お知らせ&即得寺だより」カテゴリーアーカイブ

平成29年8月のご挨拶

「父の御命日を迎えて」

 

昨年の8月に私の実父が還浄し、一年が過ぎました。振り返ってみるともう一年がたったんだなぁと時の速さに驚いています。御命日の朝、大鐘を撞いた後で、坊守とともに本堂に座り手を合わせました。父が亡くなる半年前からは一日おきに坊守がス-プを作り、水筒に詰めてマキノまで運んでいたのが思い出されます。時には喜んで食べてくれたこと、時には熱が出てしんどそうな状態だったこと。父の状態の変化に、喜んだり不安になったりの私たちでした。一年という時間の経過はいろいろな場面での父との出会いを感じさせられるものでした。特に住職として用務を行うときや、家族との会話の中にも父のはたらきを感じるのです。いつも父はこんな時にはどうしただろうと思うとともに、父が何を大切にしていたかを知らされるのです。そして、私の考えの行き着く先は常に、父は偉大であったということと同時に、父は優しかったということです。

 伊藤元先生の「ご法事を縁として」という本(東本願寺出版)には(「人はどんな力をもっているのか」や「どういう行いをしたのか」ということが重要だと思うかもしれませんが、もっと大事なことは、「どういう存在であったか」ということが大きいと思うのです。)とあります。亡き人の人柄も大切な思い出ですが、亡き人が自分にとってどのような存在であるのかということが改めて問われるのです。常に自分のことを願い続けてくれていた父であったということに頷けるのです。

 今年の「和讃講」で恩徳讃を歌ったときに、小学2年生の子どもさんから次のような質問を受けました。「ねぇ 先生、骨を砕きても、謝すべし。ってどういうことですか」と尋ねられたのです。そのときは小学校2年生に分かるようにどう説明すべきかを考え、とっさに答えることができませんでした。改めて恩徳讃に触れると、「身を粉にしても・・・」「骨を砕きても・・・」という言葉に気づくのです。出遇ったことの大きさや尊さに気づく。その人の存在の大きさに出遇うということが、身を捨ててでも報ずることであると知らされたのです。

和讃講を行いました。

今年度の和讃講は7月22日(土)から始めました。7月21日(金)から小学校は夏休みに入りましたが、住職・坊守の所用のため、22日より始めました。毎年は土曜日・日曜日は「和讃講」はお休みにしていますので、本当に子どもたちが集まってくれるか坊守とともに、心配していました。

 7時30分を過ぎた頃に、ひとり、ふたりと、子どもさんが集まってきて、和讃講を始めることができました。

 まずは、仏さまとの「ごあいさつ」です。住職と一緒に声をそろえて「なんまんだぶつ」とお念仏を称え、「誓いのことば」を唱和します。正信偈の練習では、赤本を持って、しっかり声を出します。どの子も一生懸命にお勤めができました。

 なんと言ってもお楽しみはゲ-ムの時間です。みんなが気に入ってくれたのは、「負けるじゃんけん」です。ややこしいですが、負けた方が勝ちということです。いつもは相手に勝とうとしますから、なかなか負けられないのです。日ごろの勝とうとする心が邪魔になるのです。子どもたちには「負けるじゃんけん」は気に入ってもらったようです。

 即得寺の「和讃講」の目玉は、みんなで夏の宿題に取り組むことです。学習の時間になると机に向かい真剣に鉛筆を走らせています。

 写真は和讃講の様子です。本堂いっぱいに子どもたちの声が響いていました。7月31日に昼食会を行い、準備をして下さった法話会の皆さんや総代の皆さんと楽しいひとときが持てました。

DSC04746

DSC04738

DSC04723

平成29年7月のご挨拶

7月を迎え皆様はいかがお過ごしですか。例年この時期になると全国各地で集中豪雨のニュ-スが飛び込んできます。身近なところで災害が発生しています。十分な備えも必要ですが、被害を最小にするためには正確な情報の入手と早めの対応が大切であると考えます。どうぞお気を付けて下さい。

