年であったのでしょう。私にとっては、平成二十七年という年は生涯忘れられない年になりました。三月には若院を迎え、入寺法要を勤めることができました。また八月には高島秋講の会所として、五日間の法要を勤めさせていただきました。たまたまご縁があってこれらの出来事に出遇うことができたのですが、それらの出来事をどのように受け取るかが問われていると感じます。偶然と受け取るか、必然として頷くかは、私の「生き方」において根本的な違いがあるのです。皆様にとっては、様々な出来事にお遇いになった一年であったと思われます。良い事もあり、大変な事もあり、楽しい事もあり、苦しい事もありの一年であったのでしょう。その全ての出来事が実は必然の出遇いであったのです。必然であると頷いたときに、出来事に対しての私の「生き方」が定まるとおもいます。

 さて、「蓮如上人御一代記聞書」という書物があり、その第一条には弟子の道徳(73歳)に蓮如上人(79歳)がお正月の挨拶をする様子が記されています。明応二年(1493年)の正月に京都の勧修寺村の道徳が、山科本願寺へ年頭の御礼に参詣をしました。老体の道徳を前にして、蓮如上人は唐突に歳を尋ねて無常を思い知らせ、念仏を申しているかを尋ねられたのです。年齢を重ねるということは、若いときには感じられなかった事実に気づき、自分の人生の上で本当に尊い事「本尊」に出遇う事であるのです。弟子の道徳は、毎日念仏の生活をされていたのですが、73歳という年を迎えるにあたり改めて「念仏を申す身となっているか」を問われたのです。南無阿弥陀仏と称えるという事は、偶然の日暮らしが、必然の日暮らしに転換され、損得を超えて「本当に尊いこと」に出遇うことです。

 写真は即得寺の本堂です。遠方の方は足をお運びいただくことは出来ないかもしれませんが、「お内仏」で手を合わせ念仏の声とともに新年をお迎え下さい。新年を迎えるということは修正会の案内にありますように、人生の方向を定め、軌道修正をすることが問われているのです。

 今年一年、皆様に取りまして仏法との出遇いの年になることを念願しております。

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 平成28年度の年回表は元日に本堂に掲示いたします。今年度の年忌法要については次の通りです。

  1周忌・・・平成27年没   3回忌・・・平成26年没

  7回忌・・・平成22年没   13回忌・・・平成16年没

  17回忌・・・平成12年没  25回忌・・・平成4年没

  33回忌・・・昭和59年没  50回忌・・・昭和42年没

  100回忌・・・大正6年没

 遠方の方で、亡き方の年忌についてご確認されたい方は、お命日と法名を伝えていただければ、お調べできます。また、年忌法要を勤められる場合は、御希望の期日を早めにお知らせ下されば日程を調整することが出来ます。

平成27年12月のご挨拶

12月に入り、報恩講をお迎えする時期となり、私は時間に追われる生活をしておりました。今年度の報恩講は、5日に始まり7日の御満座をもって無事にお勤めすることが出来ました。総代さんはじめ御門徒の皆様のご協力に、改めて感謝を申し上げます。

 「報恩講」とは、日頃の私自身のあり方を見直す機会です。本堂に身を置き、如来様の前に座らせてもらうと、自分自身が映し出されるのです。どこまでも自己を中心とし、つまらないことにこだわり(しかしこだわっている時はつまらないことだとは分からない)自分の我欲を振り回しているのです。なんと「お粗末な自分であるか」が知らされるのです。私たちは、自分の思い通りになって「当たり前」と考えて生活をしています。そのため、「思い通り」にならないことが起こると、そのことを受け入れることができず、不安になったり、怒りをぶちまけたりするのです。

 私事ですが11月末から風邪を引き喉の調子が悪く、11月29日には声が出なくなってしまいました。ある方の「お通夜」のお勤めに行きましたが、「正信偈」を読もうとしますが「声」が出ません。本当に辛い思いをしました。ありがたかったのは、通夜に参列された方々が一生懸命に「正信偈」を読んで下さり、声の出ない私を助けて下さったことです。その後、声も徐々に出るようになり、報恩講を勤めることができました。今回の「報恩講」を通じて感じたことは、「当たり前」と感じていることが、実は「当たり前」ではなかったということです。特に私は、「声」が出て「当たり前」と考えていました。しかし今回、声が出ないという事態に見舞われ、辛い思いをしたと同時に、声が出ることの有り難さを身をもって教えられました。年に一度の「報恩講」は、「当たり前でなかった」事実に気づかせていただく機縁なのです。気づいたときに、私自身が初めて「感謝」という心を頂けるようなるに思うのです。

