1月25日・26日の寒波で高島地方も大雪になりました。26日は早朝より総代さん5名の方が雪かきに出て下さり、本堂前の参道と駐車場を除雪して下さいました。しかし今回の雪は日中でも降り続いているため、せっかく開けて頂いた参道も雪で埋まっています。写真は雪化粧した本堂です。今回の寒波では日本全国を雪ですっぽり包んでしまったようです。皆さんの地域ではどうですか。雪で転倒などされないようにお気を付け下さい。

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1月のご挨拶
あけまして おめでとうございます
皆様には昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。今年は10月に親鸞聖人750回御遠忌法要を勤めさせて頂きます。皆様には何かとお世話になりますが、どうぞよろしくお願い致します。今年一年、皆様にとりまして仏法との出遇いの年になることを念願しております。
さて、私には有難いことに、二人の孫がおります。外孫は4歳になる男の子で、内孫は1歳7ヶ月の女の子です。日頃は1歳7ヶ月の孫と接する時間があり、大変楽しい時間を頂いております。孫の生活を見ておりますと、本当に毎日が楽しくて仕方がないというように感じられます。部屋にあるものは何でも興味を持ち、孫の手にかかればなんでも「おもちゃに変身」してしまいます。テレビが始まれば、一緒に歌い、踊り出します。まるでテレビの中に入ったように、番組と一体になっているのです。時間になれば食事をしますが、にこにこしながら、一口食べては「おいちーい」を連発し、みんなを和ませてくれています。水を飲んでも、お茶を飲んでも、「おいちーい」と言う声を聞くと、本当に新鮮だなぁと感じます。 1歳7ヶ月の孫はいろいろなことを64歳の私に教えてくれています。一番教えられることは、「一日一日を精一杯楽しんで生きる」ということでしょう。そして、「どんなささやかなことにも感動して生きる」ということでしょう。何を食べても、何を経験してもだんだん感動が乏しくなっている私が、にこにこ楽しみながら食事し、生活をすることの大切さを知らされるのです。一日一日の孫との時間を大切にしながら、私自身の乏しくなった心をリフレッシュする機会にしたいと思います。
新しい 年を迎えました。今年度の年回表は元日に本堂に掲示いたします。今年度の年忌法要については次の通りです。
1周忌・・・平成29年没 3回忌・・・平成28年没 7回忌・・・平成24年没 13回忌・・・平成18年没 17回忌・・・平成14年没 25回忌・・・平成 6年没 33回忌・・・昭和61年没 50回忌・・・昭和44年没 100回忌・・・大正 8年没 |
遠方の方で、亡き方の年忌についてご確認されたい方は、お命日と法名を伝えていただければ、お調べできます。また、年忌法要を勤められる場合は、御希望の期日を早めにお知らせ下されば日程を調整することが出来ます。今年は10月に御遠忌法要が勤まります関係で、あらかじめ行事が入っておりますのでご理解下さい。
報恩講が勤まりました
報恩講の準備ができました
平成29年12月のご挨拶
出遇い
今年のカレンダーも最後の1枚となりました。皆様はお風邪など召しておられませんか。我が家では住職が大風邪を引き、声も出にくいので、皆お互いにトーンを下げて会話をしております。そのため、テレビの音量も自ずと下げるようになり、これもまた、なかなかいいものです。日頃、いかに雑音に多くのものを奪われているか、ということに気づかされます。
さて、皆様はご本山の報恩講にはお参りされましたでしょうか。毎年 11月21日から28日までお勤まりになり、私どもも22日にお参りさせて頂きました。全国各地からのバスが並び、参拝の方々で境内まで埋め尽くされ、御影堂では、冷え込む中もお念仏の声が響き渡っておりました。親鸞聖人が11月28日にご生涯を閉じられてから、756年の歳月を経たわけですが、毎年、真宗寺院において勤まる報恩講は、聖人のみ教えに出遇い、私達の「出離生死」ということを明らかにする、一年で最も大切なものであることを、改めて実感させられます。私達真宗門徒が、お命日の月である「霜月」に「御」の字を付けて「お霜月」と呼んできたことからも、全国から京都のご本山へと多くの方々が足を運ばれた歴史がうかがえます。