 さて、私は学校を4年前に退職してからは、少しばかり時間的余裕ができたため、ほんの真似事ではありますが畑での野菜作りに挑戦しています。なかなか上手くいかないのですが、御門徒の先輩に尋ねたり、本で調べたりしながら栽培しています。タマネギ栽培にも挑戦していますが、昨年は玉が大きくならず、失敗しました。理由は追肥が不十分であったためです。今年度こそはと、寒い12月や2月に肥料を施し、成長を見守りました。お陰様で病気にもならず、5月末に立派なタマネギを収穫することができました。

 収穫をすると、料理をしたくなるもので、ネットでタマネギのレシピを検索し、数あるためタマネギ料理の中から「オニオンス-プ」ならできそうだと考え、早速料理に取りかかりました。タマネギを切る時の目に感じる刺激も楽しみながら、フライパンで飴色になるまで炒め、コンソメス-プでコトコトと煮ればできあがりです。何ともいえない新タマネギの甘みがあり、とろみが口一杯にひろがりました。

 家族からの評価も上々で、「お野菜を植えて育てる苦労から始まったオニオンス-プだもん、感動やね」の一言にうれしくなりました。考えてみれば、先祖から頂いた土地に、タマネギを栽培し、収穫し、料理をして、一緒に食べてくれる家族がいるなんてこれ以上の贅沢はありません。

 宮城先生の本には「幸せとは因を知ることである。我々はすぐに果を求めるが、どれだけものをもらっても、当たり前という思いしか起こらないところには、幸せはないのでしょう。つまり、ほんとうに心から感謝せずにおれない、そういう事実に会ったとき、人間はいちばん幸せを感じるということなのです。」と示されています。

 今回、ささやかなオニオンス-プを通じて、大きな幸せ出遇うことができました。いつでも南無阿弥陀仏と称えて、食事を頂きたいです。

平成29年6月のご挨拶

昨年の12月にテレビの園芸番組で、バラの育て方について詳しく説明をしていました。その時は「バラの花はきれいだなぁ。」ぐらいに思っていたのですが、だんだん興味が湧いてきて、自分でも育てられるかも知れないと思い始めました。そこでインタ-ネットで「バラの苗木」という言葉を打ち込んで検索すると、沢山の販売店のHPが見つかり、いろいろな苗木が販売されていることが分かりました。

 早速、苗木を注文し取り寄せました。2月の終わりに届いたのですが、外は大雪のため、室内で管理することにしました。ワクワク感と同時に「こんなに放っておいてよいのかなぁ」という不安がおこり、今度はインタ-ネットで「バラの栽培の本」を注文しました。その本を頼りに、冬の剪定や水、肥料の管理について理解し、一回り大きい鉢への植え替えを行い、3月からは日の当たる外で育てました。家族中から「この忙しさの中で、本当にお世話ができるの?」という冷ややかな声援を受けていましたが、お陰で下の写真のように、沢山の花が咲きました。

 バラの栽培を通じて教えられたことは、一日一日の成長の中に「いのち」があるということです。そして、それぞれの苗木が精一杯に花を咲かせようとするということです。また同じバラでも一本一本それぞれ異なり、同じでは無いのですね。(バラバラでいっしょ。) 今振り返って考えると、バラを育てていた私が、バラから多くのことを教えられ、楽しさをもらったという感じです。

 是非皆さんも何かを育ててみてはいかがでしょうか。きっと新しい発見があるはずです。

DSC04665

皆さんと一緒に大掃除をしました

5月27日(日)に大掃除をしました。午前8時30分に境内に集まって頂いた総代さん、女性総代さん、小池の御門徒の皆さんへの御挨拶で掃除に取りかかって頂きました。境内や庭の落ち葉、除草を丁寧にして頂きました。女性総代さんのお茶で一息ついた後は、本堂の掃除です。畳拭きは男の方に、縁や階段は女の方にと分担し互いに力を合わせてきれいにして頂きました。最後に記念写真を一枚!皆さんいい顔です。お疲れ様でした。

DSC04691

DSC04693

DSC04695

平成29年5月のご挨拶

ありのままの「いのち」

先日、一冊の本を手にする機会がありました。「お誕生日おめでとう、生まれてくれてありがとう」という題の本(真城義麿著)です。その中で、『私が人間に、そして「私」に生まれた意味はどこにあるのでしょうか。』という問いが投げかけられていました。私たちは、人間に生まれたことには違いありませんが、さらに重要なことは「自分」に生まれたということにあると思います。