 お寺では毎日(土日以外)朝6時30分に大鐘を撞いています。最近では東の空が少し明るくなっています。しーんと冷えた空気の中に、大鐘の音が「ゴーン」と鳴り響いています。この大鐘の音を耳を澄まして聞いて下さい。「ゴーン」「ご~ん」「ごぉ~ん」「ごおーん」「御~恩」「御恩」と響いているのですね。

 大鐘は、「御恩」に気づけない私に大鐘の響きとなって問いかけてくれています。

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平成27年11月のご挨拶

立冬を迎えましたが暖かい日が続いています。皆様におかれましては、御法悦の毎日をお過ごしのことと存じます。

 皆さんの所に同朋新聞等を毎月送付させて頂き、この送付文を書いていると、季節の移り変わりを実感できるようになりました。この文はワープロで書いているため、先回の文に上書きして作成しています。そのため、先回の文章を読みながら、今の季節への移り変わりを実感しています。一ヶ月という時間が経過し、その時間だけ確実に季節が進んでいるんだなぁと感じるのです。また、その時間を自分自身がどのように過ごしたかが改めて問われるのです。私の場合は、「本当に何もしないうちに、また一ヶ月が過ぎてしまった」と感じています。その反面「お陰さまで、この一ヶ月を過ごさせて頂いた」ことに気づかせて頂いているのです。私たちは物事に追われ、その結果「あれも出来ていない。これも出来ていない」という毎日を送ることになります。しかし、この一月何もしなかったのかと問われると、ずいぶんいろいろなことが出来ているものです。仏法に出遇うと、出来ていないことを歎くよりは、出来たことを喜ぶべきなのです。振り返ってみると、一ヶ月前には出来ていなかったことが、時の経過ととも願いにつつまれ、いろいろと成し遂げられているのです。何よりも、この私自身が、まったく新しい一ヶ月を生かさせて頂けたという事実に気づくのです。

 先日、ホームセンターに買い物に行くと店頭にきれいな花が並んでいました。私は花の名前をよく知らないのですが、「プリムラ・ポリアンサ」と書いてあり、六株購入しプランターに植えました。これから花の少ない季節に向かうのでちょうど良いと思って、玄関に飾りました。

 阿弥陀経には「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉があります。どの花も精一杯自分の色を咲かせているように、私たちも、年齢や性別、顔かたちは異なりますが、自分の色を精一杯咲かせたいものです。他と比較せず、自分という色を精一杯咲かせたときが、自分自身の一番輝くときだと感じました。

 先月は、この「プリムラ・ポリアンサ」に出会え、植え付けを行えたことが喜びです。このお花とともに私自身も育ちたいものです。

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平成27年10月のご挨拶

朝夕、随分と気温が下がり、秋の深まりを日一日と感じる季節となりました。皆様におかれましては、御法悦の毎日をお過ごしのことと存じます。私は高島秋講の余韻を味わいながら、改めてお念仏の喜びをかみしめています。秋講から早一ヶ月が過ぎました。あの暑さはいったいどこへ行ってしまったのかと思い、秋風を感じています。

 秋といえば、文化の秋、行楽の秋、スポーツの秋など様々な秋がありますが、皆さんはどんな秋を楽しんでおられますか。私は読書の秋を楽しみたいです。先日、同朋新聞で紹介されていた「地獄と極楽」(宮城顗 著・東本願寺出版)の記事が目にとまり、本山へ行く用事がありましたので購入しました。

 地獄・極楽という言葉は、源信僧都(942年~1017年)が「往生要集」を著されることにより、世間一般の言葉となったということです。源氏物語などにも地獄・極楽という考えが出てくるのは、「往生要集」の影響だそうです。

 この本は、地獄を突き詰めると「自己のあり方」が見えてくる、と示して下さっています。私たちは罪を作っていても罪の自覚を持たず、自分だけは「善人」であると考えています。地獄には「八大地獄」があり、その一番最初の地獄が「等活地獄」といい、殺生をした者が堕ちる地獄であると示されています。私たちは「殺生」など無関係であると思い込んでいますが、どんな人も毎日の食事を通じて「殺生」を繰り返しているのです。しかし、自分は殺生という「罪」を作り続けているという自覚がないのです。等活地獄では、地獄の鬼(獄卒ごくそつ)が罪人を頭から順に切り刻み、また生き返らせて切り刻むことを繰り返し、終わることがないと説明されています。この本には「私たちが生活の中で奪い続けてきたものが、まったくかけがいのない生命であったことを思い知らす相が、等活ということである」と示されています。

