令和3年8月16日 朝9時より門徒の皆様とともに盂蘭盆会をお勤めしました。正信偈のお勤めの後、住職より法話をいたしました。コロナ感染防止のため、座席の間隔を取り、本堂のガラス戸を解放して換気に努めました。今回からはお茶の接待の代わりにペットボトルのお茶を参拝して下さった皆様に配布いたしました。コロナの感染が拡大する不安の中で、ようこそお参り下さいました。
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お磨きをしました。
お盆前の大掃除をしました。
夏休みの和讃講(子ども会)をはじめました。
バラが咲きました。
大掃除を行いました。
5月15日(土)に「五月の大掃除」を実施しました。当日は曇り空でしたが、暑くもなく寒くもなく、天候に恵まれ作業を進めることができました。今回は、森・安北・新庄の門徒の皆様と総代、女性世話方にご参加頂きました。
8時30分の挨拶の後、境内を中心に清掃し、本堂西側の庭の掃除を行いました。10時前に女性世話方さんの接待による冷たいお茶でのどを潤しました。休憩後は皆さんが雑巾を持ち本堂の縁やガラス戸を掃除して頂きました。新型コロナ感染の影響で、なかなか外出ができず、また門徒同士の方がお互いに出会う機会が少なくなっていましたが、この大掃除ではマスクをしながら、皆さんとの会話も弾みました。写真は大掃除後に皆さんとともに記念写真を撮りました。
休日のご予定の多い中で、大掃除に参加して頂きましたご門徒の皆様に心から感謝申し上げます。
令和3年5月のご挨拶
「畜生」
一年以上経過しても新型コロナの感染は衰えるどころか、変異株が新たな感染を引き起こしています。皆様はいかがお過ごしですか。
さて、浅田正作さんの「畜生」という詩があります。
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交差点に差しかかったら 信号が黄色にかわった ブレ-キを踏みながら 「チクショウ」と言った あさましや 畜生は 仏法聴聞にゆく 車のなかにいた |
仏法では、「地獄・餓鬼・畜生」を三悪趣として苦しみの重さが説かれています。仏法に出遇うことによって明らかになる人間の姿が示されていると思います。その中で「畜生」とは、インドの(チィルヤンチュ)という言葉がもとで、繋がれて自由のない苦しみを表しています。宮城顗先生の本(「地獄と極楽」東本願寺出版)には畜生について「いつも他人にくっついて生きている。他人にもたれかかって生きているという在り方が畜生ということです。そのことから申しますと、畜生のもとにありますのは、人生に対する甘えでございます。人生に対して甘え、自分に対して甘えるという。そういうものが、また他人に対して一番に腹を立てている。甘えて育てられた子ほど、わがままな道理です。畜生というと、そこに争うということが出てくるのですけれども、その争いのもとにあるものは、実は甘えであります。・・・略・・・一口で言えば甘えるということですが、それは自分の要求をするばかりで、そこに本当に人に聞き、人のことを思うという、そういう心の配慮を持っていない在り方を表すものといえます。・・・略・・・ある人が〈人間の教養とは、常に相手のことを心の中に入れて考え、行為していける力をいうのである。どれだけ知識を身につけようとも、自分の周りの人のことを心の中に入れられないのは、教養がないのだ〉とおっしゃっていました。」と記されています。
仏教に出遇うということは、私自身の「畜生」の在り方を止めるということではないのでしょう。今まで無自覚に行っていた生き方全体が、実は「畜生」と示されているそのものであったと気付かされることです。コロナ感染の中で、ウイルスを敵と見なし、ウイルスを人間の力で封じ込めることができると考えているところに実は人間の傲慢性が見えてくるのではないでしょうか。コロナは、私の差別心と懺悔心、いのちの問題、感謝の心など様々なことを問うてくれています。人間としての「教養」を失ったときに、私は「畜生」となっているのではないでしょか。