 今から二千五百年前にインドの北部(現在のインドとネパールの国境付近)で、お釈迦様が生まれられ、仏教を説かれました。お釈迦様に関する説話は数多く残っておりますが、特に誕生に関して印象に残る説話があります。お釈迦様は誕生の際、七歩あるいた後に、「天上天下唯我独尊」と声を発したと伝えられています。誕生直後の赤ちゃんが、歩き、言葉を発することは現実ではあり得ないことでしょう。しかし、この説話が私たちに伝えている意味は何であるかを考えるべきです。

 「天上」とは、自分を取り巻く状況が、比較的自分に都合良く、思い通りに進んでいる状況のことを指します。逆に「天下」とは、なぜ自分だけがこんな辛い目に遭うのだろうかと思ってしまう、つまり思い通りに進まない状態を言います。「天上・天下」とは「どんな状況であっても、どんな境遇になっても」ということを指しています。

 「唯我」とは、存在しているどの一人も、かけがえのない人であることを表しています。誰とも代わることのできない存在なのです。私たち一人ひとりが、他の人と代わることのできない、代わりがきかない人間なのです。

 「独尊」の「独」は、何も加えなくとも「それ自身で」という意味です。成績や所得や地位が高いかどうかではなく、その人がその人として生きていることが尊いということです。身につけた技能や能力が尊いというのではありません。

 私たちは、自分のありのままの「いのち」の尊さに改めて目覚めるとともに、支え合い、尊び合う、互いの「いのち」に「ありがとう」と感謝し合いたいものです。

平成29年4月のご挨拶

人身受け難し、今すでに受く

朝晩は少し肌寒さを感じますが、ようやく新旭町にも春がやってきました。例年より少し遅れているようですが各地から桜の花便りが聞かれる季節となりました。皆様はお変わりありませんでしょうか。

 さて、皆さんは御法話を聴聞する時に、講師の先生とともに「三帰依文」を唱和されると思います。この「三帰依文」の最初の文が「人身受け難し今すでに受く」という言葉です。「三帰依文」の最初に、まずいのちを頂いていることと、法に出遇っていることの感動があらわれていると思います。しかし、唱えている自分自身は本当に「人身受け難し、今すでに受く」という感動を持っているかということが問われてきます。「人身」を受けるということは、「人」としてのいのちを頂くということでしょう。

 先日、百回忌の法事を依頼され、本堂でのお勤めをさせていただきました。百年前に亡くなった方とは、一緒に暮らしたことも、話をしたことも無いのですが、亡き人のご縁をいただいて念仏が口から出て下さるのです。間違いなく百年前の方のおはたらきに出会っていると感じました。「私のいのち」は過去幾千万の人たちから運ばれたいのちであり、現在地球上のあらゆる人々との繋がりの中で支えられているいのちなのです。本当に「人身を受ける」ということはただ自分が生まれ、生活していることだけにとどまるものではないのでしょう。「人身を受ける」ということは、実は「自分になる」「自分を賜る」ということを抜きにすることはできないはずです。それは、「人身受け難し、今すでに受く」と示されていますが、私たちは「自分に生まれた」「自分としての身を頂いた」ということを喜びとしているか、また「自分を賜った」ことに対する責任を果たしているかということが問題になります。「人間は一生かかって誰かになるのではない。自分が自分になるのである。」という言葉がありますが、自分になることへの道と、本当に自分に満足する道は、仏法に出遇わなければ求めることができないと感じます。日々の生活の中で仏法を聞き、念仏を称えることが「自分になる」ことだと頂いています。

春の彼岸会が勤まりました

3月20日の彼岸の中日に藤本愛吉先生をお迎えして、春の彼岸会が勤まりました。沢山の御門徒が参拝下さり、本堂いっぱいに正信偈の声が響きわたりました。ともに声を出してお勤めをすることの喜びを改めて感じることができました。ご法話下さった藤本愛吉先生は、先生自身のご病気を通して感じられた「いのちの願い」についてお話し下さいました。あたたかさと喜びのある彼岸会となりました。

clip_image002

clip_image002[4]