親鸞聖人は、「値遇」と呼ばれる法然上人とのお出遇いによってみ教えに出遇われましたが、私自身はどうなのかと、ふと思います。皆様はどうでしょうか。特別なお出遇いをどなたかとしておられるでしょうか。これまで私は、お二人のお出遇いは特別なので質が違うと思ってきましたが、もしかすると、もうとっくに出会っていたのではないか、せっかく出会っていたのに「出遇い」になるはずの数々の大切な場を上滑り(?)してきたのではないかと感じてしまいます。物心ついた頃から当たり前のように聖人のみ教えに触れ(ているつもりで)、熱心にお聴聞されるご門徒のお念仏を浴びてきました。それぞれの家庭のこと、仕事のこと、地域のことなど、気に掛かることが沢山ある中、お寺に足を運んでは「これこそが一大事」と、お聴聞にいそしんでこられた、その姿に出遇ってきてはいなかったのでしょうか。本堂や境内のお掃除、お磨き、お斎作り、聞法会のお世話係、と労を惜しまず尽くされた方々、お念仏を喜んでお浄土に還られた方々に出遇ってきたのではなかったか、と感じるのです。思い起こせば14年前に還浄した前住職の言葉が甦ります。「今年もありがたいことに報恩講に出遇わせてもろた」その重みを今、現住職とともにかみしめています。
ご案内しましたように即得寺では、12月8日から3日間、報恩講が勤まりますので、ご遠方の方も是非お出遇いください。 (坊守)
同朋会一日研修旅行に行ってきました
平成29年11月のご挨拶
時の速さ
11月を迎え、だんだんと秋の深まりを感じる季節となりました。朝晩の冷え込みにより体調など崩しておられませんか。これから日に日に広葉樹が色づく頃となります。お天気のよい日には外出して、季節の移り変わりを感じるのもよいと思います。
さて、皆さんは時の経つ速さを感じられることはないでしょうか。日常的には、面白い時楽しい時は早く時間が過ぎ、苦しい時嫌な時はゆっくり過ぎると感じることがあります。しかしそれとは別に、過ぎ去った一年の速さに驚かされるということがあります。
蓮如上人はお亡くなりになる一年前の84才の時に御文(四帖目第4通)に「さて、秋も去り春も去って年月を送り、昨日も過ぎ、今日も過ぎてゆきます。いつの間に老いの年を重ねたのでしょうか、何とも気づかずに暮らしてきました。それでもその間は花鳥風月を愛でて楽しんだこともあったでしょうし、また、病の苦痛に一喜一憂したこともあったでしょう。ですが、学んできたことも、経験したことも、みな夢のように過ぎてしまいました。」と述べておられます。
今年のカレンダ-も残すところ2枚となりました。この一年を振り返ってみると、忙しいといって目の前のことに追われいるだけではなかったかという思いが残ります。本当はどう生きたいのか。どう生きたら自分の人生に満足し、頷くことができるのでしょうか。カレンダ-の法語には「人生はやり直しが利かないんだ。利かないけれど、見直しのチャンスなんだ。」とあります。自己の欲を満たすことが人生の満足ということではないのでしょう。楽を求め、苦から逃げている私自身に、「本当にそれでよいのか。」と問い続けて下さる声に出遇うことこそ大切だと感じます。自分に与えられた人生を、一生懸命に生きる(生かされる)ときに、大切なことに出遇えるのでしょう。
平成29年10月のご挨拶
掃除
9月は台風18号が上陸し、各地に被害をもたらしました。皆さんのお住まいの地域はどうでしたか。お寺は幸いなことに大きな被害を受けることはありませんでした。全国各地で豪雨による水害や強風による被害が伝えられています。被災
された方にお見舞いを申し上げます。
さて今回の台風の影響で、9月17日(日)に予定していた大掃除を、一日繰り上げて16日(土)に実施しました。今回の台風は大雨をもたらしましたが、16日も朝からの雨の中、深溝の御門徒や総代さん方とともに掃除に汗を流しました。また、台風の後始末も兼ねて23日の御彼岸会の午前中に再び総代の皆さんと共に境内と庭の掃除を行いました。写真は、カッパを着用しての掃除の様子と彼岸会前のきれいになった境内の様子です。
掃除をするときにいつも思い起こされるのは、お釈迦様の弟子の周利槃特(チュ-ラ・パンダカ)の話です。物覚えの悪い周利槃特は、修行をする力もなく、文章を覚えることもできず、仏道をあきらめていましたが、お釈迦様の御説法で悟りを開くことができたのです。お釈迦様は周利槃特に箒を一本わたし、「これからは、この箒で掃除をしながら『塵を払わん、垢を除かん』と唱えなさい」とおっしゃり、周利槃特は来る日も来る日も箒を持ち掃除に励んでおりました。やがて、周利槃特は『塵を払わん、垢を除かん』ということを「自分の心の塵、心の垢」と自覚し悟りを開かれたのです。