 親鸞聖人は、常に自己の「罪悪」と向き合い、「地獄」を自覚されていたと感じます。歎異抄には親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」というお言葉として私たちに伝えてくださっています。自分のどうしようもない「罪悪」を自覚すると、そんな私を支え続けている「阿弥陀様」の働きを感じずにはおれないのです。

 法語には

  『仏は人間の苦を救うのではない。苦悩の人間を救うのである。』

とあります。今、この法語に頷くばかりです。

平成27年9月のご挨拶

高島秋講は8月27日に開筵し、31日に満講を迎え無事に終了することができました。期間中には多くの方々に参詣を賜り感謝とともに、大きな感動をいただきました。また、当寺の総代さんをはじめ役員の方々には、準備から後片付けに至るまで献身的に働いて下さり、ただただ頭が下がるばかりです。改めて役員の皆様方に感謝を申し上げます。

 いま、高島秋講を終えて、会所住職として責任を果たすことができた安堵感と、得がたいご縁に遇わせていただけた喜びと、深い感動をいただいております。延べ約2300人がお参り下さり、本堂いっぱいのお参りに圧倒され驚いておりました。たくさんの僧侶・門徒・寺族の方々が足を運んで下さったのです。それは、御門徒さん同士のつながり、住職さん同士のつながり、お寺と門徒さんとのつながりが、今回の高島秋講にご縁を結んでいただいたと感じています。高島秋講を受け継いで下さった先人の願いや、その願いを受け止め足を運んで下さった参詣者の皆様に頭が下がるのです。毎日の生活で損得ばかりを振り回して生きている私が、損得を超えて仏法聴聞される参詣者のお姿に触れると、ただ「仏法不思議」といただく以外にないのです。参詣された一人ひとりを動かす「はたらき」、役員さんを始め一人ひとりがお役をいただく「はたらき」を考えると、「仏法不思議」と思うのです。そして、期間中の暑い日、大雨の日がありましたが、その中を参詣して下さったことに、ただただ頭が下がるのです。「尊い」ということがはじめて分かったのです。法語には次のことばがあります。

  拝まれる人は尊いが、拝む人はなお尊い

 写真は境内のサルスベリの花です。秋講の期間中、きれいな花を咲かせてくれました。長期間花をつけるために「百日紅」とも呼ばれています。毎年このサルスベリが花をつける頃、高島市内のお寺で高島秋講が開催されています。来年のサルスベリの花を楽しみに待つと同時に、高島秋講のご縁をいただき、御門徒の方々と共に、仏法聴聞の花を咲かせたいものです。
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平成27年8月のご挨拶

いよいよ高島秋講まで一ヶ月をきり、何か気持ちばかりが落ち着かない毎日です。天候についても、連日の猛暑で体のやり場を求め、もてあましている状況です。皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

 お寺では、7月28日に和讃講(子ども会)の仕上げ(終了日)を迎え、たくさんの子どもたちと昼食を共にしました。その様子はHPに掲載しましたとおり、みんなで「食前・食後のことば」を唱和し食事をいただきました。食ということは我々によって大変大切なことであり、食を通じて「いのち」を学ぶことができると考えます。 

 今回の写真は何の花だか分かりますか。これは、畑で栽培している「オクラ」の花です。よくみると、小さい「オクラ」が実をつけています。今年の春から、少し時間ができましたので、野菜作りに挑戦しています。この「オクラ」はホームセンターで苗を購入したのものです。栽培すると新しい発見がたくさんあります。まず、「オクラの実」は天に向かって実をつけるということです。スーパーで売っているときはどんな木に実をつけているのか。どんな花が咲くかなんて、教えてくれません。

 畑で栽培すると、野菜の成長について改めて 教えられるのです。また、どんな野菜でも、花を咲かせ実をつけるということです。畑で栽培していると、「この野菜は俺が作ったんだぞー」という思いが湧いてきますが、収穫だけでなく、一つ一つの野菜の変化を目にすると、「いのちの不思議」を感じるのです。

 相田みつをさんの詩集にこんなことが書いてありました。

  自己顕示

   『この花はおれが 咲かせたんだ』

  土の中の肥料は そんな自己顕示をしない

  おれのような

 食材として野菜をいただくときも、栽培して実った野菜を収穫するときも、野菜の方が私たちに「手を合わせる心を持っていますか。」と問いかけてくれています。

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平成27年7月のご挨拶

 七月を迎え、住職の私としては、いよいよ高島秋講が近づいてきたなぁと感じております。さて、この新旭町は豊かな水の恵みで有名です。皆さんも「かばた」といえば、新旭町のことを思い出されるでしょう。現在は針江地区の取り組みが有名ですが、藁園や深溝地区でも古くからどの家庭でも「かばた」がありました。