他力とは如来よりたまわりたる信心です

浄土真宗の教えを一言で表すことは大変難しいことですが、大切な一点は、「他力」を頂く教えだということです。「他力」という言葉を誤解して用いられる方もおられます。以前、国会での答弁で、「自分の国のことは自分でしなければならぬ、他力本願では駄目だ」と発言されたことがありました。このように、自分の力だけでは間に合わないために、他の力を当てにすることだと誤解している人がいます。その誤解の原因は、すべてのことは自分中心に行われており、自分の思いどおりにできるという心があるからです。また、自分が努力すれば思いを実現できると考えています。この様な考えを「自力」というのです。 親鸞聖人は「自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。」(『一念多念文意』)と示されています。この言葉に出会いますと、まさに自分の思い通りにしようとしている自分の姿が明らかにされるのです。

 一方「他力」という言葉について親鸞聖人は、他の力を借りるという依頼心という意味で用いられたわけではありません。歎異抄には「如来よりたまわりたる信心」と示して下さっています。また「往生は、なにごともなにごとも、凡夫(ぼんぶ)のはからいならず、如来の御(おん)ちかいに、まかせまいらせたればこそ、他力にてはそうらえ」(『御消息集』)。と説いて下さっています。

 私たちは、大きな力に支えられて生きているのです。一人ひとりのいのちが与えられ、互いに支え合って生きています。吐く息、吸う息、ひとつとしてわが力でできるものではありません。他力は、その自覚の宗教的表現であるといえます。

 また他力の世界は、努力が必要ないと誤解される人がいます。受験で合格した場合は「自分が一生懸命に頑張ったからだ」と思います。しかし、一生懸命に努力できる条件(他力)があったからこそ努力できたのではないでしょうか。 

 法語には「他力の生活は最後まで、努力せずには おれない生活です」宮城 顗(みやぎ しずか)とあります。よくよく考えてみると、私を支えている大きな力(家族や様々な人)のはたらき、私にかけられた大きな願い(本願)に出遇うと、自分の力ではなかったと気づくのです。南無阿弥陀仏の念仏を頂くと、思い通りにしようとしていた私が、すでに大きな力(如来)の働きによって、思い通りになっていたのです。

 他力に生きるということを藤原鉄乗師が「念仏十唱」という詩で紹介して下さっています。

  春なれや 宇宙万有ことごとく よみがえるなり 南無阿弥陀仏。

  み仏の誓いなりせば 草も木も芽ぶき立ちつつ 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 咲く花も小鳥の声も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 生も死も三世十方 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば大空に かがやく星も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば悪逆の 提婆・阿闍世も 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば 世々少々の四海同朋 南無阿弥陀仏

  み仏の誓いなりせば われも人も 六種四生 南無阿弥陀仏

 この詩を読んでいると、大きな世界に出会わせて頂きます。

平成29年3月のご挨拶

法語日めくりカレンダ-の4日のペ-ジには「人生には無駄なことは何一つありません」という言葉が載っています。私はこの言葉を見たとき、本当だろうかと考えてしまうのです。その理由は、私の生活では沢山の無駄があるように感じるからです。例えば時間を大切に使っているかといえば、なんとなく一日が過ぎたという日があり、時間を無駄にしてしまったと感じることがあります。皆さんはどうでしょうか。

 「無駄」という言葉を辞書で調べますと、「役に立たないこと。効果・効力が無いこと」と示されています。またその後には実に多くの慣用句が載っています。例を挙げますと、「無駄骨を折る。無駄口をたたく。無駄足を踏む。無駄話をする。無駄飯を食う」などです。

 沢山の無駄に関する言葉がある理由は、それだけ人が生活をするためには、無駄との関係が深いということでしょう。しかし、よく考えてみると、どんな人も始めから無駄をつくろうと考えて行動する人はいないはずです。行動した結果が、無駄になったと感じるのです。若い頃に少し困難なことに出会うと、どうせやっても無駄だと決めつけて、物事から逃げていたこともありました。

 仏法に出遇うと、無駄なことは何一つ無いんだと教えられます。逆に、無駄を作り、無駄と決めつけている自分が映し出されるのです。行動する前から「無駄になるとか、無駄にならない」ということにこだわりますが、大切なことは無駄になってもいいから、一生懸命に取り組むことだと教えられるのです。

 無駄を省くことも大切ですが、無駄を楽しむこともまた大切ではないでしょうか。