春彼岸会法要を勤修いたしました。
3月21日に、逮夜は午後2時より、初夜は午後7時30分よりお勤めいたしました。コロナ感染が心配される中、ご門徒の皆さんがお参りくださるかを心配していましたが、写真のとおり沢山の方々が参加してくださいました。マスクを持参して頂き、本堂に入る前にアルコ-ル消毒をお願いし、ソーシャルディスタンスを確保しながらコロナ感染拡大防止に努めました。本堂では常に換気を行い、法話の休憩時間に後方のガラス戸を開放して換気を行いました。また、万が一のために参加者には御氏名連絡先を記入して頂きました。
今回は准坊守の大谷派教師補任の奉告法要を兼ねての法要で、勤行後に准坊守よりご門徒の皆様にご挨拶をさせて頂きました。准坊守は「皆様とともにお念仏をいただき、お聴聞する道を歩ませていただきたい」と決意を述べました。どうぞ皆様、お育てくださいますようお願いいたします。
今回の御法話は三重教区の藤本愛吉先生が「呼びかけに応えて」と題してお話下さいました。日常生活の中で真宗の教えに出遇うとはどのようなことかをわかりやすく教えて頂きました。印象に残った先生の言葉は「タンポポは落ちたところに花開く」です。今頂いているご縁に、しっかりと向き合いたいです。
准坊守が「大谷派教師資格」を取得しました。
真宗大谷派(東本願寺)では僧侶となるために得度式(僧籍を与えられる)を受けます。その後、教法をひろめ、儀式を執行する資格を有するためには、教師資格が必要となります。
この度、准坊守(惟奈)が昨年の8月に教師検定試験に合格し、教師の任命を受けるために必要となる本山での修練を修了して教師に補任(教師資格の取得)されました。前期修練(7泊8日)は昨年9月に受講、後期修練(7泊8日)は今年1月に受講しました。
即得寺においては、現在の坊守(睦美)も平成24年に検定試験に合格し、前期、後期修練を受講して平成25年に教師に補任されています。
今後とも、皆さまと共に聴聞して参りたく存じます。
令和3年3月のご挨拶
死を通じて「不思議」に出遇う
私たちは日々の生活の中で、様々な人の死に出遇います。その中でも身近な人の死に出遇うと、「あんなに元気であったのに」「なぜ死んでしまったのか」という思いが込み上げてきます。大切な人が亡くなったという喪失感と無常を感じます。
また、身近な人が亡くなって初めて、生きていること自体が奇跡だったのだと気付かされ、当たり前だと思っていたことが、本当に不思議なことであったと気付かされます。
不思議とは事実である
不思議ということについて、宮城顗先生は「不思議というのは摩訶不思議ということではないのだ。仏教の不思議は、ありえないようなことが起こることではないのだ。仏教の不思議というのは、事実なのだ」とおっしゃっています。皆さんは、不思議をどんな時に感じられますか。思ってもいなかった出来事に遭遇したときでしょうか。また、超能力などの現象でしょうか。これらは自分の思ってもみなかったことを理由に「不思議」と思い込んでいるのです。しかし仏教では「事実」であると示されています。その事実の根本は、「今、生きているという事実です。」自分が自分として生きている、存在しているという事実です。
亡き人の声を聞く
親、子ども、配偶者、兄弟姉妹など最も身近であった人が亡くなった時は、その人が生きておられた「不思議」と出遇ってきたことを知らされるのです。 そこで私たち自身の問題となってくることは、亡き人の「人生」から何をいただいていくか、ということではないでしょうか。「願い」に耳を傾け安心して生活できる「心の立脚地」を確かなものにしていかなくてはなりません。『正信偈』には、「本当の願いを信じ、念仏申せば浄土に生まれる」(憶念弥陀仏本願 自然即時入必定)と書かれています。
今こそ念仏を相続し、ご一緒に聞法してまいりましょう。