掃除を進んで行うことはなかなかできませんが、掃除が仏事であるといただけると大事なご縁であると頷けるのです。「ここが一番いいところ ここが一番大事なところ」といただくと、清浄なる場(浄土)を求めずにはおれないのです。
平成29年9月のご挨拶
友との再会
朝晩は少し涼しさを感じる頃となりました。今年はむしむしと湿度が高く、夏らしい空が晴れ渡るという日がないままに夏が終わろうとしています。皆様はお変わりありませんでしょうか。
さて、皆さんは「同窓会」に参加されることはないでしょうか。7月のある日、我が家の郵便受けに一通の手紙が配達されました。差出人を見るとそこには懐かしい大学時代の友人の名前がありました。急いで開封すると、久しぶりに「同窓会」を開催するという案内だったのです。考えてみると15年ぐらい前に集まって以来の出会いです。(5年前に同窓会は開催されましたが私用のため欠席しました)当日の予定を確認すると、幸い予定が入っていません。早速返信用のはがきの出欠欄に〇印を記入し、返送いたしました。8月が終わり9月を迎えるといよいよ「同窓会」の日が近づいてきました。誰が参加するのか、何人参加するのかなどの不安な心は少しありましたが、JRの切符の手配をして小旅行に出かけました。会場では幹事のIさんが笑顔で迎えてくれ、その瞬間に大学生に戻った気分でした。ロビ-には早く着いた同窓生の友人たちが迎えてくれたのですが、卒業以来初めて出会う方もあり、懐かしさを感じました。ただ、参加者全員の顔が分かったわけではなかったのです。なんか見覚えのある顔だなぁと感じていたのですが、名前が出てこないのです。同窓生の中には、私の顔が分からない人もあり、お互い様でした。
40数年という時間は、私にとっては決して短い時間ではありません。その間、就職して働き始め、結婚し、子供を育て、その子供が結婚し、また親を亡くし・・・と今振り返ってみると本当に様々なことがあった40数年です。しかし同窓会とは不思議なもので時間の長さがなくなり、昨日まで一緒にいた様な身近さを感じるのです。文字通り「タイムスリップ」をしているのでしょう。同窓生の一人ひとりの精一杯生きている姿に接し、私自身も元気をもらったように感じました。参加した方とはもちろんのこと、今回都合で参加できなかった方や亡くなった方とも友人との会話を通じてお出会いできたと感じました。
仲間とは出遇い続けるから「仲間」であると思うのです。そして20歳の時に見えなかったことが、40年という時を経て新しい出遇い生みだしてくれたのです。次回は3年後に再会することを約束して、同窓会の地を後にしました。
平成29年8月のご挨拶
「父の御命日を迎えて」
昨年の8月に私の実父が還浄し、一年が過ぎました。振り返ってみるともう一年がたったんだなぁと時の速さに驚いています。御命日の朝、大鐘を撞いた後で、坊守とともに本堂に座り手を合わせました。父が亡くなる半年前からは一日おきに坊守がス-プを作り、水筒に詰めてマキノまで運んでいたのが思い出されます。時には喜んで食べてくれたこと、時には熱が出てしんどそうな状態だったこと。父の状態の変化に、喜んだり不安になったりの私たちでした。一年という時間の経過はいろいろな場面での父との出会いを感じさせられるものでした。特に住職として用務を行うときや、家族との会話の中にも父のはたらきを感じるのです。いつも父はこんな時にはどうしただろうと思うとともに、父が何を大切にしていたかを知らされるのです。そして、私の考えの行き着く先は常に、父は偉大であったということと同時に、父は優しかったということです。
伊藤元先生の「ご法事を縁として」という本(東本願寺出版)には(「人はどんな力をもっているのか」や「どういう行いをしたのか」ということが重要だと思うかもしれませんが、もっと大事なことは、「どういう存在であったか」ということが大きいと思うのです。)とあります。亡き人の人柄も大切な思い出ですが、亡き人が自分にとってどのような存在であるのかということが改めて問われるのです。常に自分のことを願い続けてくれていた父であったということに頷けるのです。
今年の「和讃講」で恩徳讃を歌ったときに、小学2年生の子どもさんから次のような質問を受けました。「ねぇ 先生、骨を砕きても、謝すべし。ってどういうことですか」と尋ねられたのです。そのときは小学校2年生に分かるようにどう説明すべきかを考え、とっさに答えることができませんでした。改めて恩徳讃に触れると、「身を粉にしても・・・」「骨を砕きても・・・」という言葉に気づくのです。出遇ったことの大きさや尊さに気づく。その人の存在の大きさに出遇うということが、身を捨ててでも報ずることであると知らされたのです。