『蓮如上人御一代記聞書』(第63通)には、『仏法者、もうされ候う。
「わかきとき、仏法はたしなめ」と、候う。「としよれば、行歩(ぎょうぶ)もかなわず、ねむたくもあるなり。ただ、わかきとき、たしなめ」と、候う。』と記されています。 蓮如上人は、当時の門徒方に、若いときにこそ、仏法を聞きなさい」と教えられたのです。その理由は、年齢を重ねると足腰が弱り、すぐに眠たくなってしまうから」と仰っています。
しかし、蓮如上人の本意は「若いときにたしなめ」という受け止めにあるのでしょう。それは、自分の年齢をどのように感じているかという問題もあると思います。私は、今年二月の誕生日で、満70歳を迎えることができ、家族が古希のお祝いをしてくれました。一昔前であれば、古希は長寿を祝う行事だったと思いますが、私は「まだまだ若い」と思っています。この「私はまだまだ若い、私はまだまだ元気だ」という気持ちが、「仏法はまだ早い」ということに繋がっているのではないでしょうか。
「仏法を聞く、聞法する」とはどのようなことでしょうか。法語のカレンダーには「日常生活の全体が大きな問いかけをもっている」とあります。自分の都合のよいことだけを求め、都合の悪いことから逃げているのが私たちではないでしょうか。 年齢を問わず、毎日の生活を通じて、本当に大切なことに出遇うということが願われているのでしょう。
日常生活から何が問われているのかを確かめて下さい。私たちが「当たり前」と思っていることが、「本当に当たり前なのか」という問いかけが聞こえるはずです。その問いかけに出遇ったとき、当たり前と思っていた日常生活から大きな喜びを感じることができるのでしょう。
池田勇諦先生は、「人間は生きている限り暇はありません。時間をこしらえなかったら、このような聞法会の場には来られません。家で寝転がっていては、ご縁には出遇えません。」と仰っています。
(住職)