 先日、即得寺の北側の庭を高島市鴨の中村石材店さんにお願いして、改修をしました。飛び石を配置して頂き、水鉢を設置して頂きました。石屋さんの丁寧な仕事に頭が下がります。この水鉢は蓮の葉をイメージして彫って下さったもので水に濡れると緑色に変色します。水の豊かな藁園で、この水も地下水であり、自然に湧き上がっています。

 水は、途切れることなく流れ続け、私たち「いのち」あるものには無くてはならないものです。しかしその有り難さを普段はあまり感じないのです。「泉のごとく仏法が湧き出る」という言葉があります。毎日たくさんの水を使用していますがなかなか有り難さが分からないのが私たちです。

 水は様々に形を変えますが、親鸞聖人は「高僧和讃・曇鸞和讃」で次のように示されています。

  無碍光の利益より

    威徳広大の信をえて

    かならず煩悩のこおりとけ

    すなわち菩提のみずとなる

   罪障功徳の体となる

    こおりとみずのごとくにて

    こおりおおきにみずおおし

    さわりおおきに徳おおし

普段忘れている水の働きを通じて、仏法の働きに出遇うことが願われます。

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平成27年6月のご挨拶

 六月に入り、雨の日が多くなりました。天気予報を聞いていると、各地で梅雨入りとなっています。年々気候が変化し、異常に暑い日が増え、また雨の降り方も集中豪雨化していると感じます。以前と比較すると、だんだんと日本の四季が感じられなくなっているような気がします。
 お寺では、いよいよ「高島秋講」が近づいて参りました。山門前には、高島秋講の開催を知らせる「高札」を立てました。この高札が「いよいよですね。しっかりお迎えしてください」と私たちに語ってくれています。写真に撮りましたので、ご覧ください。昨年、高塀も修復していただきましたので、きれいになりました。

 高島秋講がはじまった時代(江戸時代)では、情報伝達手段としては「高札」を立てることが重要であったのです。高札を立てるということは、公的に事業や出来事を地域社会に周知し、そのことに責任を持つという意味がありました。私は、伝統ある高島秋講については、先人が行ってこられたとおり、「高札」を立てることを大切にしたいと考えます。
 さて、情報化社会の今日では、様々な情報伝達ができます。即得寺も積極的に情報発信し、ご縁のある方と情報を共有することが大切であると感じています。 このたび、若院と若院のお兄様の協力を得て、「即得寺のホ-ムペ-ジ」ができました。できるかぎり皆さんに即得寺をより身近に感じていただけるよう、内容を更新したいと考えています。現代における「高札」はホ-ムペ-ジだと考えます。お寺として、何を発信し、また情報をどのように共有するかが問われています。親鸞聖人や蓮如上人の時代には「お手紙」で教えを伝えられています。皆様とのお住まいの遠近は問わず、共に親鸞聖人の教えに出遇えるご縁としたいものです。

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平成26年10月のご挨拶

ようやく秋らしい季節となりました。皆様には慈光のもと、御健勝にて仏恩報謝の日々をお過ごしのこととお慶び申し上げます。
 さて、テレビの報道を見ておりますと、日に日に災害の発生することの不安と、災害で「尊い命」が失われることの痛みを感じます。ここ数年では、東日本大震災、福知山市での水害、広島市の土石流災害、今回の御岳山の火山噴火と毎月のように災害が起こっております。災害に遭われた方々に対しまして、心からお見舞いを申し上げます。
 この災害を通じて、私たち人間は自然の中で生活をしていることを忘れてはしないかという警告であると感じるのです。私たちはどこまでも、人間の都合で地球環境を変化させ、人間にとっての利益や便利さだけを追求しているのでしょう。自然の力の前では、人間はあまりに無力であります。私たちが何を目指して生活をすればいいのかを教えてくれているように感じます。
 また、この災害を通じて、多くの警察や消防・自衛隊の方々が捜索活動をしてくださっていることに頭が下がるのです。自分の命の危険を感じながら、賢明に捜索をされている姿を見ると、人を思いやる心、人々を支え合うことの尊さという、人間がもっている大切な心を教えられるのです。
 今回の「寺報 無量寿」はカラー版で発行いたしました。事務機器メーカーのサービスで印刷をしていただきました。楽しんで読んでいただければ幸いです。
 永代経法要の案内も同封いたしました。亡き方を偲ばせていただき、こころ静かに手を合わさせていただきたいです。是非、お寺にもお参り下さいますようお願いします。お待ちしております。